042(ガルクループ)
次々と飛び込んでくる奇怪な出来事のおかげで、私の頭はとうとうダウンしてしまった。
「ゆいね。すきすき」
「あは。可愛い」
膝の上にいる可愛らしい女の子がにこにこしているので、私もつられてえへへと笑う。何にせよ、こんなにチャーミングに、そして熱烈に好意を寄せられるのは初めての事だ。……結構嬉しいものなんだなあとどこか麻痺した頭でしみじみ感慨にふける。
色んな事がありすぎて、笹本さんとの夢のようなひとときがとても懐かしく感じられる。あれ。あれはいつの頃だったっけ……。
タロさんから生まれた害のない綺麗な『負』の女の子は、私にしがみついたままだったのでとりあえず抱っこして立ち上がった。その重みも可愛らしいものだったので、また頬が緩んでしまった。生身のちっちゃい子を抱っこした経験はあんまりないけれど、女の子の体重はきっとそれよりは軽いんじゃないかと思う。
「……おい。そいつを床に置け」
眉間にしわを寄せて難しい顔をしているタロさんがそいつ、といって女の子を指差した。
「ばかばか。あたちこいつきらい」
女の子はそう言ってぎゅっと私に抱きつき、タロさんを上目で睨みつけた。するとタロさんの凄みのある黒い瞳が鋭くなり、背の高い大きな身体から威圧オーラがぎらぎらと放たれる。
「『負』の分際で何を言う。消してやる」
「いやっ。あたちやっとうまれた。まだきえたくない。いやいやっ」
「ちょ、ちょっと待ってください。この子にはもう害はないんでしょう? だったら消さなくっても……」
「うーん。でも『負』である事は間違いないからね。今はタロちゃんから生まれて来たばかりで、何の影響も受けていないから大丈夫だけど。いつまた歪みを作り出すようになるか分からないよ」
テル君が困った顔をして私を見やった。『負』って良く分からないけど、そういうものなの? 唐突に私の脳内にハテナマークがたくさんあらわれる。そういえば、世界のバランスを崩したり均衡を壊してしまう歪みやひずみの原因になる『負』って、一体何者だろうか。黒くて気味が悪くてぐねぐねうねうねの正体って一体何なのだろう。集まれば歪みになって、人の中に入れば悪意に変わる。それはタロさんの記憶の中で私が学んだ事だ。その時、よろりと大きな身体が横に傾いた。
「タロさん?」
どうもタロさんの様子がおかしい。肩で息をしていて、やっぱり苦しそうだ。風邪が治っていないのだろうか……。
「……ちっ」
舌打ちをして、崩れ落ちるように椅子に腰をかけてテーブルに突っ伏してしまった。テル君がその背にそっと手を当てて神妙な面持ちで沈黙する。
「大丈夫なの?」
私は怖くなってぎゅうと女の子を抱き締めた。タロさんは一体どうしてしまったのだろう。本当は風邪じゃなかったんじゃないだろうか。だってかみさまが体調を崩すなんて、きっとよっぽどの事に違いないのだ。でもどうしてだろう。毎晩同じベッドで寝てるし気を送り続けているから、以前よりはずっと守り人の力も戻ってきてるって言ってたのに。そこまで考えて頭のてっぺんからさあっと血の気が引いた。
もしかして、私の気じゃだめだったんじゃないだろうか。やっぱり伴侶の愛の力でないと、タロさんを癒す事は出来ないんじゃないだろうか。
「ご、ごめん。私……」
咄嗟に謝っていた。
どうしてもっと、ヒロさんに連絡をとろうとしなかったんだろう。先月、ヒロさんのところに待望の赤ちゃんが生まれて、それはそれはとっても可愛らしい女の子で、帰省した時に挨拶をさせてもらっていた。
ヒロさんも奥さんも嬉しそうで、その時にヨーコさんの話をどうしても持ち出せなかったのだ。日を改めてまた電話で聞こうと思っていた。だけど、そうしなかった。
赤ちゃんが生まれて喫茶店も続けているからきっと忙しいだろうと遠慮してしまったし、タロさんもテル君もヨーコさんの事を口にする事もなかったから。
そして何より、私が三人で生活している今の環境を、崩したくないと思ってしまったから……。
「……一度ガルクループに戻った方が良いね。その『負』の女の子の事もあるし。全てが初めてづくしで僕もどうしたら良いか分かんないや」
テル君が華奢な肩を落としてため息をつき、弱々しい笑顔で私を見上げた。ずきりと胸が痛む。
「う、うん。私に出来る事ない? 何でも協力するから」
ぐったりと伸びきったタロさんの大きな身体は、ぴくりとも動かない。ずきずきと胸の痛みが増していく。タロさんに何かあったらどうしよう。私のせいだ。もしも、もっと気が必要だというんなら、この際体液だろうが何だろうが交換してでも良い。それでタロさんが元のように元気になるのなら。私に出来る事があるのなら。それから早くヨーコさんを見つけなくちゃ。
「ゆいねかなしいの? つらいの? ゆいねをつらくするのはだあれ? よーこってだあれ?」
驚いて女の子を見下ろす。大きな黒い瞳が不安げな影を落として私を見つめていた。
「……大丈夫。辛くないよ」
「ほんとう?」
「うん。優しいんだね。ありがとう」
女の子はまたぐりぐりと私の胸に頬ずりをする。何だか良く分からないけれど、この子に私の動揺が伝わってしまったみたいだ。しっかりしなくちゃ。
「ユイネ。ガルクループに戻る為に、君に協力してもらいたいんだ」
テル君が真っ直ぐに私を見つめている。
「うん。分かった」
私も真剣に返事を返した。何でも良い。とにかく私に出来る事なら何でもする。
「僕らにはユイネが必要なんだ。分かってくれる?」
「うん」
「ありがとう」
少しだけ首を傾けて、ふわりと天使が微笑んだ。思わず見惚れてしまう。
「じゃ、行こうか」
……ん?
「空間を移動するのは身体にかなり負担がかかるからね。人外の僕らは平気だけど、ユイネにはきついから。一旦仮死状態にして向こうへ連れて行くよ」
「え?」
ちょ、ちょっと待って。何の事?
「ユイネ。目を閉じて」
ゆっくりとテル君が迫り、私は慌てながらもぎゅっと目をつぶった。
「あのっ。テ、テル君。ちょっと待って。説明し……」
説明して、と言いたかったけれど、無理だった。そこでぷっつりと意識が途切れてしまったから。