第5話
庭へ行くと、季節の花が咲いていた。
ここはあまり他の人間が訪れない。
偶然見つけた穴場であり、花いっぱいの小さな庭だ。今は明るく清潔だが、しばらく前までは壁と土に囲まれた物陰で、殺風景な場所だった。
泣き腫らした目を見られるのは嫌だったので、ライラはここで時間を潰す事にした。たまっている仕事は、夜のうちにやればいい。
草の上に座り込み、ライラは膝に顔をうずめた。
「……あーあ……」
これで失恋確定だ。
ライラは子供なので、女扱いされるまでにはあと五年ほどかかるはずだ。けれど、その時になっても恋は叶わない。それがよく分かってしまった。
番を失った、と世話役の女は言った。
おそらくだが、命を落としたわけではないのだろう。それは彼女の話しぶりからなんとなく分かった。
彼は番を失い、魂の半身をもぎ取られたのだ。それはどんなに辛い事だろう。
まるで終わりのない責めを負っているようだ。
一体誰が、そこから救い出してくれるのだろう。
ライラは彼に救われたのに、彼を助けてくれる人はいない。
そう思うとまた涙が込み上げてきて、ライラはふたたびしゃくりあげた。
「――どうしたの?」
やさしい声が聞こえたのはそんな時だった。
「迷子なの? 大丈夫?」
目を上げると、知らない女の人が立っていた。
黒髪に黒い目の、可愛らしい顔立ちをしている。二十歳前後に見えるけれど、もう少し年上かもしれない。慌ててライラは目を擦った。
「大丈夫です。ええと……その、ちょっと、悲しいことがあって」
「そうなのね。一応聞くけれど、辛い目には遭ってない?」
「平気です。みんないい人で……わたしは人間ですけど、とってもやさしくしてくれます」
それを聞き、女の人は嬉しそうな顔になった。
「そうなの? それはよかったわ」
笑顔を見せると、女の人はぐっと子供っぽくなった。女性というよりも、少女と呼ぶ方がふさわしい。
一体どこから入ってきたのだろう。ここは外の人間が入れないはずなのに。
けれど、不審者という感じはしない。
ライラの返事を聞き、黒髪の女の人は華やいだ声を上げた。
「あなたも人間なのね。だったら、私と同じだわ」
「えっ?」
「私もここで暮らしていたの。今日はとっても久しぶりに、ここに来ることになって。私は人に見られたくないから、ここで待っていることにしたの。……会ってはいけない人もいるし、ちょうどいいと思って」
「会ってはいけない人……?」
「久々になつかしい人にも会ったのよ。彼女、まだここで働いていたのね。私を見てびっくりしていたけど、会えてよかった」
それはもしかして、世話役の女ではないだろうか。
そう思ったが、ライラは聞けなかった。
「……あの、ひとつ聞いてもいいですか」
「もちろん、どうぞ」
「ルー……国王陛下の番だった人って、ご存じですか?」
その問いに、彼女は大きく目を見張った。
「どうしてそんなことを?」
「し……知りたいんです。国王陛下は、まだそのことで傷ついていて。もし番が生きているなら、もう一度会わせてあげたい。また番に戻ってほしいって、お願いしたいんです」
「まぁ……」
女の人は心から驚いているようだった。目を丸くしたまま、指先を口元に当てる。その仕草には品があり、まるで王家の姫君のようだった。
「あの人は、本当にいい人なんです。わたしも助けてもらいました。たくさんたくさん恩があって、返し切れないくらい。だから、ひとつくらいは、何かしてあげたくて」
「あなたは……その人が好きなの?」
「大好きです」
だから、どんな事でもしてあげたい。
女の人はじっとライラを見ていた。
黙ったまま、呼吸が二度、三度。
やがて彼女は首を振った。
「……残念だけど、それは難しいと思うわ」
「そんな……!」
「番同士は糸で結ばれているの。彼はその糸が切れてしまったから、番との絆は戻らない。もしも彼女が戻っても、本当の意味での番にはなれないと思うわ」
