第1話
ライラの好きな人には、昔、「つがい」がいたという。
つがいというのは「番」と書く。最愛の人であり、魂の半身なのだそうだ。
魂の半身、というのは難しくて、子供のライラにはよく分からなかったけれど、とても大切で、大好きで、代わりがいない存在だと教えてもらった。
それを失ってしまったら最後、絶望に塗りつぶされるほど。
真っ暗闇の中でもがき続けるような、終わりのない孤独に苛まれる。
獣人にとって、番は命にも等しいらしい。
ああ、だからとライラは思った。
だからライラの好きな人は、いつでも悲しそうな顔をしているのだ。
***
「ルーさま」
ライラの声に、ルーと呼ばれた青年は目を上げた。
「……どうした」
けだるげな、少しかすれた低い声。
見ようによっては不機嫌なそれに、周囲の人間がびくっとする。
けれど、ライラは知っている。
青年が昨日遅くまで仕事をしていて、今は眠いだけだという事を。
「ルーさま、少し寝ないと。おめめが乾いてしまいます」
「……乾かない。大丈夫だ」
「そう言って、昨日もおとといも寝不足ではないですか。いい加減にしないと、首根っこをひっつかんで、おふとんに押し込んでさしあげますからねっ」
「どこで覚えてきた、そんな言葉……」
呆れた顔をしたものの、青年はライラを叱らなかった。
乱れた銀の髪をかき上げて、赤い瞳を書簡に向ける。机の上に積み上がったたくさんの紙は、そのまま彼がこなした作業の量だ。
「もう少し調べ物が残っている。それが終わったら、少し休む」
「絶対ですよ。約束ですよ?」
「分かっている。約束は守る」
ライラの知る限り、青年が約束を破った事は一度もない。だから満足して、ライラは黒い目を細めた。
「じゃあ、ルーさま。指切りしましょう」
「……ああ」
ほんの少し、青年の表情が和らぐ。ライラにしか分からないほどかすかに、やさしく。
「ゆーびきーりげんまん、うーそつーいたーら……」
異国の歌を歌いながら、ライラはこっそりと青年を眺めた。
今十一歳のライラよりもはるかに大人の、「獣人」と呼ばれる種族の青年。
三年前にライラを救ってくれた命の恩人であり、あの境遇から助け出してくれた救世主だ。
彼がいなかったら、ライラは今ごろ生きていなかっただろう。
強くて、やさしくて、大好きな人。
あの日からずっと、ライラは彼に恋をしている。
***
ライラは人間の女の子だ。
貧しい村に生まれ、食べていくのが難しかった両親は、ライラを人買いに売り渡した。春を売る店ではなく、下働きとして雇われたのは幸いか。遠い町に売られていったライラは、そこにある宿屋に買われ、下女として働いた。
毎日の生活は辛かったが、ご飯はちゃんと食べられるし、ごくわずかだが休みももらえる。家で休む間もなく働いていたころと比べても、生活にそう変わりはなかった。むしろ、きちんと食べさせてもらえる分、こちらの方がましだったかもしれない。
とはいえ暮らしは楽ではなく、ライラはいつもへとへとだった。
そんなある日の事だった。
ライラが働く宿屋に、見慣れぬ客がやってきた。
狼の獣人と告げた男は、ここからずっと遠い国から来たという。獣人というのは、獣や鳥の特徴を持った種族の事で、人間の国とも交流をしているらしい。彼は人を捜していると言い、ライラを見て目を見張った。
――この娘だ。間違いない。
ライラには分からなかったが、彼はライラの「番」だという。
番というのは運命の相手で、天から与えられた祝福だと。
獣人にとって、番を見つけ出すのは至上の喜びで、他の何にも代えがたいのだと。
夫婦のようなものかな、とライラは思った。
それにしては、目の前の男は大きすぎるし、どう見てもおじさんだ。当時七歳ほどのライラにとって、三十近く年上の男と夫婦になるというのは、あまりピンと来なかった。
けれど、宿屋の主人は喜んだ。
獣人の男はそれなりの持参金を用意していた。ライラを買った時よりはるかに多い大金だ。それと引き替えに、ライラは男に売られた。――いや、「引き取られた」。
男と一緒に獣人の国に渡ったライラは、その違いに驚くばかりだった。
ライラのいた村は寒かったが、ここでは寒暖の差が激しい。昼は照りつける日差しが暑く、夜は凍えるほど寒くなる。服装も食事も今までと違い、慣れるのには時間がかかった。食べた事のない食べ物の中で、ザクロが一番好きだった。赤い色が綺麗で、甘酸っぱい味がお気に入りだった。
そうやって、しばらくは穏やかな時間が過ぎた。
男はライラを溺愛し、下にも置かないもてなしをした。ライラの父親と同じくらいの年齢の男と夫婦になるのは、やはり想像できなかったけれど、親戚のおじさん程度には心を許した。けれど、やっぱり、恋ができるとは思わなかった。
男はライラを可愛がったが、どこか薄っぺらい気がした。うまく言えないけれど、自分のしたいように愛でるだけ。ライラが何を考えて、この先どうしていきたいかなど、一度も聞かれた事はなかった。
けれど、しょうがない。ライラは彼に買われたのだ。
やがては彼と夫婦になって――「番」というのだったか――彼の望むまま生涯を送る。それがライラに与えられた唯一の道だ。嬉しくはないけれど、辛くもない。飢え死にや奴隷、暴力など、恐ろしい主人に買われる事に比べたら、ずいぶん恵まれている方だ。だから、それ以外の事など望んではいけない。
そんなふうにして暮らしていたある日、すべてを覆す出来事が起きた。
その日、珍しく早く帰ってきた男は、ひどく険しい顔をしていた。
どうしたんだろうと思う間もなく、ライラは床に投げ出された。
体を打ちつけた痛みに呻くと、男は恐ろしい目で自分を見ていた。
――ようやく分かったぞ。この偽物が。
男の話によると、少し前に出会った娘がいるという。
その娘はいい香りをしていたが、男はそれほど気にしなかった。
だが――ある日、気づいたのだ。
その娘こそが本物の番で、ライラは偽物だったのだと。
よく見ると、男の後ろには華やかな衣装を着た娘が立っていた。
娘は豊かな胸を見せびらかすようにして、男の腕にしなだれかかった。
美しく塗られた唇が、弧を描いて持ち上がる。
娘に見下すように見られた瞬間、ライラは悟った。
これで全部おしまいなのだ、と。
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