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043

 すぐ近くで、人の気配がする。ふわりと花の香りを嗅いだ気がして目を開いた。黒い瞳と目が合う。どこかで見た事のある、力のある瞳。何かが私のほっぺをくすぐっている。それが相手の髪の毛だと分かった。……あれ?


「……タロさん?」


 ものすごい至近距離にタロさんの美しい顔面がある。あまりにも距離が近くて、驚いて目をつぶってしまった。影がすっと遠ざかり、ごほんと咳払いの音。


「起きれるか」

「あ、はい」


 あれ。なんだろう。声が響いているような気がする。次の瞬間、私のにぶい頭がぱっと覚醒してがばっと勢い良く身体を起こした。まさかとは思ったけれど、やっぱり……。視界に飛び込んできたのは見慣れない部屋。

 ずうっと高いところに天井があって、そこから上品な照明が吊り下げられている。シャンデリアというよりも、もっと地味なものだ。あたたかなオレンジ色の明かり。白亜の円天井に立派な円柱が何本も伸びて、壁際にはぽつぽつとアンティークものの調度品が置かれている。どれをとっても高価なもののように感じる。私はどうやらベッドの上にいるようだ。ベッドはベッドだけど、映画の中でしか見た事のないような贅沢な大きさで、四方には繊細な彫刻が施された柱が見えた。どれもが全て初めて目にするものばかりだったのに、どこか既視感を覚える。

 ああそうか。これはタロさんの寝台だ。頭の片隅でどこか冷静な自分が、冷静に判断する。


「タロさんっ」


 目の前でうーんと大きな伸びをしているタロさん。そのまま肩を押さえて腕を回し始める。


「大丈夫ですかっ」

「ああ。まだ少し身体が重いが、こっちでしばらく過ごせば何とかなる」

「そうなんですか……。……あ、あの、それでここはひょっとして……」


 ちりりん。


 どこからか涼やかな鈴の音が響いた。はっとして周囲を見回すと、タロさんの隣にテル君がいて、テル君と手を繋いでいる『負』の女の子が見えた。目が合うと、女の子がぱっと私に向かって駆けてくる。


「ゆいねっ」


 ベッドによじ登り、がばりと抱きついて来た小さな身体を抱きとめて呆然とした。どこからともなく、大勢の人間達が姿を現したのだ。この光景はどこかで見た事がある。皆、白い衣服を身にまとっている。男女で少し形に差があるようだけれど、法衣、と呼ぶのがふさわしい。全員が音もなく、決められているかのようにぴたりと位置について、ざっと一斉にかしずいた。その中から一人の壮年が頭を垂れたまま前に出て、凛とした声を上げた。


「お帰りなさいませ。『漆黒』の守り人様。ティエルファイス様……」


 もう一度倒れてしまいたかった。

 ここはひょっとしなくても、タロさんとテル君の世界。ガルクループだ……。


「お待ち申しておりました! 我が主の半身、ヨーコ様!」


 ああ……誰か嘘だと言って。 



*



「は、半身ではない!? ヨーコ様ではないというのですか!?」


 大理石のようなつるつるの地面に平伏していた太い眉の壮年は、半身を起して両目を見開いた。

 ずらりと並んでいた神官さんや女官さん達はタロさんの一声でまたどこかに姿を消してしまった。残ったのはセウンリヒという名前の、神官さんだ。この人を私は知っている。

 私が見たタロさんの記憶の中では二十代後半の、精悍で正義感溢れるイメージの青年だった。今目の前にいるのはその面影をそのままに、威厳と年齢を重ねた重厚な面持ちの壮年。そんなおじさまが素っ頓狂な声を上げて、穴が開くかという勢いで私を凝視している。その視線に耐えきれず、私はへろりと頭を下げた。


「す、すみません……」

「……では。半身でも何でもない、善良なる一般市民の異世界のお方を……連れていらっしゃったと?」

「セウンリヒよ。お前もなかなか言うようになったな」

「お褒めいただき、光栄にございます!」

「阿呆。褒めとらん」


 Tシャツにスウェットの、ゆるい格好のタロさん。けれどその背の高い大きな身体から、威圧オーラが全開で放たれている。……本当に具合はもう良いのだろうか。少し心配だ。


「ユイネはね、僕らの恩人だよ。こっちへ帰るのに協力してもらったんだ。客人として丁重におもてなししてね」

「はっ」

「テ、テル君……」


 私は『負』の女の子を胸に抱き上げて、テル君の傍まで歩いていった。足の裏からひんやりとした感触が伝わる。テル君が大丈夫だよ、というように私に向かってにっこりと微笑んだ。


「後ほど女官長をこちらへ呼びましょう。ユイネ様。わたくしめはこの神殿の一切を預からせていただいております、大神官セウンリヒと申します。お目にかかれて感激至極にございます」

「あ! あ、ありがとうございますっ」


 慌ててお辞儀を返した。どうしてお礼を口にしてしまったのかは私にも謎だ。これ程丁寧な口調で語りかけられた経験がないので、それだけで上がってしまった。私はこの場所の雰囲気にすっかり飲み込まれて、立っているのがやっとのくらいに緊張していた。