「じゃあ……じゃあ、どうしたら」
「彼はその事実を引き受けて、前に進もうとしている。だから、いつか、乗り越えることができるはず。私はそう信じているわ」
その人の目は黒曜石のようにきらめいていた。
黒い髪。黒い瞳。
何か言おうとして、女の人はハンカチを取り出した。それで目元をぬぐわれて、自分がまた泣いていた事を知る。
「……あの人には、泣いてくれる人ができたのね」
女の人はやさしく微笑んでいた。
「この城もずいぶん変わったみたい。私がいたころよりずっと、城の中が明るく見える」
それはあなたのおかげかもしれないわねと、彼女は柔らかく目を細めた。
その胸に美しい宝石が光っている。
藍色の中に金色の粒がちりばめられたような、見た事のない不思議な石。けれど、それがしっくりとよく馴染んでいる。
女の人は懐から小袋を取り出し、中から赤い糸を出した。
「小指を出して」
「ゆび?」
ライラが従うと、彼女はライラの小指に糸を結んだ。
「人間の国にはね、赤い糸の伝説があるの。運命で結ばれている二人の小指には、赤い糸がつながっているって」
「赤い糸……」
「番の糸が切れても、赤い糸なら別じゃない?」
それを聞き、はっとライラは顔を上げた。
「番を失っても、すべてが終わったわけじゃない。いつか新たな絆ができて、新しい未来が生まれるはずよ。それをずっと続けてきたあの人なら、きっと道が拓けるでしょう」
「わたしは……」
「私はあの人を許したけれど、あの人はまだ立ち止まっていたのね。今日ここに来て、本当によかった」
残りの糸をライラの手首に巻きつけて、女の人はそっと表面をなでた。
「あの人に伝えてくれるかしら。『幸せになってください』って」
「…………」
「私はあの人の幸せを祈っているわ。たくさんのことがあったけれど、あの人は約束を守ってくれた。だからもう、いいの。過去のことは終わりでいい」
だからねと、彼女は一度目を閉じた。
「『どうか、幸せになってください。私はそれを願っています』」
「――――……」
「さあ、そろそろ時間ね。あの人はちゃんと会えたのかしら」
女の人がひとりごちると、花の香りを含んだ風が吹き過ぎた。思わず目を閉じると、先ほどまで誰もいなかった場所に、背の高い青年が立っているのが見えた。
それを見て、彼女がぱっと顔を輝かせる。
「お帰りなさい。会談は?」
「寝ていて会えなかった。……起こそうとしたので、全力で止めておいた。起きたら伝言を聞くだろう」
「わ……じゃなくて、あら……」
「あの狼が焦るのは狼の勝手だ」
艶やかな黒髪に、静かな物腰。目を見張るほど端正な顔立ちをした青年は、女の人の髪に口づけた。
「そちらはどうだ。久々の散策は楽しかったか?」
「ええ、とっても!」
「それならよかった」
青年の目が細められる。藍色と金色が入り混じった不思議な瞳だ。その目がライラに移り、少しだけ首をかしげた。
「……子供?」
「ガルゼルさまが助けた子供だそうです。自分の恩人で、とっても大好きなんですって」
「そうか」
それを聞き、青年の瞳が和らいだ。
「それなら、少しは手加減しておこう。もう一度訪れても構わない」
「ほどほどにしてくださいね、ギルさま」
「『さま』?」
「……ギルフェルド」
女の人の耳が赤くなり、青年は満足そうにひとつ頷く。彼に腰を抱かれ、彼女はライラを振り返った。
「あの人のそばにあなたがいることが分かって、本当によかった。幸せになってね!」
「あ、あの、名前は――」
ライラが聞くより早く、彼らは空に駆け上がった。
頭上から花びらが降ってきて、もう見えなくなったのを知る。
会っていたのはほんの十分ほどの事だろう。
夢でも見ていたような、非常にあいまいな時間だった。
けれど、夢ではない。
その証拠に、ライラの手首には赤い糸が巻きついている。
番の糸は切れても、赤い糸なら。
その言葉を胸に、ライラは建物の中へと歩き出した。