062
幾度となく、その誘惑に負けそうになる。
しかしそれがいかに安易で安直で、唾棄すべき下劣な行為であるかという事を知っている。数ある訓戒には全て、重く深い意味があるのだ。それは我々の自戒でもある。守り人の長い歴史の中で繰り返された悲劇に基づくその戒めを、あえて破ろうとする愚かな者はいない。
ヨーコと会う日は二日後になった、とユイネは言った。
「はあっ。ど、どうしよう。もう緊張しちゃって」
いくらか頬を上気させてユイネが嬉しそうに微笑む。俺はその笑顔に見惚れながら、ゆっくりと椅子に深くもたれた。あまりの衝撃に、身体がぐらぐらとして支えきれない。
たとえば人を、自らの思い通りに動かす事さえ可能なのだ。相手の心を支配すれば良い。この異能の力を持ってすれば、欲しいものなど簡単に手に入れる事が出来る。しかしその傲慢な私欲に屈した歴史が語っているのは、目を覆いたくなるような凄惨な結果だけだった。
圧倒的な支配力を持つ脅威の力を一番に恐れているのは、他でもない。守り人自身だ。
何故、ささやかな願いさえ叶わないのか。俺は世界を統べる神のはずだ。否、所詮は化け物に過ぎないという事か。
ヨーコが見つかった時点で、全てが終わる。
「それで私、少し考えたんです。とりあえず、最初に私がヨーコさんに会って事情を説明するっていうのでどうでしょう?」
勢い込む相手をぼんやりと眺める。穏やかな線を描く唇に視線がいきそうになって目を逸らした。その桃色の唇が柔らかかった感触を思い出し、慌てて顔を真横に向ける。
「……そんなもの、何とでも出来る。お前の手を借りずともな」
「えっ。……あ、そ、そうですか……」
今更ヨーコと会ったところで、何も変わらない。ヨーコが俺の事を覚えていてもいなくても、結果は同じだ。
ヨーコを半身にはしない。俺は俺の、いるべき世界へ帰るだけだ。
「あ、あの……楽しみですね! ヨーコさんすっごい美人さんになってるかな……。ヒロさんの話だと今独身で、付き合ってる人もいないらしいんです。あ、それに私の事も覚えていてくれてるみたいだから、きっとタロさんの事も」
楽しそうな声に俺は思わずユイネを睨みつけた。びくっと両肩を持ち上げ目をまん丸にして、小動物のような動作で怯える。それからおそるおそる、といった風で呟いた。
「タ、タロさん? ……なんか怒ってます?」
「怒っとらんわ!」
大声を上げてしまってから心の中で舌打ちをした。見るまでもなく、テルが視線で俺を責める。
「……少し疲れているだけだ」
「あ、そうですよね……。扉を閉じたり開いたりするのって大変なんですよね。す、すみません。私ばっかり浮かれちゃって」
ユイネは俺の言葉に眉を下げてしゅんとして、それから思いついたように立ち上がった。
「分かりましたっ。タロさん! 気をっ。気を受け取ってください」
……まずい。
「ユイネありがとっ。じゃあ僕がもらおうかな」
テルがすかさずそう告げるが、ユイネはふるふると首を振って続けた。
「タロさんすごく疲れてるみたいだから、直接気を届けた方が良いよね」
ユイネのその気持ちは舞い上がる程、嬉しい。だが今はそれが余計に俺をジレンマに突き落とす。
そうだ。俺はお前の気に触れて、お前の気で全身を満たされたい。きっと脳髄を貫くような幸福感に包まれるだろう。ユイネの柔らかな身体を抱き締めたい。花のような香りを胸一杯に吸い込みたい。その魂の鼓動を、自分の肌でじかに感じられたら……。何という至福の時だろうか。心臓が高鳴る。
まずい。まずいぞ……。
今ユイネに触れたら、俺は発狂する。
「い、いやっ! 俺はもう寝る!」
慌てて席を立ち、振り返らずに寝室へと向かった。
ヨーコと再会した時点で、全てが終わる。俺がここにいる理由がなくなるからだ。俺がユイネの傍にいる為の、その根拠が足元から崩壊する。そうだろう、ユイネ。
お前はやっと理不尽な束縛から解放されるわけだ。
だからそんなに喜んでいるんだろう?
