052
「なんだかんだいっても、男の人ってメンクイなんですよっ」
「めんくい? 何語だ」
「だから面食いです! ジィナさんも綺麗な人だったし、ヨーコさんだって美少女ですよ!? あーやらしいっ」
ぶっと噴き出して笑ってしまった。色々あるだろうにそんな感想を口にするあたり、酔っ払いの戯言である。
「くく……たしかにそうかも知れんな。その点お前は地味な顔をしているぞ」
わざとそう言ってやるとユイネは口をとがらせて俺を睨んだあと、にやりと不気味な笑みを浮かべた。
「良いですよっ。私はべつに美人に憧れたりしてませんからっ」
「ほう。珍しいな」
「だって大変ですよう。綺麗だと目立つし苦労しますもん。麗奈ちゃんも大変だって言ってます」
それから大きなため息をついて顔を横に向け、ぼうっと遠くを見つめて黙り込んだ。俺はそんな酔っ払いを肴に静かにグラスを傾ける。何故だかひどく居心地が良い。
「……タロさん。後悔してますか。ジィナさんの記憶を消した事」
穏やかでしっかりとした声音で、ユイネがさらりと言った。だからだろう。俺も意外にすんなりと答える事が出来た。
「いいや。していない」
「なら、良いんです」
酔っ払いの横顔は頬がほんのりと赤く、肩に垂らした焦茶の髪は灯に輝いて、とてもあたたかそうに見える。
……不思議だ。こいつは、たった一言で俺の傷を癒した。
「私がとやかく言う事ではないですから……。何が良くなかったとか、こうすれば良かったとか、そんな事じゃないんです。だってそうでしょう。必死だったんだから」
僅かに顔を俯かせ、片手を額に当ててゆるりと首をふる。
「でも……本当は、分からないんです。だって私は……。あんな風に切ないくらいに、誰かを好きになった事がないから……」
ユイネはゆっくりとまばたきをしてこちらに向き直り、真っ直ぐに俺の目を見つめてきた。少しだけ身を乗り出す格好で、じっと、食い入るように見つめてくる。いや、見つめるというよりは睨んでいる。
どく、と俺の心臓が鳴った。
酔っ払いの据わった目に睨まれているだけだというのに何をときめいているのだ。阿呆か俺は。くそ。怯むな。相手はユイネだぞ。
「タロさんっ!」
「うおっ」
心臓が口から飛び出そうな程驚き、思わず声を上げてしまった。
「な、なんだ」
「よんひゃくねんまえの失恋をー、いつまで引きずってるつもりですか! タロさんは良い男です! 男前なんですっ! もっと自信を持ちなさいっ」
呆然とする俺をよそにユイネは鼻息荒く席を立った。両手を腰に当てて仁王立ちをして、その上俺を睥睨する。あり得ない。あの気弱なぐにゃぐにゃユイネからしてみれば、これはもう酒乱の域だ。
「良いですか! 私が必ずヨーコさんを見つけ出しますからっ。ちゃんと半身になってくださいって言うんですよ!?」
「……お前な。それは」
「大丈夫ですっ。ヨーコさんだったらどーんと受け止めてくれますっ」
前々から少し気にはなっていた。どういうわけかこいつは、ヨーコの事をひどく『買って』いるのだ。俺は苦笑をもらし、椅子に深くもたれてユイネを見上げた。
「お前の中じゃ、ヨーコは完全無欠の良い女だな」
「そーですよ。良い女ですよう。優しくって強くって、綺麗なんですー」
立ちっぱなしのまま、ふにゃふにゃと笑う。つられてこっちも笑ってしまう。
「何故そう言い切れる」
「だって」
ばしん、と両手をテーブルにつく。ふわりと柔らかな髪が揺れた。
「ヨーコさんは、真っ暗の真っ黒くろの闇の中からタロさんを救ったんです! ずうっとずうっと一人ぼっちだったタロさんの冷たーい孤独を、溶かしてくれたんです!」
いっとき、呼吸をするのを忘れてユイネの真摯な瞳を見つめた。
「……ユイネ」
お前は……。
「それに……私も、ヨーコさんに救われたんです。ヨーコさんがあのお守りを、くれたから……あれを、あれが、私、あったから……でもあれは、私のじゃなかったけど、だから、せめて……」
突然がくっと上体が揺れてユイネの姿が見えなくなった。席を立って回り込むと、うー、と呻きながら酔っ払いがうずくまっている。
「世話の焼ける奴だな」
腕をとって立たせようとした時、ユイネが小さく身じろいで何事かを呟いた。
「ん。なんだ」
「だめ。き、気持ち悪い。吐くかも……」
なんだとっ!?
