019
まるで息をしていないみたいだった。じいっと目を凝らして見つめると、僅かに胸のあたりが上下しているのが分かる。綺麗な横顔。でも顔色は真っ青だった。
タロさんの記憶で再確認した。やっぱりヨーコさんは、私の知っているお姉さんだった。
さらりと明るく、あっけらかんとした可愛らしい少女。悲しんだり落ち込んだりしている相手を放っておけない、優しい少女。
ヨーコさんはきっと深く考えずに承諾をした。泣いているタロさんをなぐさめたくて、結婚の申し出を受けたのだ。あのお守りを私にくれた時もそうだ。泣いている私を励まそうとして、あの珠をくれた。
心の優しい少女。
ぎゅっと胸が苦しくなる思いがした。
ヨーコさんにとったらあの約束はそれ程の事ではなかったのかも知れない。だけどタロさんはそれを唯一の光として、ヨーコさんとの思い出をずっと大事に胸にしまってきたのだ。
力を削りながら必死になってやって来たこの世界で、再会出来るはずだった半身はそこにいなかった。かわりに見た事もない地味な女がいたってわけで……。そりゃあ不機嫌にもなるはず。
真っ黒の闇に沈んでいた時の孤独を思い出すと、身震いしそうな程だ。気の遠くなるような長すぎる時を、あんな思いを抱えたまま生きていくなんて……。とてもじゃないけど正気ではいられない。
そろりそろりとベッドへ近づく。何の変化も起きない。とても静かだ。ぐずぐずしていたら決心が揺らいでしまう。私はベッドの上に腰を下ろし、そっとタロさんの腕に触れた。その身体の冷たさに驚くが、何とか手を離さずに済んだ。ぴくりと形の良い眉が動く。
ゆっくりと大きく空気を吸い込んで、喉を開いた。
「……カラス」
それが、彼の本当の名前だ。
タロさんの瞼が僅かに揺れた。しかし起きる気配がない。私は指先にぐっと力をこめ、タロさんの腕を掴んだ。
「カラス」
薄く目が開いた。どきりとする。世界を守るかみさまは、絶世の美貌をお持ちなのだ。
「……ヨ……コ?」
私は覚悟を決め、ひとつ、頷く。……どうか、ばれませんように。
「ああ」
感嘆の声がもれた。タロさんが片腕をついて上半身を起こし、もう一方の手で私の背を包んだ。逆らわずそれに従うと、倒れ込むように太い腕の中に抱き締められた。壊れ物を包むように、柔らかくタロさんの腕が動く。以前私をぎゅうぎゅうにしたやり方とはまったく違っていた。
「ヨーコ……。やっと、会えた」
ぎゅっと力がこもる。頬にタロさんの厚い胸板が、白いシャツ越しにぴったりとくっついた。ひんやりとしている。あのお守りみたいだ。ほんのりと花の香り。
「ああ……ヨーコ。ヨーコ」
タロさんは私を抱き締めて、時折背中をさすり頭に口付けてくる。何度も何度も名前を呼んで繰り返す。優しい優しい、感触。
「カラス。あなたは弱ってる。だから、私の気をあげる」
とてつもない棒読みだけれど、仕方ない。私は自分がヨーコさんではないとばれやしないかという不安と、異性に抱き締められてよしよしされている緊張とで、もう何をどう考えれば良いのやら分からない状況だった。ただ一心に、任務遂行に取り掛かる。
「ヨーコ。俺の名を、もう一度呼んでくれ」
「カ……ラ、ス」
もうすこしでどもってしまうところだった。緊張のせいで掠れ声しか出てこない。
「もっと呼んでくれ」
「カラス」
「もっと」
「カラス。カラス……。カラス」
低い呻き声が聞こえた。ぎゅうと力強く抱き締められ、私の胸は苦しくなった。
もう耐えられない。
こんな風にタロさんを騙している事も、こんな風にヨーコさんのかわりに抱き締められる事も。
こんな風にして優しい温もりに包まれたのは初めてだから。心がきしむ。
私はタロさんの大きな背をとんとんと叩いた。
「気を、あげるから」
「いいんだ。俺は、もう」
よ、よくない。
「お前に名を呼んでもらえただけで、いいんだ。ああ……幸せだ。もう、なにも……」
タロさんの力が弱くなった。おそるおそる顔を上げると、タロさんの長い指が私の頬をなでた。とても愛おしそうに。
タロさんの薄い唇がゆっくりと微笑んでいく。今までいつだって眼光鋭く私を睨んでいたその目は、見た事もないくらいに、優しい。
初めて見たタロさんの笑顔は、美しくて、儚い微笑みだった。
……苦しい。息が、とまりそう。
「ヨーコ……お前に、会えて、嬉しい。もう……満足だ」
ぐらりと身体が傾き、タロさんはまた仰向けでベッドへ沈んでしまった。焦った私は覆いかぶさり、少し強めにタロさんの身体を揺らした。だめ。このままじゃ。気を送らないといけないのに。
「カラス。気を」
そう告げても、瞳を閉じたままゆるゆると首を振るばかり。私は愕然とした。
死ぬ気かもしれない。
ちょっと待って。
そんなの、だめ。だって世界はどうなるの。地球はどうなっちゃうの。どうしよう。どうしたら良いの。ああ! 何をどうすれば良いの!
幸せそうな表情で眠りに落ちていこうとしている美しい大男。
そうじゃないでしょう!
ぷっつんするっていうのは、こういう事なのかと私はその時理解した。怒りに頭が沸騰するのだ。
次の瞬間には相手の首元をむんずと両手で鷲掴み、ありったけの力を込めて引っ張りながら、大声を張り上げていた。
「い、いい加減にしてくださいッ」