020
通常では考えられないような馬鹿力を発揮し、私は弱り切っている相手の上半身を引っ張り起こして両手に力を込め、勢い良く揺さぶった。
「タロさんタロさんっ。寝ないでくださいっ!」
タロさんの眉間に深いしわが寄り、黒い瞳が剣呑に睨みつけてくる。
「……やめろ。せっかく良い夢を見ていたんだぞ」
「いつまでそうやってるつもりですか! 海底火山が噴火しちゃってるんです。何とかしてもらわないとっ」
「目の前で大声を出すな……阿呆が。俺にはもう守り人の力は残っていない。無理だ」
声を出すのも辛そうで、また目を閉じようとする。長い黒髪が顔半分を隠している。
「もうしっかりしてください! じ、自分ばっかりが辛くて寂しい思いをしてるだなんて、思わないでくださいっ」
「……何?」
私はタロさんの彫の深い顔をじっと見つめ、また大きく息を吸った。
「この世界にはご飯が食べたくても食べられない人がいっぱいいるんです! だけどそれでも一生懸命に生きようとしている人達がいるんです! 農家の人達だって、雨が長引けばそれだけで大変な思いをするんです! タロさんにとったらどうでも良い世界なのかもしれないけどっ。これじゃあんまりにも無責任です! それにこの世界にはヨーコさんもいるんですよっ」
「……きさま。俺に意見する気か」
だんだんとタロさんから恐ろしい気配が漂い始める。ああどうしよう。やっぱり怖い。
あやうく震えそうになる両手にもう一度ぎゅっと力を込めた。その手はタロさんの首元を掴み上げたままだ。
「タ、タロさんはずるいです!」
「何だと!」
「だって、まわりに神官さん達や巫女さん達がいて、自分の事を大事にしてくれる人達がいるのにっ」
がっ、とタロさんの大きな両手が私の肩を掴んだ。そのまま強い力でぎりぎりと締め上げられる。
い、いたい。だけど、負けられない。
「それが何だ! あいつらは俺に仕えているんじゃない! 俺が神だから、俺の守り人の力が必要だからそうしているだけだっ」
「そ、そんなのどっちだって同じ事です。タロさんは勝手に自分から心を閉ざして、相手を無視してるだけです!」
鋭い黒の瞳が怒りでぎらぎらと光っている。その怒りは一直線に私にぶつけられる。怖すぎて直視出来ない。私は両目をぎゅっとつぶってまた声を上げた。
「タロさんは子供ですっ。何百年も生きているのに、拗ねてばかりいて!」
「五月蠅いッ。では何かっ! 俺はいやな事もいやと言えずに生きていかねばならんのかっ。己を滅して延々と生きていけというのか!」
がくがくと力任せに身体を揺すられて、目が回りそうになる。
「そんな事言ってませんっ」
「じゃあどうしろというのだ! お前に何が分かる! こんな世界などくそくらえだっ! さっさと壊れてしまえば良い!!」
ぎっと思い切り歯を食いしばった。こんなに激しい怒りをぶつけられるなんて、初めての事だ。
「ううう」
怖くて怖くて仕方なくて、思わず呻いてしまった。でも、言わなきゃ。
「タロさんはいやだって言ってばかりで、卑怯です! 自分のやるべき事もしないで言うだけなんて、子供と一緒ですっ。タロさんにしか出来ない事なのに、そんなに立派な使命があるのに、どうして投げ出そうとするんです!」
ぐぎぎ、と私の肩を掴むタロさんの両手にまた力がこもる。
「いっ」
痛すぎる。もう力が入らず、私の両手は力無く垂れていった。あまりの痛さに俯いてしまう。でも、ま、負けるもんか。
「タロさんは、そ、そうやって壊れてしまえとか、い、言うけどっ。いざとなったら出来ないくせに」
「なにいっ!?」
「だ、だってそうでしょう。この世界を壊すつもりだったのに、む、村人達のお願いをきいてあげたりして……。ヨーコさんの事だってそうです。そんなに必要なら、あの時にすぐ伴侶にしてしまえば良かったのに、ヨーコさんの言う事を素直にきいたりしてっ」
そう。タロさんは優しいのだ。きっと根っこがうんと優しくて、だからずっと傷つきやすいのだ。どれだけ凶暴で横柄で強引でも、最後の最後には相手の意を汲もうとする。でもだからこそ、私は言わなきゃいけない。タロさんの悲しい過去を見てしまったからこそ、言わなくちゃ……。
「そ、そんなの、優しさじゃない。そんなのは、臆病っていうんです」
一瞬、タロさんの力が弱まった。しかしまた次の瞬間には万力にでも挟まれているかのようにぎりぎりと両肩を締め上げられる。
「きさまっ。俺を愚弄するか! 俺を臆病者だと罵るのか! 顔を上げろッ!」
タロさんの声が掠れている。衰弱しているのに怒鳴っているからなのか、私の言葉に傷ついて動揺しているからなのか、もう分からなかった。
「や、役目も果たせない臆病者に臆病だと言って、な、何が悪いんです」
「くそっ! 黙れッ! 俺は……俺はッ」
掴まれている肩が、痛い。それになんだか目も痛いし胸も痛い。もうどこもかしこもズキズキといたい。
「お、臆病者じゃないんなら、ちゃっちゃと私から気でも何でもとって世界を安定させれば良いんです! そんな事も出来ないで、偉そうな事言わないでくださいっ」
「随分と立派な心がけだ! 良いだろうっ。お前がいくらいやだと言って泣き叫んでもやめてやらんぞ! どれだけ詫びても許さん! お前の身も心も引き裂いてやるぞっ!」
