025
分かってる。タロさんという人は最初から失礼で偉そうだったのだ。今に始まった事ではない。
たった数日しか一緒にいないのに、どうしてあの不思議な二人とこれ程打ち解けてしまったのだろうか。そう言えば赤の他人と寝起きを共にする事だって、初めてだったのだ。人見知りの自分には到底無理な事ばかりだったのに、何故、自然にそれが出来ていたのだろうか。不思議でならない。
相手が宇宙人だったり人ではなかったりするからかも知れない。
とにかく、今週末は必ず母の故郷を再訪しよう。それで何が何でもヒロさんに聞いて、ヨーコさんの居所を何としても突き止めてみせる。半ば意地になってそう決意した。
昼時のフロア。パソコンの林の中で電話当番をしながらおにぎりをもぐもぐと食べた。窓から柔らかな日差しが差し込んで、とっても穏やかな陽気であるのが分かる。ここ最近は暴風雨もない。
コンビニで買ったおにぎりが、ぼそぼそとして飲み込みづらかった。ぎくりとする。この感覚は、遠い昔のあの頃と似ている。そう思っただけで落ち着かなくなり、ばくばくと心臓が騒ぎ出す。かろうじて平静を装いペットボトルのお茶を一口飲んだ。指先が震えた。無意識にかばんに手をやったところで、また混乱しそうになった。
私にはもう、あのお守りがないんだった……。
それにあれは、私のお守りじゃなかった。あれは最初から、ヨーコさんのものだった。テル君もタロさんも、ヨーコさんに会いに来たのだ。タロさんが必要としているのはヨーコさんで、テル君の美味しい手料理を食べるはずだったのもヨーコさんだ。
私はただの代わりだ。都合良くそこにいただけの。
どくり、と心臓が縮む。
まずい。
何か他の事を考えなければ。私の悪い癖だ。良くない事を考えて、もっと良くない状態になる。その時、ぶーん、と携帯が震えた。気を紛らわせる為にそれを手にとる。笹本さんからのメールが届いていた。
【こんにちは! 今日はこれからバイトです。唯音さんはおにぎり食べてますか? 当たってたらすみません】
出勤前にいつもコンビニに立ち寄って昼用のおにぎりを買うから覚えてしまったのだろう。笹本さんの予想が大当たりで、少しだけ口元を緩めた。そのまま携帯を握り締めて深呼吸をする。
大丈夫、大丈夫。
これも子どもの頃からの癖だった。良くない事を考えようとしてしまう自分を宥める為に言い聞かす。
ずっとそうやって来た。あの丸くてひんやりとしてすべすべのお守りを抱き締めてそうしていると、不思議と心が落ち着いた。自分の居場所がそこにあると、そう思えて安心出来た。
いま手に中にあるのはお守りじゃなくて携帯だけど……。
そうだ。最初からヨーコさんを見つけるまでの間柄だったのだから、今更動揺する必要はないのだ。それに代わりであってもこんな自分が役に立てているんだから、きっとあの二人と今は一緒にいていいのだ。さすがに下僕というのはいただけないので、それは訂正してもらわないといけないとしても。
*
夕方、のろのろと家に帰るとそこはもぬけの殻だった。テーブルの上に置手紙があり、綺麗な字面で言葉が並んでいた。
【これから『紅蓮』をガルクループに連れて行きます。明日の昼頃には帰ってくるからね。夕飯は冷蔵庫にあるからチンして食べて。テルより】
ほっと息を吐き出す。『紅蓮』さんはどちらかというと苦手なタイプだったので、ついほっとしてしまった。何だかすごく元気な人だったなあとぼんやりと思った。
部屋を見渡す。青色のカーテン。リビングのソファにテレビ。傍らには最新のゲーム機。キッチンには知らない内に様々な調理器具が増えている。しん、と静まり返った部屋。
ああそうか。こんなに静かだったのか。
少しだけ落ち込んで、少しだけのんびりとした一人の時間を満喫した。
*
今日は待ちに待った金曜日。今まで経験した事がないくらい濃厚すぎる一週間だった。仕事を休まずに行けた事の達成感に思わず涙ぐみそうになる。私よ、よく頑張った。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
陳列棚に商品を並べている笹本さんが、ぺこりと会釈をしてくれた。私も会釈を返し、レジへと向かった。朝のコンビニは出勤途中に立ち寄るお客さんで意外に盛況なのだ。
