047
「ふーちゃんっ」
「てるきらい! ばか! ばかばか!」
「ふーちゃん?」
「あ、うん。この子の名前……ああっ。ふ、ふーちゃんっ。そんな事したらだめっ。テル君は悪くないから」
慌ててふーちゃんをテル君から引きはがして抱き上げる。ふっくらした頬が、ぷう、ともっと膨らんだ。すかさずフティさんが布巾を手渡してくれる。それでふーちゃんの汚れた口元やら手を拭うと、小さな両手両足でぎゅうう、と抱きついてきた。
「ゆいねっ」
「うん。私は大丈夫だから……こういう事はしちゃだめだよ。え、えと、もっと冷静に。ね?」
「ゆいねゆいねゆいね」
うーん。困った。きちんと意思の疎通が出来ているんだろうか。
目を丸くして驚いていたテル君が朗らかに笑った。鼻の頭やほっぺにケーキのかけらをくっつけている綺麗な男の子はそれはそれで可愛らしい。あ、いやいや。見惚れている場合じゃなかった。
「テル君、ごめんね。大丈夫?」
「へーきへーき。すごいなあ、ふーちゃん。ちゃんと感情も持ってるんだね」
何だか申し訳なくて、私は新しい布巾をもらってテル君のほっぺを拭った。
「う、うん。でもどうして、私になついてくれてるんだろう?」
ふーちゃんはタロさんから生まれた『負』だ。ふーちゃんの正体は、真っ黒のうねうねぐねぐねの、世界に歪みを作り出してしまう『負』なのだけれど、何故か生まれた瞬間に私の名前を叫んだのだ。
「ああ……その理由なら分かるよ」
「そうなの!?」
「うん。だってこの子は、タロちゃんから生まれたから」
ん?
意味が分からずテル君を見やるとそれ以上の説明はなく、にっこりと微笑みかけてくる。エンジェルスマイル。
ああ……。なんかもう、頭がくらくらしてきた。
「ねえユイネ」
突然テル君に手首を掴まれ、ぎく、と肩が震えた。
「ヨーコが見つかったとしてもさ、今更何て言うつもり?」
「え……」
「ヨーコはもう、ずうっと前から僕らのいない時を過ごしてるんだよ。もうとっくに繋がりは絶たれてる。ヨーコはあの世界のどこかで、ちゃんと自分のよりどころを作って家庭を築いて暮らしているんだ。それが人の生き方だよ」
じっと見つめられて顔が熱くなるのが自分でも分かった。でも目の前の綺麗な男の子から目を逸らす事が出来なかった。テル君の瞳がとても真剣で、そして少し悲しそうだったから……。
「で、でも、それはヨーコさんに会ってみないと分からない事でしょう? たしかにテル君の言うとおりかもしれないけど、それでも……今でも、ヨーコさんが一人でいる可能性だってあると思うの」
ヨーコさんが何かを抱えて生きているのは事実なのだ。強くて優しくて美しい少女だったヨーコさんは、心に何らかの闇を、大きな悩みを抱えていた。けれど幼いながらもそれに負けまいと命を輝かせていた。前向きで明るくて、相手をきちんと気遣える素敵な少女。だからこそタロさんの凍てついた孤独を溶かす事が出来たのだ。私の事だって救ってくれた。そんなヨーコさんが大人になって、今どこでどんな暮らしをしているのかは分からない。彼氏がいたり結婚したりしているのかもしれない。
だけど……そうじゃなかったら?
ずっと一人で、その闇と今でも戦っているのだとしたら?
そう思うと、胸がつまる。
「だからやっぱり、ヨーコさんには会わないと……。きっとタロさんとテル君の事、すぐに好きになるよ。大丈夫。二人はとっても優しくて、それにヨーコさんの事を大好きなのを私は知ってるから。それは絶対に、ちゃんと伝わるものだから」
「でも、じゃあユイネはどうするの? ヨーコが見つかったらユイネは?」
「え。……わ、私? 私は……」
掴まれている部分が熱い。それに何だか胸も痛い。だってそんなの……考えなくても分かる事。
私の生活は元に戻るだけ。タロさんもテル君もいなくなって、漆黒の珠もなくなって、ただそれだけ……。実家を出て上京して、家と会社の往復で。休まずに働いてあのマンションで寝起きして、ずっと一人で。それが私の本来の生活で、今までだってそうやって過ごしてきた。そんな毎日に戻るだけ……。
どうしてだろう。それが当たり前の事なのに、喉が締まって苦しくなる。
「いつだってユイネはまず一番に相手の事を考えるよね。自分の事なんて二の次でさ。ユイネはうんと優しくて強いんだ。わがまま大王のタロちゃんに教えてやりたいくらいだよ。でも僕はね、僕はユイネが……」
その時、ごおおおお、と突風が吹き抜けた。
「わっ」
窓ガラスが一斉にがたがたと悲鳴を上げる。テーブルの上のティーセットが音を立てて、フティさんが慌ててテーブルを押さえようと動いたのが視界の隅に見えた。そこでまた暴風。
ごおおおおおっ。
がちゃん、と何かが割れる音。私はあたふたとふーちゃんを胸に抱いて前かがみになった。ものすごい風に目もあけられない。次の瞬間、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「おおお? 何だよこりゃ! やーっぱり半身だったんじゃねえか! なあお嬢ちゃん!」
見上げると、燃え上がる炎のような鮮やかな赤色の髪が目に飛び込んできた。その下にある恐ろしく整った美形の顔。ヴィジュアル系バンドのリーダーみたいな、麗しいガルクループのかみさま。『紅蓮』さんがそこにいた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
異世界トリップ編。まだ続きます。
次話、わがまま大王タロさんの登場。守り人についても少しばかり掘り下げていければと思っております。
ゆるゆるペースですみません。
では、いつも読んでくださる方々に心からの御礼を。