第4話
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その日から、ライラはガルゼルの番について調べ始めた。
その結果、分かった事がある。
ガルゼルの番は十六歳の人間の少女で、黒い髪に黒い目をしていた。
今は二十歳を超えているはずだが、正確な年齢は分からない。何せ、当時を知っている人間がいないのだ。彼女がいなくなった正確な年も分からない。名前も、顔立ちも、何もかも。
素性も分からないし、どこへ行ったのかも分からない。
お手上げだ、とライラは思った。
でも、あきらめるわけにはいかない。これはガルゼルに必要な事なのだ。
そう思って聞き込みをしていたら、ひょんなところから手がかりが見つかった。というよりも、向こうからやってきてくれた。
「何をしてるんだい、あんたは」
呆れた口調で言ったのは、世話役の女だった。
「あちこちで主人のことを聞き回って。こそこそしてるんじゃないから、悪いことじゃないだろうけど」
「あれ、内緒だって言ったのに」
「誰が内緒にするもんかね。あんたが何か企んでいたら、国王に危険があるだろう」
「そんなことしない!」
慌てて首を振ると、「分かってるよ。バカだね」と呆れた顔をされた。
「ほんとにうっかりだね、この子は。あんたを怪しんでたら、誰がこうやって言うもんかね」
「あ、そうか」
「まったくもう。髪と目の色は同じなのに、あの子とは全然違うよ。あんたは」
つけつけした口調とは裏腹に、彼女の声はやさしかった。
「あの子って、前に話してくれた女の子?」
「ああ、そうさ。おとなしくて、泣き虫で、すぐにでも折れちまいそうなのに、妙なところで芯がある。気が弱いのに、肝心のところでは揺らがない。そうさね……変わった子だったね」
「もう会えないって言ってたけど、どうして?」
「この城を出ていっちまったからさ。ここからずっと遠くの国へ行ったから、もう帰ってこないだろう。国王もそれは知ってるよ」
「ルーさまが……」
「それから、その呼び名」
びしっと世話役の女が指をさした。
「あんたもそろそろ十二になる。いい加減、ちゃんとした名前で呼ぶ練習をおし」
「えー、でも……」
「口答えをするんじゃない。いくら国王が許しても、けじめってものがあるだろうさ」
世話役の女の言う事には一理ある。
だけど、この呼び名をライラは気に入っている。
嫌だなぁと思った気持ちが顔に出たのか、世話役の女ににらまれた。
「ほら、その顔! 城の人間なら、自分の表情を取り繕えるようにしておおき。何があっても、涙を見せないでいられるように」
「はぁい」
結局のところ、彼女が間違っていた事を言ったためしはないのだ。
だから今回も、ちゃんとした呼び名の練習をしなければいけないだろう。
あまり気が乗らなかったけれど、ガルゼルを別の呼び名で呼ぶのは嫌じゃない。そう思い、ライラは素直に頷いた。
ガルゼルの部屋に行くと、彼は珍しく眠っていた。
机には相変わらず、山積みの書類がたまっている。
あれ全部に目を通すだけでもげんなりするのに、それを読み解き、あるいは指示し、ある時は裏があると嗅ぎ分ける。考えただけでも頭が痛い。
ある程度は部下に割り振っているようだが、彼が絶対に人任せにしない仕事があった。そのひとつが番を偽る香水の根絶であり、もうひとつが虐げられていた「番」の保護だ。
特に後者は、何があろうと優先する。おかげで現在、この国で間違われた番がひどい目に遭う事はなくなった。
ライラのような例外はあるが、それも根気よく潰している。
最初に会った日も、番を虐げていた獣人の存在を聞きつけて、それを解決してきた帰りだったそうだ。
寝台で眠るガルゼルは、普段よりも少し幼い。
二十歳はとっくに過ぎているはずだが、今は何歳なのだろう。三十前には見えるけれど、獣人の年齢は分からない。もっともガルゼルなら、四十でも五十でも構わない。ライラにとって、彼は今でも英雄だ。
「ん……」
ライラの視線にも気づかぬ様子で、ガルゼルがわずかに身じろいだ。
世話役の女曰く、これは相当に珍しいそうだ。ガルゼルはライラ以外の誰かが部屋に来ると、飛び起きてしまうそうだから。
けれど、そんなのに優越感を覚えるよりも、ガルゼルの様子の方が問題だった。
彼は苦しげな顔で、誰かの事を呼んでいた。
「……って、くれ……たのむ」
どうか、どうか。
「行かないでくれ……。俺は……ずっと」
悲痛さをにじませた、かすかな声。
「頼む……。……イ、ナ……」
閉じた目から涙がすべり落ち、浅黒い肌を濡らす。たまらずにライラは駆け寄った。
「大丈夫です、ルーさま」
日に焼けた手を取っても、ガルゼルは目を覚まさなかった。
「どこにも行きません。ルーさまのおそばにいます」
「俺は、お前に……ひどいことを」
「ルーさま、大丈夫。大丈夫です」
何が大丈夫なのか分からないまま、ライラは懸命に語りかける。
夢の中のこの人に届いたらいいのに。その分だけ、ライラが悪夢を引き受ける。どれだけ怖い夢を見たって構わない。だからどうか、神様。
「ルーさま……ガルゼルさま」
その時、ガルゼルの様子が変わった。
ライラが握っていた手に力がこもり、握り返したのだ。はっとしてライラは息を呑んだ。
「そこに……いるのか……」
夢とも現ともつかぬ声。だからライラは頷いた。
「大丈夫です、います。ルー……ガルゼルさま」
「ああ……そうか……」
そうだったのか、と呟く声。
うっすらと目が開き、赤い瞳がライラを捉える。
黒い髪と黒い瞳。それを見て、ガルゼルは安心した様子で目を閉じた。
「お前の髪と目は……相変わらず、綺麗な色だ」
「…………」
「そうか……夢だったのか」
全部夢だったのか、それならよかったと、ぼんやりした声で繰り返す。今も夢の中にいるのかもしれない。たまらなくなってライラは答えた。
「そうですよ。だから、安心してください。わたしはずっと、ガルゼルさまのそばにいますから」
「ああ……分かった」
そう言うと、ふたたび眠りに入ったのか、ガルゼルが深く呼吸する。震える手を離し、ライラはそっと息を吐いた。
――この人は、今でも忘れていないのだ。
后なんて選べるはずがない。失った番以外、誰も欲しくはないのだから。
誰か、この人を救ってほしい。
過去の出来事から解放して、この人を自由にしてあげてほしい。
以前に何があったのか、ライラには分からない。もしかしたら、彼は許されない事をしたのかもしれない。王座を失うくらいだから、きっと小さい事ではないのだろう。
それでもどうか、許してほしい。
彼のしでかした事の半分、ライラが引き受けると誓うから。憎まれるのも、恨まれるのも、ライラが半分背負うから。何度だって謝るし、土下座しても構わない。償い切れない事柄なら、一生だって償い続ける。
(だから、どうか)
このやさしい人を、どうか助けて。
どうか――どうか、神様。
この人に番を返してください。
もう一度だけ、彼を幸せにしてください。
ライラの初恋なんて、叶わなくたって構わない。
この人が幸せになるためなら、全部差し出してみせるから。
だから、だから、どうか。
ライラの目から涙が落ち、床を濡らした。
声を殺してしゃくりあげながら、ライラはひたすら祈り続けた。