048(いにしえの恋)
嵐を呼ぶ男『紅蓮』さんの登場で、穏やかな午後のひとときが一時騒然となった。テル君はもっと大人しく登場してと小言を言い、フティさんや騒動に気付いて集まった女官さん達は『紅蓮』の守り人様に向かい深々と美しい一礼をして、散乱した周囲をテキパキと片付けていった。
「はあっ!? じゃあ何だよ。半身の約束も交わしてねえってのに無理矢理こっちに連れ込んだってわけか!」
「……そういう下品な言い方しないでくれない? ユイネには協力してもらったんだよ」
同じテーブル席に着いた『紅蓮』さんはテル君の説明を聞いて、また目をむいて驚いた。頭の後ろで手を組んで身体を反らせ、ほおお、と声を上げる。
私の右にふーちゃんがいて左に『紅蓮』さん、私の向かいにテル君が座り、お茶の時間が再開された。
赤地に花や龍の柄が繊細に描かれた美しい生地。私のものと同じ着物のような服に身を包んだ『紅蓮』さんは、片腕だけを袖にとおして粋な格好をしていた。着物の下に黒のぴったりとした服を身につけていて、首元には神秘的な輝きを放つ朱色の宝石が埋め込まれた首飾り。腰を太い帯で留めて裾からはまたぴったりとした黒のズボンに覆われた長い足がのぞいている。何ともまあ……。
「なあお嬢ちゃん」
隣に座るかみさまのあでやかな容姿に見惚れていた私は、はっとして顔を上げた。かみさまの麗しいお顔にはいたずら小僧のような、にやっとした笑顔が浮かんでいる。
「お嬢ちゃんはとんでもねえお人好しだな。あんまり過ぎるとこいつらにイイようにされちまうぜえ」
鮮やかな赤の瞳が細められ、くくく、と喉の奥で笑った。
「あの……私、お人好しでしょうか? そんなつもりはないんですけど……」
確かに振り回されてる感はあるけれど、本当にいやいや付き合わされてるってわけでもないと思う。こうやって人生の天地がひっくり返りでもしない限り出来ないような事を、体験させてもらっているのだから。何たってここは異世界で、まわりにかみさまやら天使やらがいらっしゃるのだ。まるで壮大なテーマパークか外国にでも旅行に来たような気分で、むしろ感謝しても良いのでは、とまで思う。それにそんな風に言われる程、自分は良い人間でもない。
「おうおう。それがもう奴らの思うツボなんだぜ」
片肘をテーブルに乗せて、『紅蓮』さんがぐっと身を乗り出す。麗しいお顔とかぐわしい匂いが近づいて、私は反射的にぐぐっと身を引いた。
「同情は禁物って事だ。お嬢ちゃん」
同情……。その言葉に、そこはかとない違和感と胸騒ぎを覚える。
「俺達は神だ。人々がこぞって崇め奉る、スンバらしい神なんだぜ。何せいっこの世界をてめえの力で生かしてんだからな! 俺達の調子が悪けりゃすぐにそれが影響する。ちょっとでもその気があるんなら、世界を一瞬で消し去る事も出来る。とんでもねえ干渉力だと思わねえか? 俺達の異能の力はそりゃあ絶大だ。やってやれねえ事なんざねえからな!」
だがなあ、と姿勢を戻して腕を組む。
「俺達自身は分かってんだよ。てめえらがだらだらと永い時を生き続ける、ただの化けもんだって事をな」
「そ、そんな」
『紅蓮』さんはちらりと私を一瞥して目を伏せ、細々と息を吐き出して首を振った。そんな風情の『紅蓮』さんは、今までの威勢の良さが嘘みたいに思える程に弱々しかった。
「人であれば歩むべき輪廻の道を外れちまってるんだぜ? 人である事すら出来ねえ。それじゃあ皆が求める神だってんなら、それも中途半端だ。半身がいなきゃ、他人の気がなきゃ己を保てねえ。バランスが狂っちまう。俺達は強すぎる力を持て余してる、始末の悪りぃ怪物なんだぜ」
そう言ってゆるりと私を見やる。綺麗な赤色の瞳に射抜かれて身体が硬直した。
「その上てめえの愛する魂を、愛する相手を手に入れる為に、その相手さえもてめえとおんなじ化けもんに堕としちまうんだからな。……こんなおぞましい話が他にあるかよ」
「『紅蓮』さん……」
「ほら!」
突然、目の前にずいっと人差し指を突き付けられた。
「今、可哀そうって思ったろ? 欠片でもそう思ったろ? あめえよ。あめえよお嬢ちゃん!」
「えっ?」
ぐわしっ、と両肩を掴まれ、がくがくと揺さぶられる。
「わわっ……」
「俺達はとっくにそんなこたぁ受け入れてんのさ! 受け入れにゃならんのさ! あのバカがいつまでもウジウジウジウジやってるだけだ! あのバカタロ助の乙女野郎がな!」
「うわっ。あ、あのっ……」
「あいつはどうしようもねえバカ野郎だ! ずっと昔の失恋を引きずりやがって! もう四百年も昔の話だぞ!?」
