012
閑散とした古ぼけた駅から、一時間に四本通っているワンマンバスに乗る。これでも増えた方だ。以前は一時間に一本あるかないかだった。
午後の穏やかな日差しに遠くの山が青々と輝いている。田植えの時期にはまだ少し早いため、田んぼはがらんとしていた。急に出向く事になってしまったので、電話を入れておいたせいか停留所にはおじさんが迎えに来てくれていた。
「唯音、よく来たね。今日はどうした?」
ほにょ、という笑顔を見せておじさんが私の肩をぽんと叩いた。もう七十を超えているのだが、背筋もぴんと伸びていていつも元気そう。
「急に来ちゃってごめんなさい。たいした用事じゃないんだけど……」
「いつ来たって良いんだよ。こっちはばあさんと二人きりだろう? しわしわの顔見るの、飽きちゃってさあ。そしたら鏡見たら自分の顔もしわしわで、びっくりしてんだ」
おじさんの冗談に二人でうふふと笑い、こじんまりとした一軒家に向かって歩いた。
「まあまあ、唯ちゃん、いらっしゃい」
玄関口でおばさんとも挨拶をして、居間に通されすぐに麦茶とお菓子が出て来る。
「ありがとうございます。あの、本当に急で悪いんですけど、今日こっちに泊めてもらえますか? ちょっと会いたい人がいて……」
「もう何泊でもしてったら良いよ。倅なんてちっとも来やしないんだから」
言い終わらないうちに、おばさんがそう言って笑顔を向けてくれた。
この古き良き日の昭和の時代そのままのような土地が、母の故郷だ。母は私を産んでからこの場所へ戻って来た。私は母の身内といえば、この二人しか知らなかった。両親は母が高校生の頃に相次いで亡くなっており、年若い母は赤ん坊の私を連れて、おじさんとおばさんを頼ってここへやって来たのだった。
母の母の、妹であるおばさんは快く私達を迎えてくれた。本当の娘や孫のように大事にしてもらい、今でもずっと優しくしてくれる。おじさんとおばさんには一人息子がいるのだが、今は結婚して隣町に家族と住んでいる。毎月ここを訪れるのも、母の墓参りの為でもあるけど、この温かな二人に会いたいからなのかも知れない。
本当に、感謝してもしきれない。
「私がうんと小さい頃に、よく遊んでくれてたお姉さんがいたんです。ヨーコって名前の、十歳の女の子。その人に会えればと思って」
「ううーん。あの時期なあ。何人かおんなじような年ごろの子供達がいたよなあ」
「裏の山の上に神社、あるでしょう?」
「ああ、あったねえ。ちっちゃい神社でしょ。もう古ぼけちゃってねえ」
「あそこでいつも遊んでたんです。私が引っ越す時まで」
「そうねえ。ようこねえ……。あっ! 佐々木さんとこのお孫さん、たしか女の子だったよねえ」
「ありゃあ、ありさっていう名前の子だよ。ハイカラな名前だったんで覚えてんだ。顔は地味な日本人顔なのになあ」
もう十八年も前の事だ。これはなかなか難しい探し物である。私は二人に礼を言って席を外し、次にアルバムや写真に向かった。もしかしたら、ヨーコさんと映っている写真があるかも知れない。
淡い期待を抱いて探したけれど、やはり一枚もなかった。多くはおじさんとおばさんの二人の写真。温泉や山のぼりに行った先での記念写真のたぐいだ。古いアルバムには赤ちゃんだった私やよちよち歩きの私、その傍らに若い母の笑顔。この家には父の写真はない。
「唯ちゃん。そしたらね、あの喫茶店あるでしょ、ヒロっていう」
隣の居間から、おばさんの大きな声。私はそちらへ向かいつつ返事をする。
「あ、はい。ヒロさんがやってる喫茶店」
「そうそう。そのヒロさんね、多分おんなじような年だったと思うんだよ。もしかしたらほら、小学校一緒だったかもしれないよ。ここにはいっこっきゃないもんね」
「あ! そうか」
また玄関でスニーカーを履く。黒のジャケットは羽織らなくても大丈夫なくらいの温かな陽気。青のポロシャツとジーンズ姿で玄関口に立った。
「おばさん。裏の神社の由来って知ってますか?」
「ええ? はあ……。もうずっと昔の、おとぎ話みたいな話ならねえ。いつの頃だか知らないよ」
「はい」
「昔にね、村の子供がね、原因不明の病にばたばた倒れていったんだよ。医者も城主もお手上げで、村自体どこからも見放されてね。それで村の親達がわらにも縋る思いでさ、裏の山の上にあったお地蔵さんに毎日毎晩、お参りに行ったんだよ。そうしたらある夜にほとけさまが現れて、お前達の願いを叶えてやろうって言って、次の日の朝、子供達の病がけろっと治ったって話だよ」
