021(さらば、平穏の日々)
明け方に目覚め、やかんに水を入れ湯を沸かす。昨日帰ってから作っておいた煮物を冷蔵庫から取り出してレンジに入れ、庫内にある食材にざっと目を通して献立を決める。
今日はお豆腐とわかめのお味噌汁に野菜炒め、ほうれん草のからし和え……。
料理を作るのは昔から好きだった。食べる事には一切興味がない(というか、食べる必要もない)のだけれど、いつも味のイメージをととのえてから料理にとりかかる。すると出来上がったものの匂いを嗅いだだけで、イメージどおりのものが出来たかどうかが分かるのだ。いまだかつて失敗した事はない。
「おはよう」
控えめな声に顔を上げると、スウェット姿のユイネがソファから立ち上がったところだった。僕はにっこりと彼女に微笑む。
「おはよう。随分早いね」
「今日仕事だから」
「あ。今日って月曜」
「うん」
寝起きのユイネはいつにも増してのんびりしている。ぼさぼさ頭でぼうっとしたままふらふらと洗面所へ消えた。昨日の今日なのに、彼女はもう普段の生活リズムを刻んでいるみたい。うん。ユイネの為にとっても美味しい朝ごはんを作ってあげよう。
漆黒の珠を頼りに彼女を見つけた時は本当に驚いた。何せ、今までずっとあの珠から送られてきていた気が、ヨーコのものだとばっかり思っていたから。
ヨーコとユイネの魂はとても良く似ていた。僕ら好みの魂の持ち主がヨーコ以外にもいた事にまず驚いたし、その相手がヨーコと知り合いで、十八年も前に珠を譲り受けていただなんて。びっくり仰天だ。
「うわ。美味しい。テル君、すごい」
「ふふ。このだし巻き卵も傑作だよ」
ユイネが、ほにょ、としか形容出来ないような可愛らしい笑顔を見せた。つられて僕も微笑む。
「タロさんは?」
「まだ寝てるよ。あいつ今日は夜にならないと起きないと思うよ。昨日、これでもかってくらいたくさんの『負』を昇華させたからね」
「……それって、大丈夫?」
「へーきへーき。起きて来たらうるさいから、寝ててもらった方が良いよ」
「ガルクループからこっちに侵入した人って……」
「ああ。それもへーきだよ。悪さをする奴じゃないし、そのうち自分から来るでしょ」
「そ、そうなの」
一生懸命にもぐもぐと口を動かしているユイネを眺める。初めて会った時も今もそうだけど、彼女は食事をする時、すごく一生懸命だ。とっても真摯に、目の前の料理と向き合ってる感じ。美味しそうに食べるんだけど、それが全身全霊で味わっているように見えるのだ。向き合う料理がおにぎり一個でも定食でも、その姿勢は変わらない。人間が赤ん坊から幼児に成長し、歯が生えて固形の食事がとれるようになった頃の反応と良く似ている。
それからユイネが色んな質問をして、僕がそれに答えた。最後に、彼女がぽつりと言った。
「平日はちょっと無理だけど、また土日になったら母の故郷に行ってくるから。ヨーコさんを知ってるかもしれない人がいて」
僕はユイネをじっと見つめる。焦茶色の髪は細くて柔らかい。いつも左肩に垂らすようにしてまとめている。これといって美人ではないけれど穏やかな表情は見ていてほっとする。濃すぎない化粧にシンプルな服装。何となく全体的に控えめな印象で、それがほぼそのままユイネのイメージだ。
少し耳を赤くしてもじもじと下を向いたので、僕が見つめすぎていたと分かった。くすりと笑う。
「きっとヨーコさんを見つけるから」
小さく呟かれた言葉に、思わず微笑んでしまう。僕はそっと手を伸ばしてユイネの小じんまりとした手に触れた。触りたかったから。
「ユイネ。ありがとう」
ユイネはおずおずと僕に顔を向け、耳を赤くしたままはにかんだ。
ねえユイネ。君ってとってもお人好しだ。本当は君がそこまでする義理も、必要もないんだ。
昨日僕が選んだ手段は最高に卑怯なものだった。ユイネの性格を知り、ユイネの優しさを利用したのだから。タロちゃんの過去を見せたのもその為だ。案の定、彼女はあいつに気を送る為に自分を犠牲にしようとした。何とか心が通じ合ってうまくいったけど、それだって彼女が捨て身でタロちゃんの弱虫根性に喝を入れてくれたからだ。
ユイネは優しくて気弱で、頼られたら嫌とは言えないタイプ。しかし本当は芯の強い女の子なんだと分かった。ヨーコとユイネの魂が似ているのも頷ける。それに僕には見えてしまった。彼女の過去が。
彼女の相手を受け入れる許容範囲は広い。異世界の話や人外の僕らをすんなり受け入れてくれたり、少し控えめな部分があるのは、辛かった過去があるからだ。
でも僕らはその頃から、本当はずっと繋がっていたんだ。漆黒の珠が大好きだった幼いユイネ。あの頃に出会っていたらどうなっていただろう。
柔らかくてあたたかくて、闇を含んでいる穏やかな魂。優しい音色。きっとユイネは僕とタロちゃんにとって、かけがえのない存在になる。
ヨーコが彼女に漆黒の珠を渡した事実には正直ショックを受けたけど、それがユイネで良かったと思う。
玄関口で、思い出したようにユイネが言った。
「タロさんの服、あれじゃちょっと、アレだから。替えもないし。これで適当に買える?」
「うん。ありがとう。ねえユイネ、晩ご飯何が良い? ユイネの好きなの作って待ってるよ」
お金を受け取りながら、少し背の高い彼女を見上げて質問する。ユイネはちょっと驚いた顔をして、それから照れ笑いをして、うーん、と少し考えた。
「え、えと、ハンバークとか」
「ふふ。可愛い」
「……子供っぽい?」
僕は笑ってユイネに抱きついた。抱き締めたかったから。心地の良い優しい気が流れてくる。
可愛いユイネ。可哀そうなユイネ。僕らに好かれたばっかりに、これからうんと大変な目にあうかも知れない。
「いってらっしゃい」
だから僕はせめてものお返しに、君の好きなものを作って帰りを待つよ。