「待て待てっ。ここで吐くなよ!」
「ううっ」
両手で口元をがばっと抑え込むのを見て、咄嗟に横抱きにして廊下へと走った。
緊急事態だ。仕方ない。回廊へ飛び出してしゃがみ込み、月明かりの落ちる美しい夜の湖面に向かってユイネにゴーサインを出した。髪にかからないように後ろで束ねて持ち、空いている手で背中をさする。何とか落ち着いたあと、テルが持ってきた水の入ったグラスを手渡してうがいをするように促す。
「す、すびません」
ず、と鼻を啜り、その場でへたりと土下座をした。かと思ったら、そのまま寝息を立て始めた。
……こいつめ。覚えてろよ。
力の抜けた身体を抱き起こす。酔っているせいか思いのほか熱かった。乱れた髪を梳いて、気の抜けた寝顔を見つめる。柔らかく優しい気が全身に流れ込み、ふわりと心があたためられていく。
闇を知る、穏やかな魂の鼓動。俺はこの美しい旋律を知っている。そう。美しいのだ。他の何よりも、どんな者よりも、美しい。
冷えた闇の中で、たった一つの光だった。希望だった。命そのものだった。
「くそ……」
こんなはずではなかった。
俺はやはり、どうしようもない阿呆だ。手のつけられない愚か者だ。ぎしぎしと胸が痛む。同時にじわりと滲み出す思いに、今更ながら動揺する。
相手が眠っているのを良い事に、その華奢な身体を抱き締める。小さくてすぐに壊れてしまいそうだ。柔らかな髪に頬を寄せ、また少しだけ腕に力を込めた。
こんなはずではなかった。
どうしてこんな酔っ払いの、酒くさい女を腕の中に抱いて、胸が張り裂けんばかりの思いを抱かなくてはならんのか。地味な顔をして気弱で目立たない女を腕の中に抱いて、四肢がばらけるかと思う程の幸せを感じなくてはならんのか。
「ユイネ」
地獄のような永い時を生きる俺を救ったのは、ヨーコではなかった。たった今、それがはっきりと分かった。
お前だ。
「……ユイネ。好きだ」
馬鹿正直で遠慮がちで、ふにゃふにゃと気が弱いくせに頑固者で、いつだって相手の事を思って自分を置き忘れてくるようなお人好しのお前が。
俺はお前が、好きだ。
「……僕は忠告したんだからね。タロちゃんが悪いんだよ」
傍に佇んでいたテルが、拗ねた声でぼそりと呟いた。分かっている。馬鹿者は俺だ。
今まで思い出す事もなかったあの頃の記憶。生々しい傷跡。ずっとそれに背を向けて遠く冷たい場所に閉じ込めて、鍵をかけておいたはずだった。
鮮やかな熱が、息を吹き返した思いが、力強く全てを押し流し、恐ろしい闇を塗り替えていく。色彩豊かな、あたたかな世界へと。
脳裏にジィナの笑顔が刹那浮かんで、さっと消えていった。分かっている。
俺はもう、間違えたりしない。
己の気持ちを押し付けて、相手を殺してしまうような愚行はもうたくさんだ。
愛しい女にもう二度と、あのような思いをさせたくはない。
読んでいただき、ありがとうございます。
やっと自覚しました、かみさま。
まだまだ色々ありますが最後にはハッピーなエンドになりますからね、うん。あらかじめ。
次話、ネディ・サーシャの登場。異世界トリップ編佳境です。
では、いつも立ち寄ってくださる方々、感謝感激でござます。