002
幽霊だったのかも。ううん、あれは幽霊っていうより……天使?
終業のチャイムが鳴って、皆がいそいそとパソコンをシャットダウンしてゆく。今日は金曜。
「お疲れ様でしたー」
「おつかれー」
「お先に失礼しまあす」
でもどっちにしたって、あれは絶対お守りの事を言っていた。
や……。考えすぎ。仕事のしすぎ? いやいや、そこまでしてない。
寝不足?白昼夢。きっと、それだ。
ぼんやりと昼間の出来事を考えながら制服から私服に着替え、ロッカーに備え付けの小さな鏡に一瞬だけ自分を写す。くせっ毛の髪は、今日みたいに雨が降って湿気の多い日には私の意思とは関係なく、あらぬ方向に毛先が遊ぶ。いつも一つに束ねて右肩に垂らしている。横に流した前髪を、ちょんと引っ張ってロッカーを締めた。
ざあああああ。
表へ出ると盛大な雨に迎えられる。昼時よりは幾分風は収まっているみたいだ。傘を開いて歩き出そうとした時。
「倉田さん、お疲れえ」
振り返ると矢崎さんが手を振ってくれた。数人の女子社員を連れている。彼女はいつも陽気。茶色の長い髪は、湿度百二十パーセントの中にいても真っ直ぐで艶やかだ。
「あ、お疲れさまです」
「ねえ、今日これから暇?合コンあるんだ。一人急に来れなくなっちゃってさ、どう?」
ああ、だからか。
今日は朝から雨だったのに皆とっても綺麗な格好をしている。私はというと、黒のジャケットに灰色のカットソー、ジーンズに足元はスニーカーだ。雨でなくても普段からこんな格好。職場が家から近いと、おしゃれもおろそかになる。
「ほんとはねえ、お花見合コンのはずだったのに残念」
「イタリアンのお店になったんだって」
「相手の年齢って?」
「うちらと同じくらいって言ってたよ。だから二十三とか?」
「どう? 行くでしょ?」
「ご、ごめんなさい。今日用事があって……」
矢崎さんは返事を聞いて、あら、と少しだけ目を丸くした。私はそれに慌てて、すみません、と付け足す。
「あ、良いの良いの。急だもんね。今度、皆で飲み会しよ。じゃ、お疲れ!」
ぽんぽん。傘を軽やかに開いて、賑やかにおしゃべりしながら雨に包まれた町に消えてゆく。
ほっと胸をなでおろし、皆の後ろ姿を眺める。
雨と風が強いから、気をつけてね。
繁華街と反対の道へ歩き出す。
ごお、と風が吹いて傘が持っていかれそうになり、両手で支えた。
耳には雨と風の音ばかり。まだ五時半過ぎだというのに辺りは真っ暗で、周りに誰も歩いていない。途中でコンビニに寄って惣菜パンとカップスープを買った。コンビニ袋を右腕に垂らして早足で家へと向かう。
本当は用事なんてないのだけれど……。初対面の人と気さくに話す事が出来ない私には、合コンなんてハードル、絶対越えられそうにない。うまく喋れなくて空気を悪くしてしまうに違いない。
たまに補欠で誘ってもらうのだけれど、本当に申し訳なく思ってしまう。
こんな私にまで声をかけてくれて、ありがとう。
先にマンションが見えて来た。住む部屋はお金を惜しまずに決めた。オートロックのマンション。
バシャバシャバシャ!
遠くから激しい足音。後ろから誰かが走ってくる。すごく急いでいるみたい。私は道の片側に寄った。
バシャッ!
どきっ、とする。すぐ背後でその誰かが立ち止まった。緊張してゆっくりと後ろを振り返る。
びっくりした。相手は傘を差しておらず、全身ぐっしょりと雨に濡れている。しかも裸足。雨を含んで黒く見えるジーンズに身体にぴったりと張り付いた白のシャツ。
ゆっくりと傘を傾けて見上げる。なんて大きな人だろう……。
顔に黒い髪が張り付いている。肩で大きく息をしながら、とても切羽詰まった表情をして、その大きな男の人は仁王立ちしていた。
はあ、はあ、はあ……。
あれ。これって。もしかして、へ、変質者。
「……見つけた」
ぎくり。
「見つけた、見つけたぞ……」
よろり。相手が一歩、近づく。私は凍りついてしまった足を何とか動かして、後ずさった。
まずい。逃げなきゃ。
踵を返して走り出そうとした私の右腕が、がしりと掴まれる。
ごおおっ。風が鳴った。
傘が風に煽られて、ひゅ、と空を飛んだ。どむ、と鞄が地面に落下する。
突然の、思わぬ温もりに身体が竦んだ。
大きな腕に抱き上げられ、ぎゅううう、と締めつけられてゆく。私はつま先立ちになり、息が思うように出来なくなる。顔に激しい雨を感じる。恐怖に声が出せない。
どうしよう、どうしよう。怖い。怖い。
「ああ……会いたかった」
男の低い声が、びりびりと身体を伝って届いた。
何、何の事……。
「会いたかった! ヨーコ。俺の、ヨーコ!!」
……え?
ざああああ。
遮るものが何もない。どんどん雨に濡れてゆく。つま先だけがやっと地面についていたのも、今は完全に宙に浮いてしまっていた。締めつけられて苦しい。
相手は私の肩にぐりぐりと額を押しつけて、物凄い力で頬ずりを繰り返している。
からからの喉を開いて、必死の思いで声を出した。
「あ、あの……」
「ずっと、会いたかった」
「あの……」
「お前にもう一度会える日を、ずっと指折り、数えていた。ああ……ヨーコ」
「あの! す、すみませんっ」
視界の端に、地面に落ちて無残にもぐしょ濡れになった鞄が見える。その口から私のお守りが顔をのぞかせていた。真っ黒のまん丸の、大事なお守り。
勇気を振り絞りぎゅっと目をつぶって、大声を上げた。
「ひ、人違いですっ!!」
相手の力が僅かに緩んだ。
「私の名前は倉田唯音です! よ、ようこさんじゃありませんっ!!」
私ののろまな頭は、ひどく冷静にこの状況を整理しようとそれなりに回転し始める。
ああ……そうだ。きっと外国人なんだ、この人。
だから会った途端にハグするし、裸足だし、雨なのに傘も差さないんだ。文化の違いだ、きっと。