049
清めの行水を済ませ、用意された衣に腕を通す。常から自分の支度を女官達に手伝わせる事はしない。それが俺の流儀であるからだ。……ただ単に煩わしいだけなのだが。
儀式にのぞむ格好はどうも仰々しくて参る。様々な濃淡の黒。三重にもなるその衣を重ね、金細工の施された帯で留める。左腕に三つ、右腕に四つの腕輪。首には細い鎖の首飾りが二つに、漆黒の宝石が埋め込まれたものを一つ。鬱陶しいことこの上ない。
ふと、ついさっきの光景を思い出して僅かに口元が緩む。
呼んでもいない『紅蓮』がやって来た事を感じ、むっとしつつ来賓の間に向かった。案の定あいつがぎゃあぎゃあと騒いでいてその隣にユイネがいた。ユイネは俺の名を呼び、ほっとしたように笑った。
この俺を見て、嬉しそうに、ほにょっと笑ったのだ。
「タロ様。お支度はよろしいでしょうか」
「今暫く待て」
髪を整え耳飾りをつけ、目の前の己と目が合う。姿鏡に映る、神と呼ばれる「何か」────。
唯音。
お前をこのままこの世界に閉じ込めてしまおうか。
この神殿に、この俺の傍に。
お前がここにいてくれるのならば、この世に俺の地獄はなくなる。俺の世界は色を取り戻し、俺の腐った四肢が息を吹き返す。お前の魂が寄り添ってくれるのならば、俺は……。
「馬鹿な」
目の前の化け物が呟いた。
ふざけた思いを一蹴し、大股で部屋を横切り扉を開く。正装をした神官達がずらりと控えており、一斉にひれ伏した。
「なんと……御立派でございます。タロ様……」
感極まった声をあげるセウンリヒを見下ろす。思わずため息がもれた。
「おい。なんだ。泣く奴があるか」
「も、申し訳ございません……。あまりにも久方ぶりの御姿でしたので……」
「行くぞ」
「はっ」
俺はもう間違えるわけにはいかない。
ユイネ。
お前は知ってどう思うだろうか。
愚かだと俺を嗤うか。不憫だと俺に同情するか。……いいや。
お前ならばありのままを、受け入れてくれるのだろう。
*
ふーちゃんはケーキを平らげお腹一杯になって、私の膝の上ですやすやと寝始めた。あどけない寝顔を見つめる。まつ毛が長い。つやつやの黒髪が少しくりんとしていてそれがまた可愛らしい。私は無言でお茶を啜り、『紅蓮』さんの言葉を待った。『紅蓮』の守り人様は、腕を組んで唸り声を上げながら遠い昔の出来事を何とか思い出そうとしている。
「んんっ。あれはたしか人としての『時』が終わって六十年くらい経った頃だったかなあ! 守り人はな、半身を持たない間は他人の気を得る為に巫女を囲う。そん中にあの女がいたんだ。名は……忘れたなあ」
「ジィナだよ。とってもチャーミングで、素敵な魂の持ち主だった。あの頃からタロちゃんの好みは変わらない」
テル君がさらりと答えた。片手で頬杖をついて、空いた手でフォークを持ってケーキをつついて少しアンニュイな感じ。気だるげなその仕草も様になるから、すごい。
「そうそう! んで、タロ助はその女に惚れて、女ももちろん嫌だなんで思わねえ。神の寵愛をたった一人で受けられるんだからな! 相思相愛だ! そうなるまでに時間なんかかからねえよ。だが、いざって時に女が怖気づいたんだ。守り人の半身になる事を恐れた。そんで女は甘ったるい夢から覚め、同時に愛も冷めて亀裂が入って二人は別れた! 以上、終わり!」
拍子抜けして、あやうく椅子からずり落ちそうになった。
「そ、それだけですか」
「おう! ま、そんなもんだろ。男と女なんてよ」
「はあ……」
かみさまの悲恋をたった一息で終わらせてしまうとは……。さすがは『紅蓮』さんです。ただもう少しだけ説明が欲しいと思い、口を開きかけた時だった。
「久しぶりだね。ティエルファイス」
涼やかな声に気付いた時には、既にそこにいた。『紅蓮』さんの後ろに人が立っている。私は驚いてその人を見上げた。
天使だ……。天使が手品みたいに忽然とあらわれた。
金色のストレートの髪は腰まで伸びて、額に白い宝石。良く見るとそれは細い鎖がついた頭飾りだった。一重の印象的な目元にすらりとした鼻筋。桃色の唇。
「やあ。バードナート。元気そうで何より」
中性的な容姿はテル君と同じような妖精服に包まれていた。だけど外見年齢はテル君より随分年上のように感じる。タロさんや『紅蓮』さんと同じくらいだろうか。
「お互い苦労するよね。どうしようもない主を持つとさ」
天使さんは言いながら微笑を浮かべ、がっちりと『紅蓮』さんの首根っこを片手で掴んだ。
「いやっ。ちょ、ちょっと待てよ! これは違うんだっ」
慌てたように『紅蓮』さんが声を上げる。天使さんの切れ長な瞳がすっと細まると、周囲に冷ややかな空気がただよい出した。何だろう。うすら怖い。
「おかしいなあ。部屋に縛り付けておいたはずなんだけど? 仕事が終わるまでは部屋から出られなくしてたはずなんだどねえ。どうしてこんなところで遊んでいるのかなあ?」
「ばっかお前! 俺は遊んでんじゃねえよ! タロ助の奴が、『漆黒』の奴が女を連れ込んでるからっ」
ものすごい言われように私はぽかんと口を開けた。その時、天使さんの視線が私をとらえた。その瞳が丸く見開かれ、驚きの表情で私を見つめ、そっと呟いた。
「なんて……美しい……」
聞き間違いだ。うん。絶対。
「……魂だ」
あ。そっちですか。
なんだか良く分からなかったけれど、褒められるのに慣れていない私は一気に赤面した。
「……良かったね。ティエルファイス。じゃあ私達はこれで」
「わあ! まてお前っ! まだ話が途中っ……」
一瞬にして『紅蓮』さんと天使さんの姿が消えた。視界が開け、青い稜線にオレンジ色の太陽が沈んでいこうとしている風景が見える。夕暮れ時だ。
「あれはバードナートっていってね、僕と同じ守り人から生まれた眷族だよ。さ、もう日も暮れるし部屋に戻ろう。ユイネ、疲れてない?」
「う、うん。大丈夫……」
「じゃあもうちょっとだけ話をしよう。『紅蓮』の説明で本当に全てなんだ。だけどね、続きがある」
私はふーちゃんを抱き上げてテル君のあとについて歩いた。いつの間にか女官さん達がいなくなっている。むにゃっとふーちゃんが口を動かし、小さな手で私にしがみついてきた。その温もりが、とてもありがたかった。