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第2話


 男に追い出されると思っていたライラだが、彼はそうしなかった。

 ライラは男にとって、「許しがたい偽物の番」となっていた。

 ただ追い出すよりも、痛めつけて懲らしめたい。そう思っているのは明白だった。


 ライラは男の元で、身を粉にして働いた。

 その環境は過酷なものだった。


 宿屋の仕事できつい労働に慣れているはずだったライラだが、早朝から夜中まで、休みなしの労働は辛かった。おまけに、周りは皆獣人で、人間であるライラを馬鹿にしている。こういう立場になって初めて、ライラが周囲から妬まれていた事を知った。


 男は大きなお屋敷の主人であり、もし気に入られれば、どんな贅沢でも思いのままだ。突然連れてきた人間の少女がその恩恵にあずかるなど、身の程知らずな話だった。


 だけど、それを知ったからといって、ライラに何ができただろう。

 男が番だと言って、男がライラを可愛がり、男がライラを捨てたのだ。


 いや――捨てられていた方がましだったかもしれない。

 すべてはライラのあずかり知らぬところで、ライラを無視して決められた。


 このままずっとこき使われて、いずれ命を落とすのだろう。

 そう思うくらいには、ライラは疲れ果てていた。


 そんなある日、ライラは溝さらいを命じられた。

 溝さらいというのは、食べ残しや泥で汚れた溝を綺麗にさらい、流れを良くする作業の事だ。そこに「番」――男の寵愛を受けている娘だ――が、指輪を落としてしまったという。下女一同で、それを探すようにと言われたのだ。


 いつもは屋敷の奥で、人目につかない作業をさせられるのだが、その日は下女達が嫌がった。


「とっても臭うんですもの。腐った魚の骨を漁るなんてまっぴらよ」

「衣が汚れてしまうわ。暑いし、汗もかくもの」

「そんな仕事はごめんだわ。絶対やりたくないわね」


 この子にやらせましょうと、勝手に決められる。

 断る事もできず、ライラは溝さらいを押しつけられた。


 溝はお屋敷をぐるりと回り、敷地の外へと続いている。考えてみると、この生活をするようになって、お屋敷の外に出たのは初めてだった。

 それについて深く考える事もなく、ライラはすぐに作業にかかった。


 重い泥やゴミをさらい、小さな指輪を探すのは、大人の男でもきつい労働だ。すぐにライラの全身から汗が吹き出し、小さな体は泥まみれになった。それでも指輪は見つからなかった。


 命令を果たせなかったら、娘は下女を叱り、下女はライラをぶつだろう。あんまり痛くないといいな、と考える。

 太い声が聞こえたのはそんな時だった。


「――おい! こんなところで何をしている」


 見ると、男が鬼のような形相で駆け寄ってくるところだった。


「あ、指輪を――」


 答える間もなく、体に強い衝撃が走る。

 男に蹴られたのだと知ったのは、地面に転がってからの事だった。


「外から見えるだろう! 中に入れ、早く!」

「わ、わたし……」

「まさか、逃げようっていうんじゃないだろうな。この薄汚い、偽物め」


 男の目はライラを憎々しげに見下ろしていた。

 その足がもう一度動き、ライラを蹴り飛ばそうとする。

 思わずぎゅっと目をつぶると、「うわっ!?」という悲鳴が起こった。


 いつまで経ってもやってこない衝撃に、そろそろと目を開ける。

 ライラをかばうようにして、背の高い人物が男の腕をひねり上げていた。


「こんな子供に何をしている」


 その声は低く、少しだけかすれていた。


「な、なんだ、お前」

「何をしていると聞いた。答えろ、下種が」


 彼の頭は布で覆われ、ぼろぼろのマントを羽織っていた。ずいぶん長い事歩いたのだろう。体は砂だらけで、背中の荷物も薄汚れている。まるで大きな旅をした帰りのようだ。いや、まだ途中なのか。


