033
真っ暗闇の中、小さな心臓の音が聞こえる。とくり、とくりと規則的に鼓動を打つ。少し早い気もする。じんわりと子どもの体温をすぐ傍に感じ、俺の全身がそれに包まれている事に気付いた。すると突然、大声で泣きたくなった。
寂しい。心細い。どうしたら良いのか分からない。辛い。怖い……。この心の痛みは何だ。
幼い少女の声が途切れ途切れに耳に届く。
「だいじょうぶ……だいじょうぶ……こわくない。まだへいき……おまもりがあるから。だいじょうぶ……」
ユイネ!
俺は声を上げたはずだった。しかし、声が出ない。驚いて辺りを見回そうとして、愕然とした。俺の身体が、ない。存在しない。
次の瞬間、放り投げられたように意識が飛んだ。
*
「はぁい。じゃあいただきますして食べましょうね」
テーブルの上にはレストランで見るようなお子様セットについてくる、旗つきのピラフ。旗がついているのは自分の分ではないけれど、同じピラフが目の前にある。それだけで嬉しくなった。
両手をぺしりと合わせ、大きな声でいただきますをした。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
大きく口を開けて頬張る。あったかくて、とてもおいしい。午前中にうんと遊んで来たから、お腹がペコペコだったのだ。隣に座って少しだけ持ちにくそうにスプーンを操る『妹』を眺めた。
「麗奈ちゃん。こうやって持つんだよ」
スプーンを振って見せると、くりくりとした目が真剣にそれを見つめ、それからピラフの山に口からかじりついた。
「まあ。あはは。麗奈ったら」
『お母さん』が楽しそうに笑って、麗奈がおいしいっと大きな声で叫んだ。ふうと息を吐き出して、また一口ピラフを頬張った。やっぱりおいしい。
ここに来た頃は他人の家に来ているみたいにずっと緊張しっぱなしだったけれど、『お母さん』はとても優しかった。『妹』も元気で可愛い。良かった。
きっと、うまくやっていける。
おかあさん。おかあさん。だから、安心してね。
*
それは唯音が小学校に上がった頃の事だった。黄色い帽子をかぶって赤いランドセルを背負った唯音は友達と分かれ、帰り道をてくてく歩いていた。曲がり角を曲がって、家の茶色い屋根が見えてくる。玄関が開いていて、どこかのおばさんの後ろ姿が見えた。唯音がこんにちは、と挨拶しようとその大きな背中を見上げた時だった。
「でもほんと、偉いわ。だって奈緒さん、前の奥さんとの子どもの面倒まで見ているんでしょう?」
その場で棒立ちになった。「奈緒さん」というのは『お母さん』の名前だ。
「あたしだったら出来ないかも知れないもの。自分の子だけでも大変だっていうのに」
「そんな。当然の事ですわ」
「色々悩みも多いでしょう? 血が繋がっていない子と自分の子と、同じように接するのって大変だと思うのよ。そんな悩みって、普通ないものね」
唯音の小さな心臓が、どくどくと鳴っている。おばさんも『お母さん』も、唯音に気付いていない。
「ええ。でも私達、引き取る時に決めましたの。どんなに辛い事があっても頑張ろうって。家族三人で力を合わせて乗り越えようって」
「まあ……。立派だわ」
足音を立てないようにそろそろと後ずさり、来た道を引き返した。足元だけを見て歩いた。『お母さん』の声は誇らしげで、聞いていたおばさんもとても感動していたようだった。
家族三人。
そこに数えられていないのは自分だ。
お父さんと『お母さん』と『妹』。その家族三人にとって自分は、「乗り越えなくてはならない辛い事」だったのだ。気付かなかった。知らなかった。自分がそんな存在だったなんて、分からなかった。
自分は、なんて馬鹿なんだろう。なんにも知らないで、なんにも気付かないで、のんきに毎日過ごしていた。自分は、なんて馬鹿なんだろう……。
家のまわりを一周して戻ってみると、玄関の扉は閉まっていた。今までなんにも思わなかったけれど、この家の扉が自分を拒絶しているように見えた。怖くて取っ手が掴めない。家に帰りたいのに、緊張して足が動かない。唯音は扉の前でしばらく立ちすくんだ。太陽の日差しが赤いランドセルを照らし続けた。
意を決して帰ってみると『お母さん』も『妹』も普段どおりだった。少しだけほっとしてお昼ごはんを麗奈と一緒に食べた。
「どう? おいしい?」
「おいしい!」
「うふふ。良かった」
麗奈が一心不乱にスパゲッティを頬張り、『お母さん』は向かいに座ってそれを楽しそうに眺めている。唯音はちらりとそれを盗み見て、それから勇気を振り絞って口を開いた。
「お母さんのスパゲッティ、とっても美味しいね」