 セウンリヒさんは一瞬だけ目を細め、それから颯爽と立ち上がってまた深々と一礼をした。両腕の裾は長く、詰襟みたいに首元まできっちりとボタンが留められている。良く見ると金の細い糸でとても複雑な模様の刺繍が施されているようだ。見た事もない綺麗な生地に、つい見入ってしまう。


「セウンリヒ。『白銀』は今どうしている」

「はっ。『白銀』の守り人様は視察巡行の為、ただいま神殿をご不在にしております。ネディ・サーシャ様がその留守を預かっているとお聞き致しました」

「サーシャか。あいつはどうも苦手だ」


 タロさんが不機嫌そうな顔で言うと、テル君がうーん、と唸った。


「でも見てもらわないと。僕らの中では一番の最年長だしね。どうする? 今から行こうか」

「おそれながら!」


 凛としたセウンリヒさんの声が響く。タロさんとテル君は会話を中断して目の前の大神官に顔を向けた。


「無礼を承知で申し上げます。『漆黒』の守り人様。どうか今暫く、ここにお留まりくださいませ。ご不在中延期にしておりました神事が四つ、それにお目通りと調印をいただきたい書類も山積しております」


 タロさんがわざとらしいくらい大きなため息をつくと、セウンリヒさんは一層深々と頭を下げる。


「テル。お前がやれ」

「ええー! いやだよ。タロちゃんの仕事だろ」

「セウンリヒ。お前が代理でやれ」

「なりません! 守り人様。どうかどうか、お願い申し上げます。このセウンリヒ、一生のお願いでございます。長らくの旅路の後で、お疲れである事も重々承知しております。わたくしとて、守り人様にはすぐにでもご休息をお取りいただきたいと思っているのでございます。ああですが心を鬼にして、わたくしめは、わたくしめはっ……」

「全く。相変わらず五月蠅い奴だな」

「タロさん」


 必死に言い募るセウンリヒさんを見て、つい声を上げていた。振り返ったタロさんの無言の威圧を感じつつ、ここは言わねばと踏ん張った。


「し、仕事はちゃんとしないと、駄目だと思います」


 長い黒髪が良く似合う、彫の深い顔立ちの美形が私を睨みながらむっと口をとがらせる。


「仕方ない」


 言うか早いか、太い両腕が伸びてきてぎゅっと抱き締められた。突然の事で、うおっ、と奇妙な声が私の口から飛び出した。


「いやーっ。ゆいねはあたちのっ」


 胸にかかえた女の子が、タロさんの厚い胸板をちっちゃな手でぐいぐいと押し返す。私は大きな身体の温もりに完全に硬直して、


「いいい、いやっ。これはそのっ。気を届ける為のもので、やましい事ではないですからっ」


 と、誰に聞かれた訳でもないのに説明をした。


「ユイネ」

「は、はい」

「行ってくる」

「……いってらっしゃい」

 

 私の気がちゃんと届いたらしい。タロさんは満足げな表情でにい、と笑って、大股で部屋を出て行った。視線を感じてそちらに顔を向けると、セウンリヒさんが私をじっと見つめていた。心なしか、おじさまの瞳がきらきらと輝いて口元にはやんわりとした笑みさえ浮かんでいる。


「あ、あの?」

「セウンリヒ! 早く来い!」


 タロさんに大声で呼ばれ、おじさまは素早く一礼し、しばしお待ちくださいませ、と言い置いて部屋を去った。しん、と円形の白い部屋が静まりかえる。


「さてと。ユイネ、ごめんね。急にこんな事になっちゃって。驚いてるでしょう? ちゃんと説明するから。僕が傍にいるから安心してね」

「ありがとう……。テル君……」

「なに?」


 呆然とテル君を見下ろす。つやつやの茶色の髪に色白の肌。天使のように綺麗な男の子が目の前で柔らかく微笑んでいる。


「色々聞きたい事があるけど……」

「うん」

「私……」

「うん」

「明日仕事だったと思うの」

「ああ。大丈夫だよ」


 つぶらな黒の瞳がゆっくりとまばたきをした。その仕草の美しさに、うっとりと夢心地になる。


「ユイネは昨日からインフルエンザにかかってる。僕がユイネの声で、電話しといたよ」


 そ、そうなの。……テル君。人の声が出せるなんて特技があったのね。


 どうしてこうも簡単に、日常とかけ離れた世界に放り投げられてしまうのだろう。

 目の前がちかちかして、何が何やら分からなくて、何を聞いたら良いかも整理がつかない。どっと疲れが押し寄せてくる。

 あ、寝たい。寝てしまいたい。とりあえずさっきのふかふかベッドに戻って身体を横にしてみよう。

 ふらりと一歩踏み出そうとした時、また新しい声が聞こえた。


「失礼致します。女官長フティ、参りました!」


 ああ……もう。なるようになるしかない。好きにして。






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