005
どたんばたんと音がして、ぬっと大きな影が現れた。呆然としつつそちらへ顔を向ける。
「腹が減ったな。女、何かないか」
一瞬にして身体が強張る。あの大きな男の人がずかずかとリビングを横切ってキッチンへ歩いてゆく。
私は椅子から腰を浮かせたまま、口を開いて何とか空気を吸い込んで息をする。酸欠寸前の金魚。
テル君といい、この男の人といい、初対面の他人の部屋で、どうしてこんなにも自然に振るまえるだろうか……。彼は冷蔵庫を開き中を物色して、その上で舌打ちした。
「何もないぞ」
咎めるような言い方をしてぎろりとこちらを睨みつける。
身長は百九十センチはあるだろうか。身体つきも立派で、大きい。白のシャツにジーンズという出で立ちで佇んでいる彼は、外国のモデルみたい。彫の深い顔立ちで男らしい顔つきに黒の瞳は鋭い。それに今時の日本では見ないような、肩までの黒の長髪。でもそれがよく似合っている。
さっきテル君に聞いた話ではこの人が人外様で守り人で、長い長い時を生きる神様なのだ。
でも見た目はどちらかというと、悪魔。
「あ、あの。テル君が、テル君が……」
人外様は眉間にしわを寄せて私を睨みつけて、言い捨てた。
「女。何か食うものを寄こせ。寄こさないとお前を頭から食うぞ」
「……い、今すぐ用意します」
ああ……テル君。どこに行ってしまったの。
食べられてしまうのは困るので、ピザのデリバリーを頼む事にした。
異世界という場所からやって来た神様が何を食べるのかちっとも分からないし、ピザがお口に合うのかも分からないが、それを聞く事さえ出来ない。人外様はリビングのソファにどすんと腰を下ろして腕を組み、異様なオーラを放ち続け、無言。恐ろしい事この上ない。消えてしまいたい衝動に駆られる。
そろりとテーブルに戻って、気配を消したくてなるべくうっすらと息をする。
テーブルの上にある黒くてまん丸の私のお守り……いや違った、漆黒の珠が私の良心をちくりと刺した。
それを手に取って今年最大かと思われる程の勇気を振り絞って、声を出した。
「あの……これ」
「何故お前がそれを持ってる」
人外様は真っ直ぐに前を向いてこちらも見ずに、鋭く詰問する。その横顔は、とってもとっても、怒っているように見えた。
私の額にじわりと冷や汗が滲む。手の中の珠をきゅっと握り締めた。怖い。
「ち、違うんです」
「何が違う!」
「す、すみませんっ。こ、これ、人からもらったもので……」
「どもるな!」
「は、はいぃ」
「さっさと説明しろ!」
恐ろしすぎてくらくらしてきた。倒れてしまえたらどんなに良いだろう。だけど残念な事に私はそれ程繊細には出来ていないようで、気を失う気配はない。からからになった喉を開いた。
「私、小さい時、人外様が祀られている神社の近くに住んでいましたっ。そこでいつも遊んでくれてたお姉さんがいたんです! 私が引っ越す時にそのお姉さんからもらったんですっ」
「嘘をつくな!」
「う、嘘じゃっ」
「どもるな!」
「すみませんっ」
……あれ。じゃあもしかしてあのお姉さんが、人外様の言うようこさん?でもそれじゃあ……。
人外様は盛大に苛々オーラを放って私を威嚇しつつ、低く呟く。
「それはいつの事だ」
「ええと……私が五つの時だから……十八年前になります」
「……ヨーコ……何故だ」
両肘を膝に乗せ頭を抱えてがくんと俯き、呻き声のような呟きをこぼした。人外様はまた重い沈黙の底へと沈む。どうしたら良いのか分からず、手の中の珠を無意識に撫でながらそろそろと後ずさった。
私がこのお守りをもらったのは、あの場所を引っ越す事になった五歳の時。引っ越さなくてはならなくなって、知らない場所へ行くのが嫌でめそめそ泣いていた私に、お姉さんは人外様のお守りだといってあの珠をくれたのだ。泣き虫の私を励ます為にくれた、お別れの品。とっても優しくて強くて楽しい人だった気がする。そういえば人形のように可愛い顔をしていた気もする。
人外様の神社でよく遊んでくれたお姉さん。でもお姉さんといっても、その当時の私から見たら「お姉さん」であっただけで、今思い返してみても私とそんなに年が離れていなかったように思う。
多分七歳から十歳くらいだったんじゃないだろうか。まだまだ少女だ。
それって……。
うなだれてソファーに座っている人外様に、ちらりと視線を向ける。今は大きな身体をしおしおとしおれさせて落ち込んでいる様子。しかしどう見ても成人男性。何百年生きてらっしゃるのかは分からないけど、見た目だけだったら二十代半ば。
か、かみさまってロリコン。ああ……何て事。
ピンポーン。
インターホンが鳴らされ、いそいそと壁にかかっている電話を取り上げる。モニターに白黒の映像。
「ピザラビットですー!」
とにかくご飯を食べて血糖値を上げよう。何だか倒れてしまいそう。