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「恋とか愛とか、儚いものだよ。夢のようなものだよ。知らないうちにそれは情や執着や惰性に変わる。だからこそ純粋で美しい感情なんだろうね。タロちゃんとジィナの間に生まれた感情は、たしかに愛だったと思う。でもね、『紅蓮』の言ったように二人の思いはだんだんとすれ違って、終わりを迎えた。普通の男女に起こる、どこにでもあるような話でしょ?」
テル君はそこまで一気に喋って、私を見上げた。
「ただあいつがこの世界で神っていう存在だっただけだ。守り人の半身でいる事の責任と重圧に彼女は耐えられなかった。当然の事だと思うよ。だって半身になれば人の輪廻から外れる。神と同じ存在になるんだ。人として子をもうけて毎日を暮らしていく、一般的な女性らしい幸せはそこにはないから。だけど彼女はタロちゃんを選べなかった事を思い悩んだ。ジィナは優しかったから……。タロちゃんを受け入れられなかった自分を、責めたんだ」
身震いするような夜の闇がそこまで来ている。
「見ていられなかったよ。ジィナは涙を流して謝罪の言葉を口にした。笑わなくなって瞳から光が消えた。それからはその言葉しか彼女から聞けなくなった。神にそむいた事に懺悔して怯え続けて、日に日に弱っていった」
そこで言葉を区切り、綺麗な横顔を見せてテル君が遠くを見つめた。静まり返った神殿には人が誰もいないかのような錯覚を覚える。何故だろう。この建物から今は温もりを感じられない。静寂が、より深い孤独を呼び寄せる。
「タロちゃんは、ジィナの笑顔がいっとう好きだったんだ。優しく微笑む彼女が好きだった。ほんとに、心の底から」
ひんやりとした風が吹いて、鳥肌が立つ。
「だから記憶を消した。彼女の中から、タロちゃんとの思い出だけを一つ残らず綺麗にね」
それは異能の力をもつ守り人だからこそ選び取る事の出来た、残酷な手段。
「……優しい笑顔を取り戻したジィナは、神殿にいる『漆黒』の守り人の巫女としての期間を終えて、故郷に帰った。あとは人として、普通の男性と結婚して子を授かって、孫が出来て、穏やかにその人生をまっとうした。それでおしまい」
神殿の複雑な回廊を歩く。まるで迷路みたいなその道の先は夜に溶けている。深くて冷たい、夜の闇に。
あの頃の、四百年前のタロちゃんは今よりももっと温和で大人な奴だったよ。バランスを欠いたのは、その頃からだ。彼女の記憶を消す時に名を捨てて、全てを愛せなくなったのは、その頃からだ。
自分の正体を知った。
俺は人でも神でもない。愛する者さえ救えない。許し難い化け物だと言って、タロちゃんは声をあげて泣いたんだ。
テル君の声が頭に残る。
いつ戻ったのかも分からなかったけれど、私は広すぎる寝室の寝台の上に仰向けになっていた。徐々に瞼が重くなり、いつしか眠ってしまっていた。そして夢を見た。
現実とも過去とも記憶とも思えるような、そんな夢を。
*
「守り人様」
その声に振り返る。目の前に、女性がいた。
愛しい女性。
動悸が早くなる。金色の美しい髪。ゆるくカーブを描いて華奢な肩にかかる。あたたかな魂の鼓動が伝わってくる。透けるような白い頬が、わずかに染まっていた。
触れたい。
己の浅ましい思いを強引に奥底へと沈める。
うっすらと微笑んでいる女性が、手にしていた赤色の果物をおずおずと差し出した。
「この神殿にあるお庭に、モチトの木がありましたの。実がなっていて……。私、これがとっても大好物で」
はにかみながら話す彼女の全てを、まばたきをせずに見つめる。
知っている。知っている。それが大好きだった事を。子供の頃から大好きだったその実を、兄と木に登って、もいで食べた。それを親にしかられて、それでも美味しくてやめられなかった。
買って食べるのも良いけれど、あれは木になっているのをもいで食べるのが一番美味しいのよ。ほんとなんだから。だからそれがこの庭にあったら、すごく楽しい。あなたにも食べて欲しいわ。きっと大好きになるわ。だって私とあなたって、好きなものが似ているから。ねえ、ダメかしら?
そう言って笑った。全て覚えている。お前の語った言葉は一つ残らず全て……。
そうか。二人で植えたその木は、もう実をつけていたのか。
早く実がならないかしらと、とても嬉しそうに笑っていた。
「甘酸っぱくて美味しいんです。守り人様のお口に会うか分かりませんが……」
喉が張り付いてしまったように、声が出ない。手を伸ばして受け取ろうとしたが、自分の指が震えている事に気付いて背を向けた。
「あ……。も、申し訳ございません。私ったら……」
気落ちした声が聞こえる。どくどくと五月蠅いくらいに心臓が鳴る。苦しい。胸が痛い。息を吸い込むたびに、胸から真っ赤な血が噴き出してくるようだ。
急げ。何か、何か声をかけなければ。彼女が行ってしまう。もう会う事もない。その瞳はもう自分を映さない。分かっている。それで良い。けれどもう一度。もう一度だけ。最後に……。
固く目をつぶり、腹にぐっと力を込めて口を開いた。
「そこに、置いてくれ。あとでもらおう」
「え……」
「俺も、その実が好きだ」
それだけ言うのが精いっぱいだった。振り返る。びっくりしたような彼女の瞳。それから頬が緩み、ゆっくりと微笑んでいく。
「はい」
その笑顔が好きだった。ただただ、好きだった。
泣かせたかったわけではない。壊したかったわけではない。この手で守りたかった。
些細な事で喧嘩をして、どうでも良い事で一緒になって笑っていたかった。今までと同じように。
愛していた。
傍にいたかった。いて欲しかった。ただ一人。たった一人の、最愛の人。
俺の、全て。
深々と一礼をして、彼女は笑顔を残して去った。
「……ジィナ」
どうか、幸せに。