 それなのに、その口調にはわずかな乱れもない。

 鋭い眼光に射すくめられ、男はひっと悲鳴を上げた。


「お、俺は、そのっ……」

「使用人に対する暴力は禁止だ。狼の国ではそう決まっている」


 知らないわけではないだろう、と彼が告げる。その声には妙な威圧感があった。


「王の言葉に逆らうか。()れ者が」

「なっ……何を偉そうに! お前に何のかかわりがある!」


 男に指を突きつけられ、布衣の人物は淡々と言った。


「ないな。ないが――昔の自分を見ているようで、気分が悪い」

「は?」

「だから、これは俺の八つ当たりだ。……いいか、これが最後の忠告だ。これ以上この子供を傷つけるようなら、ただではおかない」


 その目はライラに移っていた。

 ライラは黒い髪と黒い瞳の、この国では珍しい色彩だ。

 その目が一瞬、何かをこらえるように伏せられた。


「う……うるさい! 俺の使用人に俺が何をしようが、俺の勝手だ!」

「まだ言うか」

「そもそも、こいつが悪いのだ。見かけによらずしたたかな子供で、俺を騙し、俺を利用していたのだ!」

「わたし、そんなこと――」

「黙れ、偽物が!」


 その瞬間、彼のまとう雰囲気が変わった。


「……どういうことだ」

「ひっ……!?」


 先ほどの威圧感に加え、もっと強い何かが混じっている。後になって考えると、それは殺気と呼べるものだったかもしれない。男は完全に委縮して、立っているのが精いっぱいな様子だった。ほんの少しつついたら、ぎゃっと叫んで逃げ出してしまいそうなほど。


 どうしてこんなに怒っているのか分からない。けれど、その表情には鬼気迫るものがあった。


「――わたしは」


 いつの間にか、ライラは口を開いていた。


「にせものの、つがいです」

「……何?」


 その声は、地の底から響くようだった。


「にせものだから、わたしはここで、はたらいています」

「黙れ、ライラ!」

「そうか……お前」


 彼の瞳がライラを捉え、はっきりと映した。

 それと同時に、その色が鮮やかに燃え上がった。


 全身から紅蓮の炎が燃え盛っているようだ。ライラから見ても分かるほど、彼はこの状況に怒っている。


「……まだ残っていたとは思わなかった。あれだけ徹底的に潰したのに」

「な、なんだ、お前……」

「今度こそ、最後の一葉まで焼き払おう。跡形も残らぬくらい、容赦なく」


 知らないか、と彼は言った。


「番を間違えることは罪ではない。だが、間違えた番を虐げることは重罪だ。特に狼の国では、許されざる大罪となっている」

「そっ、それは……」

「二年前に大規模な討伐を行って以来、そんな馬鹿はいないと思っていた。あれだけ周知させ、見張りを置き、人の出入りに気を配っていてもこれか。なるほど、根絶は難しい」


 彼は意味の分からない事を口にした。それは男も同じだったのか、呆けたような顔になる。その顔が、何かに気づいたようにはっとした。


「ま、まさか、お前っ……いや、あなた様は……っ」

「狼の王が聞いて呆れる。足元の民ひとり、言うことを聞かせられないとは」


 お笑いだ、と彼は言った。

 頭に巻いていた布を取り、砂で汚れたマントを後ろに払う。輝くような銀髪がこぼれ落ち、精悍な顔があらわになった。


「狼の国王ガルゼル・ウォルフスが命じる。この子供の自由を保障し、権利を手放せ。お前には罪を償ってもらう」

「くっ……このっ!」

「遅い」


 襲いかかってきた男を、ガルゼルと名乗った彼は片手でいなした。軽々と突き転ばせた後、手早く後ろ手に縛り上げる。


「……薬物の匂いがするな。そちらについても調べよう」

「この、離せっ……!」

「うるさい、黙れ」


 自分の頭に巻いていた布で猿轡を噛ませると、ガルゼルはライラに目をやった。


「……怪我はないか」

「は、はい」

「ライラ、といったな。……人間か?」

「はい、そうです」

「帰る場所があるなら、人間の国まで送り届ける。家は分かるか」

「わかるけど……かえれません」


 両親が自分を売った事は、恥ずかしくて口に出せなかった。けれど、ガルゼルはそうかとだけ口にした。


「それなら、一緒に来るか」

「え?」

「討伐の際に救出された人間の番は、みな親元に帰すか、身の振り方を決めて出ていった。今は誰も残っていない。お前は幼いから、ひとりで生きるのは難しい」

「でも……」

「構わない。いいから来い」


 そう言うと、泥に汚れたライラを抱き上げる。


 ひどい匂いがしているはずなのに、彼は少しも気にしなかった。砂っぽいマントで頬の汚れをぬぐってくれ、至近距離で目を合わせる。

 彼の瞳は宝石のような赤い色をしていた。


「……黒い髪に黒い目、か」

「え?」

「いや、なんでもない」


 ガルゼルはゆるく首を振る。その唇が小さな声で呟いた。


 ――なつかしい人を思い出しただけだ、と。


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