035
帰宅したユイネは少し疲れた表情で部屋を見て回り、腑に落ちない顔でリビングに戻ってきた。
「……あの、麗奈は?」
「あんな五月蠅い女は追い出したぞ」
「なっ!」
俺の言葉を聞いて慌てて鞄から携帯を取り出し、電話をかけようと操作する。俺は無言で小さな電話機を取り上げてソファに放り投げた。困惑したユイネがこちらを見上げる。
「何するんですか」
「放っておけ。傲慢で高飛車な女だ。どうせあいつはちっとも気にしてないぞ。無神経な女だからな。お前も居ない方がせいせいするだろう」
攻撃的な言葉に表情が硬くなり、警戒するように一歩退いた。
「そういう風に言うの、やめてください。麗奈は私の」
「『妹』か? ふん。馬鹿らしい。人間というものは、家族ごっこが好きなようだな」
小動物のような怯えた目が俺を見つめている。その両目を見据えて、言った。
「お前も馬鹿らしいと思うだろう? あんな阿呆な女が『妹』だなんて滑稽だ」
「どうしてそんな事言うんです。タロさん、なんか変です。なんで……」
「お前の過去を見た」
短く告げると、ユイネが息を飲んだのが分かった。
「……な、なんで。そんな……」
「もう止せ。あんな連中に付き合ってやる義理はないだろう。お前をないがしろにしてきた奴らだぞ」
俯いてゆるゆると首を左右に振る。
「育ててもらった恩義か? くだらん。あいつらは世間体や見栄で、お前を引き取っただけに過ぎん。お前を養っているのだという優越感で、お前を押さえつけているのだ。今でもな」
「やめてくださいっ。家族の事、悪く言わないで」
ユイネのこじんまりとした小さな手が、拳を作っている。その手が僅かに震えている。こいつは自分の事を攻撃されるよりも、周りの親しい人間の事を悪く言われる方が、こたえるに違いない。そう分かっていて、俺は続けた。
「家族? あの高慢ちきでプライドの高い母親の事か? 反吐が出る。それともその女が孕んで産んだ子どもの事か? 人の心を知ろうとしない怪物のような女だぞ。ああ、そうか。父親の事か。ただ己の平穏のみを願ってお前を見捨てた男の事か?」
じりじりとユイネが後ずさってゆく。俯いたまま絞り出すように声を上げた。
「ど、どうしてタロさんがそんなひどい事言うんです。私を育ててくれた人達の事、悪く言わないで。お、お願いですから」
「何故だ。何故お前があいつらをかばう必要がある」
「だって! ちゃんと育ててもらったから。それにこの世界では珍しくない事だから……。私だけじゃないし、別に辛い事なんてなかったし、虐待とかされたわけじゃないし、ほんとに良くしてもらって……」
背に壁が当たる。ユイネが僅かに顔を上げて笑おうとしている。俺はすかさず音を立てて両手を壁についた。びくりと華奢な肩が震え、沈黙がおとずれる。
「……いい加減、良い子ぶるのを止めたらどうだ。ユイネ」
はっと顔を上げたユイネは心底傷ついた目をしていて、俺の心臓が凍りつきそうになった。しかし、逃げ道を作るわけにはいかない。まだだ。お前に本音を吐き出させる為には苦しい程に追い詰めねばならない。本気でぶつからなければならない。ユイネの視線が不安定に揺れて、ぎゅっと眉根が寄った。
「わ、私、良い子ぶってなんかいませんっ」
「嘘をつけ。俺には分かるぞ。言ってやれば良いのだ。あいつらなんぞクソだ。見て見ぬふりをしてうわっつらの平穏に縋る、見せかけだけの家族ごっこなんぞ、うんざりだとな!」
「そんなっ」
「お前だって本当はそう思っているんだろう!?」
「そんな事思ってませんっ」
「はっ。まだ良い子を演じるつもりか、ユイネ」
どくん、とユイネの心臓の脈動が聞こえた。みるみる顔が赤くなる。激しい怒りの感情が、一気に噴出する。
「ど、どうしてタロさんにそんな事言われなきゃいけないの!? タロさんに何が分かるっていうのっ! ちっとも知らないくせに、勝手な事ばかり言わないでッ」
「お前が本心を言わぬなら、俺が言ってやろう! お前はあの家族の事が嫌で嫌でたまらんくせに、愛しているふりをし続けているだけだ!」
「やめてっ」
耳を塞ごうと動いた細い手首を素早く掴んだ。ユイネが渾身の力を使って振りほどこうとするのを、力づくで押さえつける。
「わ、わたし、そんな事思ってないっ! 良い子ぶってなんかないっ」
分かっている。
お前が本気であいつらに感謝していて、良い子ぶっているわけではない事くらい。
幼いお前が生きていく為には、そうする他なかった。
甘えられる場所がない者には、不満を言う事すら許されない。
受け止めてくれる人間がいない者は、激しい感情をぶつける術さえ持たない。
