034
その日は麗奈の誕生日で、数日前にプレゼントを買って用意していた。しかしファミレスのバイトが入っていて、帰りが少しだけ遅くなってしまったので急いで家に帰った。最近は家族そろって食卓を囲む事も少なくなってしまったが、誕生日にはみんなで食事をしようと決まっていたからだ。玄関で靴を脱いでいると、リビングから楽しそうな笑い声が聞こえた。顔を上げる。すりガラスの嵌め込まれた扉から、光がもれている。
すっと心が冷えた。
あの人達は楽しい時を過ごしている。家族三人水入らずで。邪魔な私のいない時を楽しく過ごしているのだ。邪魔者は私で、あの家族に余計なのは私だ。
脱いだ靴を履き直して外に出て扉を閉めた。駅前まで歩いて、本屋で時間を潰してから家に帰った。
「あ、おかえり唯音。遅かったのね」
テーブルの上は既に片付いていて、『母』が洗いものをしながら話しかけてきた。
「バイト長引いちゃって……」
「おねーちゃん帰ってくるの遅いから、先食べちゃったよ~! 誕生日にはみんなで食事って決まってるのに~」
「あ、うん。ごめんね」
「晩ご飯、どうする? 冷蔵庫にあるわよ」
「あ、ちょっと食べてきたから……」
「え~! あたしの誕生日だったのにぃ?」
本当は昼から何も食べてない。のんきな麗奈の声に腹が立った。そっちは私なんか待たずにお腹いっぱいご飯を食べたんでしょう?
ちらりとテレビの前のソファに目を向けると、父の背中が見えた。いつだってこの人は、聞こえないふりをする。
「ごめんね。でもこれ、誕生日おめでとう」
リボンのついた包みを手渡すと『妹』の顔が輝いた。
「やった! もしかして前からあたしが欲しいって言ってたやつ?」
「うん」
ブランドものの、キーケースだ。
「ありがとっ」
「まあ。それじゃ高かったんじゃないの? 麗奈ったら、そんなものおねだりして」
「おねーちゃん、バイトしてるから平気でしょ~」
唯音は疲れているから、とリビングを出た。いつだって両親が本気で麗奈を怒ったりしないのは知っている。リビングの光がもれる廊下で立ちつくし、自分の着ている制服の、スカートの折り目を見つめた。
本当に、心の底から、疲れた。
もうへとへとで何も考えられない。
「馬鹿みたい……」
呟いて、家を出た。
死ぬには飛び降りるのが一番手っ取り早い。足が無意識に背の高い団地に向いていた。半ば走るようにして歩き続け、頭がぐらぐらして息が上がって、喉がずきずきと痛む。突然思いついて肩にかけている学生鞄に手を突っ込んだ。あのお守りに指先が触れた。途端に激情が込み上げて目に涙が滲む。
悲しくなんてなくて、憎らしくて悔しくて涙が出るのだ。歯を思い切り食いしばって、闇よりも黒い石を睨みつけた。
もういやだ。もう疲れた。
生きてなんか、いたくない。どうしてこんなに辛い思いをしてまで、生きなくちゃいけないの。
両手を振り上げて目の前のコンクリートの壁に思い切り叩きつけた。がつ、と音がしてころりと地面を転がった。とっても硬そうな石だったけど、ひびが入ったに違いない。欠けたはずだ。
大事なお守りなのに自分で壊してしまった。もう後戻りできない。もうだめだ。
肩で息をしてお守りを拾い上げ、自分がやってしまった事を確認する為に丸い石を両手で転がす。手がぶるぶると震えて、涙があふれた。
「な……なんで……」
黒い石には、傷ひとつ、ついていなかった。
いつもと変わらない、黒くてまん丸で、少しひんやりとしたすべすべの石。私のお守り。
「なんで……」
幾筋も頬に涙が伝う。嗚咽がもれ、肩が震える。
なんで。
「お母さん……」
なんで死んじゃったの。私を置いて────。
私はずっと一人ぼっちなのに。私はずっと邪魔者で余計で余分で、必要のない人間なのに。
私なんか生きてたって、誰も喜ばないのに。
「お、お母さんっ」
私はどうして、生きていなくちゃいけないの。ずっと独りなのに……。
唯音はその場でうずくまり、肩を震わせて泣き続けた。その背が、どんどん縮んでいく。小さく小さくなって、夜の闇に消えていく。
「だ、大丈夫……大丈夫。平気……。こんなの、大した事ない。わ、私には、お守りがあるから……だから」
大丈夫。
*
「おかあさん。おみやげ」
幼い唯音の小さな手に握られているのは、黄色い花のついた雑草。母は微笑んでそれを受け取った。
「まあ綺麗ね。どうしたの?」
「おねえさんとね、じんじゃのとこでね、とってきたんだよ。きれいだったから、おかあさんにあげる」
「ありがとう。唯音」
唯音が思い切り母に抱きつくと、柔らかな手が小さな頭を撫でる。大きく息を吸い込むと母の匂いに包まれる。
病室の白いカーテンが揺れた。
「……唯音はとっても良い子ね。優しくて、人を思いやれる子だもの。お母さんの自慢だわ」