幾度かのメールのやりとりで、以前よりも笹本さんの事に詳しくなった。彼は私と同じ二十三歳で、今は保育士の資格を取る為の専門学校に通っているのだそうだ。一度、一般企業に就職をしたが夢を捨て切れず退職して、今の道を選んだのだという。保育士という職業がそのまま笹本さんのイメージにぴったりで、私はとても感心したのだった。
出社し自分の席についてパソコンを立ち上げる。社内用のHPにアクセスし、届いているメールをチェックしてゆく。その中の一通に訃報を知らせる人事部からのメールがあった。何とはなしにそれも開いて次をクリックする。そこで、はたと手が止まった。稲妻のごとく頭に閃いた思いに、愕然とした。
もしかしたら、ヨーコさんはもうこの世にはいないのかも知れない。
喫茶店のマスターのヒロさんが、ヨーコさんの名前を聞いた後の狼狽ぶり。あれはこういう事だったのではないか。
ヨーコさんはもう既に亡くなっているのだ。
それは子どもの頃の事なのか、それとも大きくなってからの事なのかは分からない。もともと身体が弱かったのかもしれない。療養も兼ねてあの土地にいたとしたら、小学校のアルバムに載っていなかったのも頷ける。
ヒロさんはヨーコさんを知っていて、そして亡くなったという事も知っていた。その事実を知らずヨーコさんを探しに来た私に、本当の事を告げるべきか決めあぐね、動揺した態度をとってしまったんじゃないか。そう考えたらしっくりくる。
でもそれが本当だったらどうしよう……。どうすれば良いのだろう。タロさんになんて言おう。だってタロさんはずっと、ヨーコさんとの思い出だけを頼りに生きていたのに……。
軽いパニックになりそうになった時、始業のチャイムが鳴った。
どれだけ混乱していても憔悴していても、時は待ってくれず仕事はさばいていかなくてはならない。
その日の私は普段にも増して口数少なく、極力誰とも目を合わせないように過ごした。
「はい、これで最後でーす。お願いしまーす」
矢崎さんが書類の束を机の上に置いた。その書類の上に、ぽんと可愛い包装の飴玉が三つ。
「あ、ありがとうございます」
「大丈夫? なんか顔色悪いよ」
見上げると矢崎さんが僅かに眉を寄せて私を見つめていた。ストレートの髪は今日も艶やかでぱっちり二重。完璧なラインを描くアイラインは、夕方でも決して崩れない。
「はい。大丈夫です」
「片付けやっとくからさ、それ終わったらもう上がったら?」
彼女はいつも端々にまで目が届いて、周囲を気遣い職場内のバランスをととのえている。こんな私の事まで気にかけてくれるなんて……。ありがたくて申し訳ない。お礼を言って、その提案に素直に従う事にした。
*
もし、ヨーコさんが亡くなっていたら。
それはきっと、私のせいなのではないか。
もしヨーコさんがちゃんと漆黒の珠を持っていたら、そんな悲しい事にはならなかったのではないか。
きっとあの珠には人外の力が宿っているのだ。だからそれをお守りとして持っていた私は、今まで何とかやってこれたのだ。あのお守りがあったおかげで今もこうしていられる。あの当時の私にお守りがなかったら、どうなっていたか分からない。きっと漆黒の珠にはタロさんの不思議な力が込められているのだ。
だとしたら、それを私に渡してしまったヨーコさんは、その後どうなったのだろう……。
子どもの頃の記憶が追いかけてくる。
じっとりと背中に冷や汗をかいて、良くない考えばかりが浮かぶ。また無意識にかばんに手を入れてあのお守りを探してしまった。
あれに触れたかった。あれだけが私の居場所を教えてくれた。
あの頃の私は、いつも邪魔者だった。でも今は違う。もう良い年をした大人なのだ。だけど……。
漆黒の珠を、もらったりしなければ良かった。
ヨーコさんがずっと持っていたら、全てが丸くおさまっていた。そこに私が変な形で入り込んだばっかりに、タロさんはずっと思い続けていた半身を、魂の伴侶を見失ったのだ。
温もりを思い出す。ヨーコ、と何度も名を呼んで、私を優しく抱き締めた腕を思い出す。愛しい少女にもらった名前を口にしただけで、幸せだと呟いた。カラス、と呼んだだけで嬉しそうに微笑んだ。他に何も求めず、ただそれだけで満足だと……。
もうテル君達は帰って来ているだろうか。
夕暮れの空を仰ぎ、家とは反対の道を選んだ。行くあてなどなかったけれど、家に帰れなかった。
もしかしたらやっぱり、邪魔者だったのではないか。いつも余計で余分な存在。
それが、私だ。