第3話
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(あれから三年……)
狼の城で暮らすようになってから、ライラはたくさんの事を学んだ。
ガルゼルは王様だが、一度王座から退いた事があるという。
今から数年前、公にできない騒ぎを起こし、国王でいられなくなったのだと。
普通ならそのまま終わりそうだが、彼はそうしなかった。王座を失って三年、野に下っていた彼は、大規模な討伐を成功させ、ふたたび王の地位に返り咲いたのだ。
その時に行ったのが、偽りの番を生み出す香水の根絶だった。
正確に言えば、香水の元になる薬の排除だ。
それは非常に厄介な薬だった。必ずしも香水にする必要はないが、狼の獣人には一番効く。それを使う事で、彼らは番を誤認したり、本物の番を見分けられなくなっていたのだ。十年ほど前から狼の国に出回るようになった代物で、強い中毒性と副作用があった。
ライラを番だと言った男も、その香水を嗅がされていた。
娘はあっさり捕まって、香水の入手経路も明らかになった。二年前の討伐時、こっそり隠し持っていた最後のひとつだったという。その販路はすでに潰してあったが、他にも隠し持っている者がいるのは確実だ。今度はそれをあぶりだすのが至難の業だと言っていた。
だったら男は無罪かと思ったが、それは違った。
偽物だと思ったライラを虐げ、ひどい目に遭わせていたのは別問題だ。それは許されざる事であり、王命に反する。
ライラは知らなかったが、狼の国では番の取り違えが起こった場合、偽物とされた番を保護する決まりがあった。国王自らが発令したもので、何があっても守るようにと。
最初は軽く考えていた国民も、彼が本気だと知るにつれ、番だった者の待遇は良くなった。その時初めて、番と間違われる人間は案外多いのだと知った。
獣人同士ではないからだろうか。それとも、人間特有の現象なのか。
分からないけれど、今までに百人近い人が助け出されたと聞く。今のところ、その最後のひとりがライラだ。
ライラは結局、あの男の番なのか、そうではないのか、分からないまま終わってしまった。
もっとも、それはそれで構わない。たとえ本物の番だろうと、あんな男と一生を共にするのはごめんだから。
(……それよりも)
十一歳になったライラは、ひそかな悩みを抱えていた。
ガルゼルがこっちを振り向いてくれない。
人間の国に戻りたくないと言ったため、ライラは狼の城で暮らす事になった。といっても、客ではない。下女として働きたいと言ったのだ。
ガルゼルは渋っていたが、強く押せば許してくれた。なんでも、数年前に使用人の大掛かりな入れ替えがあったらしく、いるのは朗らかな人ばかりだった。
ライラはそこで、ガルゼルの事をたくさん教えてもらった。
国王の地位に戻ってからも、彼は寝る間もない日々を送っていた。何せ、久々の公務であり、やる事は山積みだ。他にも、ガルゼルを是としない輩への配慮もある。だが、ガルゼルは決して仕事を投げ出さなかった。
以前には下げなかった頭を下げ、政敵とされる人間にも教えを乞い、着々と実績を積み重ねていった。それは小石を積んで高い塔を建てるような作業だったが、ガルゼルは音を上げなかった。そうしているうちに、彼を受け入れる者は増えていき、今では立派な王様だ。
ライラの好きな人はすごい、と思う。
格好良くて、努力家で、なんでも一生懸命で。
頑張りすぎるのが玉に瑕だが、それだって欠点ではないと思う。
当然、后になりたい女は星の数ほどいたが、彼はそのどれもを断り、頑として独り身を貫いていた。
ライラはほっとしていたが、ある日、こんな話を聞いた。
――后を選ばないんじゃない、選べないのさ。
それを口にしたのは世話役の女性だった。
五十の坂を上ったであろう彼女は、痩せぎすの厳しい顔つきをした女だった。ライラも何度叱られたか知れないが、それでも彼女の事は嫌いじゃなかった。きつい物言いの中に、思いやりと愛情がこもっていたからだ。
彼女は下女にしては珍しく、二十年以上前からこの城に仕えているという事だった。
「選べないって、どうして?」
「獣人には番がいる。それはあんたも知ってるだろう」
手を動かしなと言われ、ライラは急いで豆の皮むきを再開した。
