038
どしゃぶり雨の中を何とか駅前まで辿りつき、傘をたたんで顔を上げるとそこに笹本さんがいた。お互いにぺこりと頭を下げて近づいていく。
「今日梅雨明け宣言したと思ったんですけど」
白地に淡いブルーのストライプシャツにジーンズ姿の笹本さんは今日も爽やか。黒ぶち眼鏡の奥の瞳はやっぱり大型犬みたいな柔和さで、今は困ったように微笑んでいる。
「ほんと。すごい大雨ですね」
「突然気圧が不安定になって、局地的に雨雲が発生してるって」
背後を指差した笹本さんの肩越しに巨大な画面が見え、そこでニュースが流れていた。
「これも温暖化の影響って事なのかなあ」
「……そ、そうですね」
多分、タロさんのせいなんですけど。
「でも映画館なら雨でも関係ないから良かったですよね。……なんか初めて見たかも」
「え?」
「唯音さんのスカート姿」
その指摘に何故か慌ててしまった私は自分を見下ろして、いやいや、これは別にっ。その、あの、あ、雨だからっ! と、求められてもいない説明を言い訳がましく、まくしたててしまった。そう。張り切ってワンピースなんか着ちゃったりしている。普段はジーンズやパンツばかりなので、本当は足がすーすーしてそれだけで居心地が悪かったりする。何だか恥ずかしくって困る。
「良く似合ってます」
「あ、ありがとうございますっ」
ああ……。恥をしのんで着てきた甲斐があった……。
そういえば、この服装についてもタロさんは何かと文句を言っていたっけ。
実のところ、タロさんが何を考えているのか私にはさっぱり分からない。かみさまの思考回路は複雑なんだと思う。きっと一般人で凡人の私には計り知れないようなルールがそこにはあるのだろう。
とてつもなくいじわるだと思ったら、次の瞬間にはびっくりするくらい優しい。からかわれているんだろうかと思ったりもするけれど、タロさんは激情家だしいつでも真っ直ぐだったりするのでそれも違うのかとも思う。はっきり言って、良く分からない……。
だけどこれだけは言える。
私の過去について。私の家族について。あそこまで遠慮なく、力いっぱい思いをぶつけられた事はなかった。友達に話す事はもちろんあったし、今でも連絡を取り合う友達は私の家庭の事を良く知ってくれている。それなのに、あんな思いをした事がなかったのだ。
辛くて悔しくて悲しくて、言われた事が案外図星で、ショックで胸が痛くなるような思い。
それもそのはずだ。それは私が、無意識に避けてきていた事だったのだから。
「あれ。雨やんだみたいですよ」
笹本さんの声に顔を車窓へ向ける。右から左へと流れていく風景。電車から見る外の景色はたしかに雨がやんでいて、雨雲の切れ間から差し込むように光が世界へと落ちる。林立する白や灰色をしたビルが、きらきらとそれに輝いていた。
「わあ。もう晴れてるみたいですね」
良かった。タロさんの機嫌が直ったのだろうか。テル君の作った美味しいご飯を食べたのかな。熱もちょっとは下がると良いんだけれど……。映画館のある駅まではあと三つ。
それから笹本さんの学校の話やテレビドラマの話、今まで観た映画で何が一番好きかとか、取りとめのない話をした。がたん、と右に重力がかかり、隣に立っている笹本さんと肩が触れ合った。うおおおお……。何だか緊張する。笹本さんは友達で知らない人ではないのに、私の知っている笹本さんではないような気がしてくる。日々タロさんやテル君と一つのベッドで寝ているとは思えないくらい、私は乙女に変貌していた。
「えっ。太郎さん風邪引いたんですか!? あの太郎さんが!?」
今日一番の大きなリアクションで、笹本さんが目を見開いて驚いた顔をする。それがとても面白くて笑ってしまった。
「タロさんって風邪とか全然引かなそうですもんね」
「あ! ……失礼ですね。俺」
笑いながら駅のホームから人の流れに乗り、階段を降りて改札口まで歩いていく。
「大丈夫なんですか? 熱は?」
「ちょっとだけ熱もあるんですけど、多分大丈夫だと思います。テル君もいるし」
「ああ。そうですね。……太郎さんには悪いけど、俺も今日は譲るつもりないですから」
「あっ」
私は思わず声を上げた。改札を出て呆然とする。この町にやって来た人々でごった返す駅の出入り口から、色とりどりの傘の花が咲いていく。ぽつりと笹本さんが呟いた。
「あれ。さっきまで晴れてたのに」
ざああああああ。
まごうことなき、大雨。空を見上げると、何ともへんてこで複雑な色をしていた。真っ白のもくもく雲と、どんよりとした灰色の雨雲がひしめき合っている。
「あの雨雲、俺達を追っかけてきてるみたいですね」
あはは、と爽やかに笑う笹本さんの横で、私は鼻から大きく息を吐き出した。その通りです。
……タロさん。その執念にひれ伏す思いです。