お前の母が、父が、周りの人間達が、良い子だと褒める度に、重く耐えがたい枷がはめられていった。優しくて強いお前は無意識に、その枷さえも受け入れた。
病床の母を悲しませたくない一心に、本当の自分をどこかに閉じ込めてしまったのだ。
しかしどうして一方的に、お前が我慢を強いられねばならんのだ。
「自分達のエゴを押しつけるなと言ってやれば良いだろう!? お前の本当の母親だって、自分勝手に生きていたではないか!」
「もうやめてっ! お母さんの事、悪く言ったら許さないっ!」
ユイネが顔を上げ、肩で息をしながら真っ直ぐに俺を睨みつけた。
「その母親だって、結局はお前の幸せを後回しにしたのだぞ!? お前の事を思うなら、あのまま親戚の家いた方が良かったのだ! 何故わざわざとっくに縁の切れた父親にお前を預けた!? それで本当に、お前が喜ぶと思っていたと言うのか!」
「やめて! は、離してッ!!」
「言ってやれ! 何故自分を置いて死んでしまったのかと! 何故自分を一人ぼっちにしたんだと!」
ユイネの瞳に涙があふれ、頬を伝った。唇が震え、それを押さえつけるようにぎゅっと口を結ぶ。ぼとぼとと大粒の涙が、次から次へこぼれ落ちてゆく。
ユイネ。
嫌な事は嫌だと言え。無理矢理に飲み込もうとするな。吐き出せ。
それが受け入れねばならない自分の運命だとしても。
抗え。
諦めるな。
お前にはその権利がある。
きつく押さえつけていた手首を解放した瞬間、左頬に激痛が走り一歩よろけた。視界の端に固く握られた小さな拳が見える。
「だ……だって、どうすれば良かったの? 死んで欲しくなかった……い、生きてて欲しかった。だけど、誰が助けてくれるの……」
両手で顔を覆って、ユイネは泣いた。
「わ、私が、嫌だって言って泣きじゃくれば良かったの? そうすれば……お、お母さんは助かったの!? そうすれば……わ、私は邪魔者にならなかったっていうの!?」
「ユイネ……」
「いやっ! 触らないでっ」
肩に置いた俺の手を振り払い、身体をよじって俺の胸を両手で押し返した。構わずに力づくで震えている身体を抱き寄せると、本気で抵抗してくる。しかし小さな身体は簡単に、腕の中におさまってしまう。
「やめて! 嫌っ」
「ユイネ」
「い、いやだったらっ……うっ……」
ユイネが泣きながら俺のシャツを掴んで逃げ出そうと暴れる。俺は柔らかな髪に口付けて、押しつぶさないように気をつけながら一層きつく抱き締めた。
「ユイネ。悪かった」
「ひ、ひどい……タロさ、ど、どうして……」
「……お前の泣き顔が見たかった」
隠さずに、本心を告げた。ユイネの身体から力が抜け、しゃくりあげるような嗚咽が身体を伝って届く。
「うっ……うぅっ。ひどいっ」
「すまん」
「さ、最低っ……お、鬼っ悪魔ッ……」
「ああ。何とでも言え」
「鬼畜っ……へ、変態……ひとでなしっ……ううぅ」
「ああ。お前の言うとおりだ。俺は最低な奴だ。こんな奴に遠慮なんかする事はないのだ、ユイネ」
だから俺には気を使わなくて良い。
感情を殺さなくて良い。俺にぶつけろ。受け止めてやる。
「タ、ロ……さ……」
柔らかくあたたかな気が、流れ込んできた。
*
「どうしてそんな乱暴なやり方しか出来ないのかなあ」
ベッドの脇に腰をかけ、ユイネの頭を愛おしげに撫でながらテルが呟いた。ユイネは泣き疲れて眠っている。
「スマートじゃないっていうかさ、好きな子をいじめる事しか出来ない子どもみたい」
「何だとっ」
「でもタロちゃんにしたら上出来だよ」
テルはユイネの寝顔を見つめ、目を細めて微笑む。
「ユイネは人前で泣く事すら、ずっと我慢してたんだから」
俺達は無言でユイネの寝顔を見つめた。
幼い頃のお前にとって、漆黒の珠は文字通り『お守り』だったのだろう。この世界で生きていく為に、目の前に広がる世界で日々を暮らしていく為に、無機質な黒い石に全てを託して歩み続けた。
悲しみも怒りも喜びも、言葉では表現出来ないような複雑な感情も、全てをあの石に吐露して何とか地に足をつき、ふらつかずに立ち続けた。お前がこの世界で、何の不安もなく縋る事が出来るただ一つの存在が、あの珠だった。
それ程大事にしていたものでさえも、お前は静かに差し出すのだ。相手の思いを真っ直ぐに受け止め、相手の心に思いを馳せ、自分の事など一向に顧みずに。それが当たり前の事だというように。
美しい魂が抱える重く深い孤独は、強くしなやかな心によって美しい音色に変わる。少しの闇を含んだ優しい旋律は、人の心の痛みを知るからこそ、あたたかな光を作り出す。