「ちょっと『紅蓮』てば!」
「ゆいねっ」
失恋? よ、四百年? それは、初耳……。
「おい。そのけがらわしい手をどけろ。ユイネに気安く触るな。ど阿呆が」
振り返ると苛々オーラ全開で、腕を組んで仁王立ちしているタロさんがいた。
「タロさんっ」
この荘厳な神殿の主であるかみさまは艶やかな黒髪をひとつに束ね、Tシャツとスウェットの、私の部屋にいた時と同じゆるい格好のままだった。けれど私はそれを見て心の底からほっとした。タロさんまでかみさま然とした見目麗しい姿であらわれたら、私はもういたたまれなくなってしまっただろうから……。
私と目が合ったタロさんは、その鋭い黒の瞳をちょっとだけ丸くして一瞬固まったあと、ずかずかと大股で近づいて来た。それから私の肩を掴んだままの『紅蓮』さんの手をばしりと払いのける。
「一体何しに来た。俺は忙しい。とっとと帰れ」
「おいおい。そりゃあねえだろ兄弟! お前がこっちに帰ったのが分かったから、来てやったんじゃねえかよ! そしたらこのお嬢ちゃんがいるもんだからよ、俺ぁてっきり……」
「これはこれは『紅蓮』の守り人様、ヴァノレスシェイラ様。ようこそおいで下さいました」
「おう! 良かったなあセウンリヒ。やーっとこのバカが帰ってきてよ」
タロさんの後からやって来た大神官のセウンリヒさんが、さっと片膝をついてひれ伏すように『紅蓮』さんに一礼をした。それから颯爽と立ち上がり、タロさんに向き直って口を開く。
「タロ様。夕刻六つの時より『つきおくりの儀』を執り行いますゆえ、あまりお時間がございません。ご用意を致しませんと……」
「ほらほら。行って来いよ。このお嬢ちゃんの面倒は俺が見てやっから、心配すんな!」
「くそっ。ユイネ!」
「はっ、はいっ」
何故かとてつもなく機嫌の悪いタロさんが、私を見下ろしてぎろりと睨んでくる。背の高い外国人モデルのような大男が私を睨んでいて、その眼力は半端ではない。こ、怖いっ。
「ご、ごめんなさいっ」
「……なんだ」
「あ……なんとなく……」
つい謝ってしまった。すると彫の深い男らしい美形が、大きく息を吐き出しながらふっと笑った。
お……。
「行ってくる」
「……いってらっしゃい」
大きな背中を見送りつつ、タロさんは私に何か言いたかったんだろうかと考えた。もしかしたら、子犬のような名前をつけたせいで怒っているのかも知れない。とうとうセウンリヒさんまで、タロ様と言っていたし。『紅蓮』さんの本当の名前だって、バ、ヴァ、……なんとかっていう格好良い名前だった。
うーん。あとでもう一度、怒鳴られる前に謝っておこう。あ。そういえば……。
「テル君。私てっきりテル君とタロさんは二百歳くらいだと思ってたけど、倍生きてたの?」
「うん。ほんとはね」
目の前にいるテル君が少し目を細めて微笑んだ。
「テル君……」
綺麗なのに、儚い。
触れたら壊れてしまいそうな、そんな笑顔だった。心がざわざわして落ち着かない。
「……失恋、しちゃったの?」
「うん。四百年前にね」
どうしてだろう。胸が苦しい。
いつだったかタロさんが言った事を思い出した。もう何百年も生きていて、とっくに色欲なんか枯れてしまったって────。
四百年前……その頃には恋する心をちゃんと持っていたの?
「何だよ! 言ってなかったのか? んなら俺が教えてやるっ」
「そんなの良くないです。『紅蓮』さん」
「んあ?」
嬉々として話し始めようとした『紅蓮』さんに向かって私は首を振った。
「こんなデリケートな話を本人のいないところで了承もなしに聞くなんて……」
「良いんだ。ユイネはもう知ってるから」
「え……?」
テル君の言葉にぽかんとする。私が、知ってる?
つぶらな黒の瞳が真っ直ぐに私を見つめている。とても真摯に。
「不思議だって思ってたんだ……。あの時、タロちゃんの過去を見せた時にね、ユイネは見ていたんだ。あいつ自身でさえ思い出すのを止めてしまった彼女の事を。そっと閉じ込めていたはずの過去の事を」
ああ……そうだったんだ。
大地を揺るがすような大きな鐘の音。青白い月夜に天蓋つきの大きなベッド。
美しい金髪の、長い髪を垂らして泣いていた彼女。
私に怯えて肩を震わせていた、彼女の事だ……。
『お許しください』
震える声。その痛々しい囁きに、この胸がまっぷたつに切り裂かれたような、とても耐えられそうにもないような激しい痛みに目の前が真っ暗になった。
それから深い悲しみと冷たい孤独と、暗黒の絶望がやって来たのだ。
あの記憶はタロさんの、とても哀しい過去の一幕。