「后と言われても、番が現れれば引っくり返る。何せ運命の相手だからね。だから国王の婚姻には、できる限り番が求められる。だから番でない女は、后なんかになるべきじゃない」
「それは知ってるけど……」
「国王はね、その番を失ったのさ」
女はなんでもない事のように口にした。けれど、その目に一瞬、かすかな憂いが浮かんだのには気づいてしまった。
「失ったって、どういうこと?」
「さぁ。あたしはそれを目撃したわけじゃないからね。ただ、ある日、国王は番を失って、ついでに王座も失った。それだけのことさ」
とてもそれで終わる話ではなかったが、女はそれ以上言わなかった。
「あんたは黒い髪に黒い目をしているね」
唐突に、世話役の女が口にした。
「あんたを見ていると、昔この城にいた女の子を思い出すよ。その子も人間で、あんたと同じ色の髪と目をしていた。可愛い子でね、痩せっぽちではあったけど、磨けば光ると思ったものさ」
「そうなの?」
「そのせいで、男どもからは変に目をつけられてね。国王もそれを知ってか知らずか、いつもイライラしていたものさ」
「その人はどうしたの?」
「もういないよ。多分、二度と会うこともないだろうさ」
それで話は終わってしまったが、ライラはその後も考えた。
后を選べないって、どういう事だろう。
番というのは知っている。最愛の人で、魂の半身。多分だけれど、そんな相手が現れたら、后よりもずっと愛されるだろう。
ガルゼルはその番を失った。
もしかして、后にしたいのはその番だったから、他の人では駄目なのだろうか。
だからガルゼルは誰も選ばず、選ぼうともしないのではないか。今でも忘れられないから。
今でもその番が好きだから。
「――――」
そう思った瞬間、ツキンと胸が痛んだ。
ずっと昔から、ガルゼルが好きな人。
そんな人がいるなら、勝てっこない。
ライラはこの日、初恋の人に失恋した。
***
その話を聞いた衝撃が薄れ、季節がいくつか変わった今も、ライラの気持ちは変わらなかった。
けれど、口に出す事はない。それはライラの秘密だった。
ただし、こっそりとガルゼルの様子をうかがう癖がついた。
そういう目で観察してみると、彼は本当に女っ気がなかった。酒の席でも女を侍らす事はなく、変に絡む事もない。逆に押しかける女はいたが、いつでも彼は断っていた。
唯一の例外がライラであり、世話焼きな妹分という扱いだ。
納得はいかないけれど、恋人という目線で突き放されるより、妹という立場でそばにいられる方が楽だった。
そうやって過ごしているうちに、ライラは気づいてしまった。
彼は時折、何かを思い出すようにぼんやりしている。
自分の手を見つめ、何かを握るような仕草をした後で、静かに息を吐く。
そんな時の彼はいつも、ぽっかりと穴が空いたように見えた。
一度だけ、そんな彼に聞いてみた事がある。
――ルーさま、どうして悲しそうな顔をしているの?
ガルゼルは目を瞬き、「悲しい?」と呟いた。
自分の胸に手を当てて、少し視線をさまよわせた後、腑に落ちたように頷く。
――そうか。悲しかったのか、俺は。
その言葉にライラは驚いた。
思わず、「自分で分からないんですか?」と聞いてしまった。
――さあ……。いつもこんな気持ちだから、そんな感情は忘れてしまった。
まだ悲しいと思う気持ちが残っていたのかと、ガルゼルが笑みをこぼす。その笑顔もからっぽで、深い水の底に沈んでいるようだった。
その笑顔があんまりにも悲しくて、ライラは彼にしがみついた。
理由はない。ただ、このままガルゼルがどこかに行ってしまう気がして怖かったのだ。
国王に対する不敬にも、ガルゼルは咎める事はなかった。
ライラの黒い髪をなで、「どうした?」と聞いてくれた。
――なんでもありません。ただ……その、ええと、さびしくて。
ライラは子供だ。だから、ガルゼルはすぐに納得した。
――そうか。それなら、たまにはこうして甘えるといい。
――いいんですか?
――構わない。お前は特別だ。
静かに髪をなでる仕草からは、男を威圧した時の恐ろしさを感じなかった。彼は凪いだ水のようだ。穏やかで、やさしくて、ライラを包み込んでくれる。
彼の目がライラの瞳に移り、静かに細められる。
そういえば、とライラは気がついた。
ライラの髪と目を見る時も、彼は同じ表情をしている。
悲しそうな、寂しそうな、切ない顔を。