確かにどこにでもありそうな昔話だ。
「それがどうして人外様って呼ばれてるんですか? ほとけさまじゃなくって」
おばさんがううーん、と唸ってげんこつでこつこつと頭を叩いた。そうすれば昔の記憶がころりと出てくるみたいだ。
「出て来たほとけさまがさ、あんまりほとけさまっぽくなかったんだよ。まったく人間にそっくりで、でもそんな不思議な事が出来るんだから人間じゃないはずだろ? だから、じんがい。人外様って言ったんじゃないのかねえ」
この小さな町のメインストリートにある唯一の喫茶店「ヒロ」に行く前に、裏の山に登ってみた。
小さい頃にはこれがとても大きな山だと思っていたけれど、階段を数十段登ればすぐに色あせた鳥居が見えた。鬱蒼とした杉の木が日差しを遮り、薄暗い。砂利の間から草がぼうぼう伸び放題で荒れ放題。
何だか不思議でならない。ここに昔から祀られている人外様が、今うちに来ているあのタロさんの事だなんて。凶暴で怒りっぽくて強引で、かみさまほとけさまって印象がかけらもない。全くもって、正反対なのだ。
あの昔話が本当ならばタロさんはその昔、この地球の、この日本に来て、病に苦しむ村の人達を助けた事になる。
どうしてそんな事をしたのだろう。一体、何を思ってそうしたのだろう。いつか聞いてみようか……。
あ、やめておこう。ぎろりと睨まれて、何故お前に言わねばならんのだ、と、怒られそうな気がする。
*
「いらっしゃい! あれ、唯ちゃん。珍しいね」
喫茶店「ヒロ」のお客さんは今日もよぼよぼのおじいさん一人だった。この人はいつ来ても、カウンターの一番隅っこで、うずくまるようにして座っている。
カウンターの奥からマスターのヒロさんが健康的に日焼けをした顔でにこっと笑った。昔、空手をしていたとかで、とても大きくていかつい身体をしている。髪は五分刈り、太い眉毛。もしかしたら美形の部類に入るのかもしれないけれど、体育会系の雰囲気のせいか、全然そうは感じない。
「あ、はい。ちょっと人を探してまして」
「人探しぃ? なんだい、それ」
隅っこに座るおじいさんの席から三つ先のカウンター席に座った。すると横からヒロさんの奥さんが現れて、お水を出してくれた。大きなお腹をしている。たしか来月が出産予定だった。
「順調ですか?」
「もう、順調すぎるくらい! 中からぼっこぼこ蹴ってくれてさ、多分男だね、こりゃ」
奥さんは子リスみたいな可愛らしい顔で、小鼻にしわを寄せて笑った。
この町唯一の喫茶店「ヒロ」はその昭和っぽい名前には似つかわしくない程にセンスの良いカフェだった。レトロな装飾の店内に緩やかにジャズが流れ、お洒落な都会にあってもおかしくないようなお店。
何故名前が「ヒロ」なのかといえば、現マスターのヒロさんのお父さんの代から受け継いだお店だからだ。そのお父さんの名前が「ひろたか」で、息子のヒロさんも「ひろし」。お父さんからお店を継いだ時に、ヒロさんは同じ「ヒロ」だからそのままで良いや、と言って、現在に至る。
「昔、私が小さい時によく遊んでもらってたお姉さんを探しているんです。最近思い出す事が多くて。何だかどうしても、お礼を言いたくって」
「ふうん。今もここにいるかなあ。引っ越してった人結構いるから」
「その時十歳だったから、今二十八歳になっているんですけど……」
「あら。じゃあ、ヒロシと同い年じゃない」
「ああ、本当だ」
実を言えば、あんまり記憶には残っていないのだけれど、このヒロさんにも小さい頃によく遊んでもらっていたと聞いた。ヒロさんとは何度目かの母の墓参りにこの町へ来た時に、再会したのだ。
そう考えると当時五歳だった私が、お姉さんとの事をちゃんと覚えているのが不思議だった。きっとそれだけお姉さんが大好きで、あのお守りをもらった事が、私の中で大事な思い出なのだろう。
「ほらほら、小学校のアルバム、あれ見せたげたら?」
「ええっ。どこにやったかな」
「あ、すみません、大変ですよね」
「見つかんなかったら、ごめんだよ」
そう言い置いて、ヒロさんが二階へと上がっていった。ここは一階が喫茶店で、二階は居住スペースになっている。自分の頼みで手を煩わせてしまった事に恐縮しつつ、私はアイスコーヒーを一口飲んだ。