037
テレビのお天気お姉さんが、晴れやかな美しい笑顔で梅雨明け宣言を告げた日、驚くべき事が起こった。
その日は日曜日だったけれど、私は早起きをして外出の準備に全力で取り組んでいた。それこそ全身全霊をかけて、苦手な化粧も念入りにして、天気予報だって逐一チェックしていた。着ていく服一つとっても、ああでもないこうでもないと随分迷った末に決めたものだったりする。
「やっぱりこっちの方が可愛いよ。おろしていきなよ、ユイネ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
テル君が椅子に座る私の傍らに立って、うねりがちな髪に櫛を入れて整えてくれている。今日も束ねて行こうと思っていたけれど、おろそうかな……。ああ。今から心臓が張り裂けそう。
「今日は待ちに待ったコーイチとのデートだもんね」
にっこり笑って私の顔をのぞきこむテル君。ボーダーの大きめシャツにハーフパンツという格好のテル君は、今日も天使のようにきらきら輝いて見える程の可愛らしさ。ムダ毛なんて一本もない、つるつるの足と華奢な首筋が罪な感じ。
「デ、デートじゃないの。ただ映画を観に行くだけだから」
そうは言ったけれど、私にとっては一大事だった。何せ異性と二人きりでそんな楽しそうなイベントを過ごす事なんて今まで一度もなかったから。でもデートじゃない、と自分に言い聞かせておかないと、ますます緊張してしまう。
テル君はそんな私の思いを簡単に見透かしていて、にこにこと笑いかけてくる。
「夜は? どうするの?」
「今日笹本さんバイトだから、夕方くらいには帰って来ると思う」
「そっか。……あ、雨」
えっ!?
ざああああああああ。
耳を澄まさなくても聞こえてくる雨の音。窓を叩く水滴が次から次へと落ちていく。小雨なんてもんじゃなく、もう思い切り盛大に、雨が降っている。むしろ大雨だ。
「う、うそっ」
さっきまで晴れてたのに!? 梅雨明け宣言したばっかりなのに!?
「……もう。大人げないんだから」
テル君がため息をついて後ろを振り返ると、よろよろと大きな影が姿を現した。影はその場で立ち止まり、大きなくしゃみを二回続けて、それからまたよろよろとこちらに近づいてきた。
「俺が死にそうだというのに、良い度胸だ。ユイネ」
私の向かいの席にどかっ、と腰を下ろして、ぜいぜいと荒い息をつく美しい大男。肩まである黒い髪は乱れて少し顔にかかり、身体を前のめり気味にして私を睨んでいる。とてつもなく強い眼力で睨まれ、息が止まりそうになった。
「大げさだなあ。風邪引いてちょっと熱出てるだけでしょ」
そうなのだ。今日のこの日、驚くべき事にタロさんが風邪を引いたのだ。
かみさまが風邪を引くなんて想像もしていなかったし、本人にとっても初めての事なのだそうだ。テル君も驚いたくらいだ。体温を測ってみたら、少しだけ熱も出ていた。かみさまの平熱が何度なのかは分からないけれど、現在三十七度二分。それからタロさんの機嫌はますます急降下。
「ご、ごめんね? でもずっと前から約束してたから……」
タロさんはむっと口をとがらせて窓を指差した。
「外は大雨だ! 今日は中止だっ」
「タロちゃんが降らしてるくせに」
ぼそりとテル君が呟き、私は少し困って目の前のタロさんに顔を向けた。
「くそ。男と逢引きなんぞ許さん。ユイネのくせに生意気な」
うーん。どこぞのガキ大将みたいな事を言う。
「そういうんじゃないって何回も言ったと思うんですけど」
「阿呆ッ。あいつはお前を襲うつもりだぞ! ああ絶対そうだ! そうに違いない!」
「……何でそんな事になるんですか。笹本さんは友達だし、そんな人じゃないですってば」
「お前はあいつを無防備に信頼しすぎる」
「別に悪い事じゃないと思うんですけど……」
「おまっ」
言い募ろうとしたタロさんは、一瞬顔をくしゃっとさせて、また一つ大きなくしゃみをした。
普段病気なんて縁もなく毎日元気に暮らしている人が風邪を引くと、やっぱり心配になるものだ。そんな訳で私は今日の約束を断ろうとしたけれど、それをテル君に止められた。大した熱じゃないし、あんまり甘やかすと後が大変だから、と。この世界を守っているかみさまなのに、テル君にかかると大きな子供になってしまう。
「ユイネ。もう時間だよ」
「あっ! 遅れちゃう」
「ユイネ! 待て!」
「ごめんっ。タロさん。また帰ったら話聞くから! ちゃんとご飯食べて薬飲んでっ」
慌ただしく家を出てマンションのエントランスまで降りてきた時には、白くけぶる程の大雨の中に世界は沈んでいた。思わず呟く。
「タロさん……こういう事はしたら駄目でしょう」
私の最初で最後かもしれない一大イベントに、大雨のプレゼントをしてくれるなんて。素晴らしいお慈悲です。かみさま……。
でも、負けるもんか。
曇天の空をきりりと睨みつけて、断固たる決意の元に傘を開いた。