003
「何っ! な、何だ! 誰だ、お前はっ」
地面に下ろされ、両肩を掴まれた状態で男が私の顔をまじまじとのぞきこんできた。
今や全身が雨に濡れ、水滴が顔を伝って目を開けているのがやっとだった。
「何だ、この地味な女はっ! お前は誰だっ」
目の前の大きな男が両目を見開いて大きな声を上げた。
強い力で身体をがくがくと揺さぶられ、よろよろと足元がふらつく。
ひいい。こ、怖い。
「すっ、すみません! く、くらたですっ。倉田唯音です!」
「ユイネ!?」
「ひ、人違いなんです、ごめんなさいっ」
「女! ヨーコはどこだ!? ヨーコをどこへやった!?」
「え、ええと……」
「答えろ!!」
「ごめんなさいっ! 知りませんっ」
「テルッ! どうなってる!?」
パシャン。一瞬、薄青い光が閃いた。
「や、それがさあ。僕にも分かんないんだ」
私はまた息をのむ。
天使……。
あの男の子がいつの間にかすぐ傍に立っていた。
何故だかほっとして、縋る思いで男の子を見つめる。天使みたいに綺麗な男の子は、苦笑して男に言った。
「離してあげなよ、その子」
両肩に鋭い痛みが走る。ぎゅっと眉根を寄せて相手を見上げた。とんでもない力で肩を掴まれている。
いたい。
「す、すみません……あの、い、痛い」
「……何故だ」
男が低く呟いて、ぐらりと大きな身体が傾き、呆然と立ちつくす私の足元にどうと倒れてしまった。
は、は、と浅い呼吸を繰り返して足元を見下ろす。ぴくりとも動かない身体に容赦なく雨が降り注いでゆく。
「あ、ああっ。あのっ! 大丈夫ですかっ」
大変だ。救急車、警察……どっち。どっちも!?
ぐたりと地面に落ちている鞄に慌てて手を伸ばす。お守りを素早く鞄の中に収めて、震える手で携帯を探る。ぽたぽたと目の前に水滴が幾筋も落ちてきて前が見えづらい。空いている手で額を拭って髪を押さえつける。ああ、でもこんなに濡れてしまったら、携帯もダメになってるかも。
「……よいしょ。ねえ、君の家、このマンション?」
何だかひどく冷静な男の子の声が聞こえる。私は視線を鞄に向けたまま、反射的に答えていた。
「は、はい」
「何号室?」
「ええと、603」
「オッケー」
はっとして男の子を見る。驚いた事に、小柄なその子が、倒れていた大柄の男を抱きかかえていた。俗に言うお姫様だっこ。すごい……怪力。
その時、きいん、と耳鳴りが鳴った。あまりにも鋭く頭を突き抜けるような音だったので、思わずぎゅっと目をつぶった。次の瞬間、瞼を通り越して視界が真っ白に焼けた。激しい光に包まれる。
「な、なに……」
すると今度はかっと身体が熱くなった。サウナに入ったみたいに、周囲の空気が熱波を含んで、その熱が皮膚を浸透して芯まで温めてゆく。あつい。
もう何が何だか分からない。何が起こっているのか分からない。
私はぎゅうと胸に鞄を抱き締めて、中にあるお守りを思い浮かべた。
「……もう目を開けて大丈夫だよ」
その穏やかな声に、おそるおそる瞼を開く。
見慣れた景色。
なんで?
私の部屋の玄関に立っている。
「わわわっ」
「ベッド借りるね」
男の子がスニーカーを脱いで部屋へ上がり、大きな男を抱えたまま寝室に消えた。
見慣れたカーペット。青のカーテン。寝室にリビング。小さめのキッチン。私の部屋。オートロックのマンションの、私の部屋。
一瞬にして、何故だか全員が私の部屋にいる。その上あれだけ雨に打たれてべったり濡れていたのに、そんな事があったなんて嘘のように服も髪も乾いている。濡れていない。
「さて。お茶でも入れようか」
寝室から出て来た男の子は自然な動作でキッチンに立って、やかんに水を入れてお湯を沸かし始める。
間抜けな私は鞄を胸に抱えたまま、それをぼんやりと見つめていた。
「ああ、コーヒー党ね」
ごそごそと戸棚を物色し、慣れた手つきでインスタントのコーヒーを出し、食器棚からマグカップを二つ取り出す。私は一人暮らしなので、揃いのカップは持っていない。って……。
「あ、私、やります」
男の子の大きな黒目がじっと私を見つめ、口元が綺麗に微笑んだ。
あ、綺麗。
何とかっていう女優さんにちょっと似てる。色素が薄くて清潔感のある雰囲気。
いそいそと部屋に上がり鞄をリビングのソファに置いて、ジャケットも脱いでそこにかけてキッチンに立つ。並んで立つと良く分かった。テル君の頭が私のちょうど、あごの辺り。身体つきは華奢な方だ。
「君って面白い。ユイネ?」
「あ、はい。ええと……テル、君?」
「うん。普通さ、警察呼ぶわよ、とかなったりしない?」
やかんからお湯を注ぐと、マグカップからふんわりとコーヒーの香りが漂う。天使のようなテル君が先に歩いてテーブル席に向かった。その背を追いかけて言葉をかける。
「あの、外国の方ですよね? 外国からいらっしゃったんですよね? そ、それで、誰かと会う約束をしてて、ようこさんて人と間違われたんでしょう?」
「ふふ……」
「あの、あの男の人、大丈夫なんですか?」
「大丈夫。少し疲れてるだけだよ。ここに来るのに飲まず食わずで、力も使いすぎた」
「それは大変……。あ、お砂糖とミルクは……」
「いらない。僕はブラック派」
……大人だ。そう言う私もコーヒーはブラック。だけど、そうやて飲むようになったのはつい最近の事。
テル君と私は向かい合わせの席について、無言でコーヒーを啜った。
壁にかかっている時計を見ると、今は六時を少し回ったところ。総菜パンとカップスープは残念な事に一緒に運ばれなかったみたい。晩御飯、どうしよう。
「ふう。ねえユイネ。このまま話を進めて良い? 説明をしなくちゃ。それに、君からも聞かなくちゃね。どうしてユイネが、あの黒い珠を持っているのか」
「あ! そ、それは私、別に盗んだとか、そんなんじゃなくって……」
言い訳をしようと慌てて口を開いた私に向かって、テル君はにっこりと微笑んだ。エンジェルスマイル。
私の胸がきゅん、と鳴った気がした。
「良いよ。分かってる。まずは僕らの事」
「……はい」
これじゃあどっちが年上だか分からない。
「僕らは、君達が住むこの世界とは違う世界から来たんだ。同じ時を刻み同じ命を育む。並行して存在しながら決して重ならない世界。空間を共有しない異世界。そういう世界が、ここと、僕らの世界と、あと三つ存在してる」
その話の入り口から、私の頭はショート寸前だった。