顔を上げると、母が嬉しそうに額をくっつけてきた。
「お母さんの人生ってろくでもなかったけど、唯音のおかげでうんと良くなったわ。幸せよ」
「ろくでもないって?」
「ふふ……」
「さあ唯音。そろそろ帰ろうか」
病室に戻って来たおじさんがにこにこしながら近づいてくる。おばさんは同室の人やその家族と挨拶していて、まだ部屋の入り口にいる。
唯音は素直に頷き、母のベッドから降りておじさんの手を握った。
「いつもすみません。本当に、ありがとうございます。何からなにまで……」
「馬鹿だなあ。そんな事気にする暇があったら、たくさん食べて早く元気にならなきゃ。唯音はとっても良い子で頑張ってるよ。だからお母さんも頑張らなくっちゃあ」
「……はい」
「おかあさん、またね」
「またね、唯音」
手を振って病室を後にした。幼い唯音は、ちゃんと分かっている。母の病気が悪いもので、簡単に治るようなものではない事を。抱きついた母の身体はまた少し、痩せてしまっていたから。
おじさんとおばさんと手を繋ぎ、唯音は真っ直ぐ前を向いて歩いた。振り返ったら泣いてしまうから。
おかあさん。はやく元気になってね。うんと良い子で待ってるから。
*
「ユイネッ!」
俺は大声を上げて、飛び起きた。
「……な、なに」
はっと我に返り首を横に曲げる。ソファから半身だけを起こしてぼさぼさ頭のユイネが俺を見ていた。
今まで見ていたユイネよりも少し頬が痩せている。大人の顔つきだ。そこで過去から戻ったのだと分かり、部屋を見渡した。薄暗いリビング。しんと静まり返ったキッチンにカーテンの閉まっている窓。
「タロさん……どうしたんですか」
呆然とまたユイネに視線を戻す。
「いや……」
「も、びっくりさせないでください。夢でも見てたんですか……あたま、ぼさぼさですよ」
少し面白そうな声。
「お前もだ」
ユイネは少しだけ笑い、もぞもぞとソファに沈み込んだ。俺はその小さな背をじっと見つめ続けた。
翌日もユイネには仕事があり、朝早く家を出ていった。昼過ぎまで寝ていたユイネの妹は、すっかり立ち直っていて俺とテルに興味を持ち、さんざんくだらない事ばかりを質問してきた。
「も~チョー可愛い! テルってぇ、学校でモテモテでしょお!?」
テルはにっこりと微笑むだけだ。それだけで女はきゃーきゃーと騒いだ。
「おい。さっきからうるさいぞお前。殴られたいか」
あまり強くは言えない。こいつを泣かせばユイネが悲しむ。くそ。
「太郎さんってぇ、みんなにそおいう態度? チョー受けるぅ! チョーイケメンなのにぃ! あ、ゲームしよっと」
今すぐ息の根を止めてやりたい。
ゲーム機を引っ張り出してソファに陣取り、遊び始めた女の背を睨みつける。腹でも痛くなっちまえ。
「いつまでいるつもりだ。さっさと帰れ」
「ええ~太郎さんに言われたくなーい! ここ唯音んちだしぃ」
何が面白いのか、げらげらと笑い転げた。やはり、我慢ならん。今すぐ消してやりたい。キッチンに立つテルに視線を投げると、無言で首を振った。
「唯音ってさ、あんまし怒んないじゃない? だからあたし、いっつも言いすぎちゃうの」
突然に真面目な声音で女が呟いた。
「あたしと唯音の母親が違うって聞かされたのはぁ、あたしが高校生になった頃かな。チョーショックでぇ、まじむかついてさ。ちょっとグレたもんね」
「意味が分からん。お前なんぞのショックなど、ユイネの苦しみから見れば塵に等しい」
ひっどーい、と叫んでまた笑った。
「唯音ってチョー大人。そんときもぉ、やっぱりいつも通りだったもん。育ててくれて感謝してるって言ったんだよ!? チョーすごくない!? あたしだったら暴走族とかヤンキーになってる、絶対」
……ユイネ。
「おい女。今すぐ帰れ。邪魔だ。消えろ」
俺は立ち上がり、女を睨みつけて言った。
「は? ちょ、怖いんですけど」
「タロちゃん、やめなって」
有無を言わせず腕を掴んで立ち上がらせる。
「い、いたっ! ちょっと何すんのよっ」
ぐっと屈んで女の顔をのぞきこんだ。すると相手は顔を赤らめ緊張しつつ俺を見上げる。動揺している両目を見据え、低く告げた。
「死にたくなかったら今すぐ出て行け。……良いな」
腕を離すと、女はぎくしゃくしながら鞄を抱え、逃げるように玄関に走っていった。テルが一瞬俺を睨みつけてからその後を追う。
「レナちゃんっ」
テルがうまくフォローするだろう。他の事に気を使っている場合ではない。
ユイネ。
お前の抱える孤独は、何と重く深いのか。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
またもや読者が減りそうな暗い展開……。ううむ。
ユイネの不幸体質な考え方のルーツは過去にあります。
タロさんどうする。
いつも読んでくださる皆様、感謝です。