私は顔を上げ、でも目はぎゅっとつぶったまま、最後の力を振り絞って怒鳴った。
「のぞむところですッ!!」
怖いし、痛いし、もうだめかもしれない。怒り狂ったタロさんに八つ裂きにされるかも……。でも、気を送らなければいけない。そうしなければこの世界が終ってしまう。タロさんにしか出来ない事なのだから、何としても、やってもらわなければならない。犠牲になりたいわけじゃない。ただ、何とかしたい。
何の役にも立たない、何の力もない私だけれど、私の持つ魂は、私の持つ気は、ヨーコさんに似ているのだから。テル君に微笑んでもらえたから。特別だと、ありがとうと言ってもらえたから。
あ、でもやっぱり怖い……。泣きそう。
「……馬鹿者」
タロさんの両手から力が抜けてやっと肩が解放された。その途端にぐにゃりと前のめりに倒れそうになり、太い腕に抱き止められる。自分の身体なのに思うように力が入らない。
「震えすぎだ」
情けない事に、私は肩で息をしながら、がたがたと震えていた。ぐ、と身体が締め付けられる。ほんのりと花の香り。息苦しくて何とか顔を上げて目を開けると、白いシャツが視界に入った。艶やかな黒髪が頬に触れている。ひんやりとした身体が密着していて、タロさんの腕の中なのだと気付いた。
タロさんが私の肩に顔を埋めて、ふてくされた声で呟いた。
「最初から、素直に心を開いていれば良かっただろうが。……この阿呆め」
ぎゅうと抱き締められ、私はまた目を閉じた。
そうか……。私はタロさんに心を開く事が出来たみたいだ。どうやらこうしているだけで、ちゃんと私の気がタロさんへと直接届けられているようだ。良かった……。
タロさんの冷えた身体から鼓動が伝わる。それは、タロさんの記憶の中にある、ヨーコさんの優しい気の感触にとても良く似ていた。
タロさんの魂は、優しくて寂しくて、切ない音色だった。
ああ……知ってしまった。
この世界をたったひとりで守っている怒りんぼうのかみさまは、強くて弱くて、きちんと人を慈しむ事が出来る「人」なのだという事を。
「う……」
私は数年ぶりに、涙を流した。
「……何故、お前が俺の過去を知ってる」
心なしか穏やかな低い声が聞こえる。冷静さを取り戻したらしいタロさんは、もっともな質問をした。
「わ、分かりません。すみません」
「テルだな」
タイミングを計ったように部屋の扉が開く音が聞こえた。私は身動きの取れない体勢で、首を曲げる。テル君がおそるおそる、部屋に入ってくるのが見えた。その身体はもう透けていない。良かった……。
「ユイネっ」
天使のような男の子がぱっと駆け寄ってきてベッドへ上がり、私の背中にしがみついた。
「ユイネ。ごめんね、怖い思いさせて。ごめんね……。こんな鬼畜で外道で、最っ低な奴と二人っきりにさせて、ごめんね」
テル君が私の背に頬ずりをしている。訳の分からない状況になってきた。
「おいテル。言いすぎだ」
「何が違うっていうの。大人げなく怒鳴ったりして」
「お前こそ、こいつに俺の過去を見せるような姑息な手段を使っただろうが」
「タロちゃんがいけないんだろ。いつだって僕がいないとダメなくせに」
「なにぃっ」
「あ、あのっ! ちょ、ちょっと離れてくれませんかっ。それから、あの、早く何とかしてください」
なんかもう、色々ありすぎて、気絶しそう……。
*
その夜、テレビでは特別番組が放送された。深刻な表情をした専門家達がそれぞれに、前代未聞の不思議な現象について検証を行っていた。いよいよ甚大な被害を免れないだろうと予測されていた三つの海底火山は突如としてその活動を停止し、気象レーダーに不穏な影を落としていた四つの大型台風も忽然と姿を消した。大きなパネルを中央に、難しい解説を繰り広げる人々。
私はリモコンを取り上げてチャンネルを天気予報に切り替えた。何だかどっと疲れが押し寄せてくる。そこでいやな事を思い出した。今日は日曜。明日は月曜。……仕事です。
そんな馬鹿な。金曜の夜からあり得ない程スリルに溢れる怒涛の週末を過ごしたのだ。くたくたで休んだ気がしない。映画であれば、世界を救ってハッピーエンドで終われるのに。
ため息をついてテレビの電源を消し、思いついて寝室へ向かった。そうっと扉を開いて足音を忍ばせ、薄暗い部屋へと入る。ベッドにはすやすやと眠るタロさんとテル君がいた。
複雑な思いで美しい二人を見つめる。
あの、私はいつまでソファで寝ないといけないんでしょう……?
きっとヨーコさんを見つけ出そう。世界の為に。この寂しくて美しい、二人の為に。
そしてヨーコさんが見つかるまでは、出来る限り私が二人の力になろう。ヨーコさんに恋人や家族がいた時は、何とかみんながうまく落ち着けるような形を考えよう。
私もその寂しさを、僅かなりにも知っているから。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
これにて第一部完結です。
『ユイネ』地味で気が小さいが、度胸はある模様。現代人は強し。
『タロさん』精神的にかなり子供。おいおい、いったい今いくつだい。
『テル君』一番のくせもの。必殺技はエンジェルスマイル。
以降更新はゆるやかペースになるやもです。
では、またお会い出来ますように。