心臓が飛び出してしまいそうな程どきどきして、息をするのが辛い。こわくてこわくてたまらない。『お母さん』が唯音に顔を向け、にっこりと笑った。それを見て、心の底から安心した。それでやっとお腹が空いてきて、おいしいスパゲッティを心おきなく頬張った。
麗奈がジュースのおかわりを欲しがり、『妹』のマグカップを持ってキッチンに向かった。洗いものをしている『お母さん』の背中が見え、唯音は声をかけようと上を見上げた。
「麗奈よりもあんなにたくさん食べて……遠慮もしないなんて……なんて図々しい子」
小さな呟きだった。洗いものの音に混ざって聞き取れない程の声だった。なのに、聞こえてしまった。慌ててテーブルに引き返した。麗奈がマグカップを覗き込んで、それが空だと分かると大声を上げた。
「ママぁ! ジュース!」
はいはい、と『お母さん』が返事をする。唯音の前には食べかけのスパゲッティがあった。さっきまでおいしく食べていたのに、もう手が伸ばせなかった。喉の奥がごろごろして苦しい。お腹は空いているのに、胸がいっぱいだった。
「唯音。どうしたの? もう食べないの?」
『お母さん』の声がして、どきりとする。唯音は俯いたまま急いでフォークを掴んで一口食べた。すると何故だかスパゲッティがぼそぼそとして味がなく、噛むのも辛くて飲み込む時に喉が痛んだ。そろりとフォークを置いて小さく呟いた。
「もうお腹いっぱい。ごちそうさま……」
半分残っていた。
「あら。もう良いの」
見上げると『お母さん』がこっちを見ていて、思わず息を止めた。
『お母さん』の表情が、なんだか嬉しそうだった。今まで気付かなかったごく小さな事だけれど、目が嬉しそうだった。
唯音はその日から、なるべくたくさん食べないようにしようと決めた。『お母さん』の料理はとってもおいしいのでそれは大変な努力だったけれど、ちょっとずつ残すようにして麗奈よりもうんとたくさん食べないように気をつけるようにした。
自分は頑張らなくちゃいけない。この家にとって自分の存在は「乗り越えなくてはならない辛い事」なのだから、その当人である自分が、わがままを言うなんていけない事だ。本当なら『お母さん』は、血の繋がらない子を育てなくても良いのに、自分を引き取って育ててくれているんだから。
嫌われてはいけない。頑張らなくちゃ。
それでも夜になると、涙が出た。でも泣いちゃだめだ。めそめそ泣いてちゃいけない。おかあさんが心配するから。そんな時はお姉さんにもらったお守りを抱いた。黒くて大きくてまんまるの石だ。触るととっても気持ち良い。お腹が空いて眠れない時も、そのお守りを抱いて眠った。すると何故だかほっとしてすぐに眠れるのだ。それからは寝る時にいつもお守りを抱き締めて眠るようになった。
唯音が小学校高学年になった頃、麗奈がタレントを養成する劇団に入った。日々歌やダンスや演技などといったレッスンが目白押しで、その送り迎えの為に『お母さん』も忙しくなった。唯音が一人で留守番する事が多くなり、それがだんだんと日常になっていった。帰りが夜になる時は危ないので、お父さんと待ち合わせして三人で家に帰宅する事もある。そういう時には必ず麗奈から電話があった。
「帰り遅くなるから、ごはんテキトーに食べといてってぇ」
「あ、うん。分かった」
三人はどうするの? と聞いた事は一度もなかった。家には買い置きのカップラーメンがあるので、唯音はテレビを見ながらそれを食べた。ぼそぼそとして飲み込みづらく、目の前がぼやけてテレビが見えなくなる。鼻の奥がつんと痛んで、味なんて分からなかった。たまらずに席を立ち、お守りが置いてある自分の部屋に走った。黒くて丸くてすべすべの石を両手で抱えて椅子に座り、じっとそれを見下ろした。
涙が石の上にぽつりと落ちた。ぽつりぽつりと、つるつるの石の上に落ちていく。音もなく水滴が真っ黒の石に落ちて、それからまた側面を伝って流れた。
「だ、だいじょうぶ……へいき、ぜんぜん……。わ、わたしには、お、おまもりが、あるから……」
唯音はいつも、お守りを抱いて声を出さずに泣いた。
中学生になって、唯音はお守りを肌身離さず持ち歩くようになった。どうしても不安定になる事が多くなり、どうして良いか分からなくなった時にお守りに触れると、不思議と心が落ち着くのだ。
このお守りの事は誰にも言わなかった。誰にも見つからないように気を使ったし、どんなに仲良しの友達にも軽々しく話したりは出来なかった。このお守りだけが、自分の拠り所だったから。もしこの大事な石がなくなってしまったら、生きていけないだろうから。
しかし高校生の時、苛々して大事なお守りを壁に投げつけた事があった。壊れてしまえば良いと思って、思い切り投げつけたのだ。唯音はその日、死ぬつもりだった。