寝室の暗い天井を見上げ、深いため息を落とした。
*
俺の煩悶とは裏腹にユイネは今までと何ら変わりなく、むしろいつもより僅かに少しだけ、機嫌が良さそうだった。
翌朝から普段通りの時間に起きて仕事へ向かい、夜には帰宅して夕餉を囲む。今朝方『負』の子供が一緒に仕事場へ行くと言って駄々をこねていたが、ユイネに諭されるとふてくされながらも頷いた。ユイネのいない日中は意外にも大人しくしていた。
テルの作った料理を前に、ユイネはとても真摯に食事を進めていく。一生懸命に口を動かし、全身全霊で味わう姿は相変わらずだ。こいつが食べているものは何でも、ものすごく旨そうに見えるから不思議である。テルがそんなユイネを見て目を細めて笑った。
「ユイネ、美味しい?」
ユイネは気の抜けた笑顔で答える。
「うん。すごく美味しい。いつもありがとう。テル君」
「ふふ。僕、ユイネが食べてくれるのとっても嬉しいんだ。だってこいつはさ、ばくばく食べるだけであんまり味わってないんだよ。絶対」
こいつ、と言ってテルがちらりと俺を見た。
「そんな事はない」
「ほんとかなあ。感想とか聞いた事ないけど?」
「タロさんて質より量って感じですもんね」
「おい。お前らなあ……」
俺がユイネとテルに向けて説教しようとした時、視界の隅に小さな手がよぎったのが見えた。あろう事か、『負』の子供が俺の皿からクリームコロッケを手づかみで取り上げてもぐもぐと頬張っている。
「貴様ッ!」
「ふーちゃん、手づかみは駄目だよ。熱くない? 大丈夫?」
「うん! おいちいねっ。ゆいね」
「それは俺のクリームコロッケだぞっ。『負』の分際で生意気な! 今すぐに消してやる」
「……タロさん。大人げないです。私のあげますから」
くそっ。ひどく負けた気がするのは何故だ。ユイネが柔らかく笑いながら俺の皿にそっと目当ての品を乗せた。
「む……」
「テル君のお手製ですもんね。ほんとに美味しいから、食べれないのは残念ですもんね」
おいユイネ。さりげなく俺のフォローをするな。余計に恥ずかしいぞ。
「あ、そうか……。テル君に料理習っておけば良かったな……」
ぽつりと落とした呟きが胸に突き刺さった。俺とテルはぐっと声を飲む。
──ユイネの為ならいつだって作ってあげるのに。本当だよ。ユイネ。ねえユイネ。だから僕らを選んでよ。ヨーコと会うの、やめるって言って。ずっと僕らと一緒にいたいって、言って──
「ヨーコさんにもうんと美味しいもの、作ってあげてね」
心の声は届かない。ユイネの優しい笑顔を見つめてテルは微笑んだ。
「うん。そうだね……」
あと僅かしか残されていないユイネとの貴重な時を、『負』の子供はことごとく邪魔してくる。朝も夜もユイネにべったりと張り付いて、今も風呂上がりのユイネを捕まえてソファで仲良くテレビを見ている。あまつさえユイネの膝の上に居座り、こそこそと何かを囁き合っている。俺はそれを背後のテーブル席から、『負』など消えてしまえと念じながら睨みつけた。
「ふーちゃん。ほんと? ほんとに?」
「うんっ。ほんと! ほんとだよ!」
「おい! 何が本当なんだ」
俺の声に『負』の子供はむっとした顔をして、真っ赤な舌を突き出した。
「たろにはおしえなーい」
「なにぃっ! ユイネ!」
「ふふっ。タロさんには内緒です」
く……許さんッ!!
もう我慢ならん。ユイネは俺のものだ。今は、今だけはそれで良い。とにかく思い切り抱き締めてやろうと思い席を立つ。するとユイネが不安げな表情で俺を見上げた。
「あの……タロさん……ずっと怒ってます? どうしたんですか?」
悲しい声にぎくりとする。じっと俺を見つめるユイネの瞳が寂しそうに見えた。それでやっと分かった。俺の態度がユイネを悲しませている事に。
「私、何かしたんなら謝ります。だから、あの……」
「……阿呆。怒っとらん」
俺は息を吐いて笑った。腕を伸ばし、ユイネの小さな頭に触れる。お前を悲しませたくない。それは何を置いてもまず一番に、優先すべき事だ。
「まあたしかにその『負』が邪魔だとは思うがな。俺は神だから心が広い。感謝しろ」
こわばっていたユイネの表情が、ふにゃりと緩くなる。触れている部分から優しい鼓動が伝わる。柔らかな気の感触が心地良く、ささくれだっていた俺の心もふっくらと膨らんでいく。
「あ。ヨーコさんと十八年ぶりに会えるから、緊張して……?」
「……ふん。そうかも知れん」
「タロさんて意外と乙女ですもんね」
「お前は最近一言多い」
「あっ。すみません」
ほにょ、と笑うユイネ。それにつられて俺もまた笑った。ああそうか……。
唯音。
お前の為に、俺が出来る事は一体どれだけあるんだろうな。