浮世
「千金楽」
静かな声だった。
振り返ると、蛇尾がそこにいた。
同じくらいの背丈。
彼は少しだけ近づいて、千金楽と目線を合わせる。
「ね、少し話してもいい?」
穏やかでやわらかい口調。
「……なに?」
千金楽は、首をかしげる。
「この世界のこと」
にこりにこり、と笑う蛇尾に千金楽もつられて笑顔になる。
「この世界はね、六つに分かれてるんだ」
指を一本、立てる。
「一番街は、人がたくさんいるところ」
もう一本。
「二番街はね、門がある」
「……もん?」
「うん」
こくり、と頷く。
「父様に力を付与された人が来たり帰ったりするための入口」
蛇尾は幼い千金楽にと、分かりやすい言葉を選ぶ。
「ふよ?」
「そう、神様に選ばれた人のことなんだけど、ちょっと難しいね」
そう言いながらにこり、と蛇尾は笑う。
「三番街は、流れを整えるところ」
「四番街は、静かに祈るところ」
「五番街は――」
少しだけ、声を落とす。
「亡者が集まるところ」
「……あつまる?」
「うん。いっぱい来る」
「六番街はね、いちばん端っこ」
「……地獄にね、いちばん近いところ」
「六つはね、分かれてるけど」
指先で、円を描く。
「ちゃんとつながってる」
「水みたいに、流れてるんだ」
「……みず」
小さく繰り返す。
「そう。人も流れるし、亡者も流れる」
「……もうじゃ」
「亡くなった人の、きもちが残ったもの」
「それもね、二つあるんだ」
指を折る。
「形がないやつ」
「ふわふわしてて、すぐ消える」
「弱い」
蛇尾はやわらかく言い切った。
「もう一つは」
少しだけ真面目な顔になる。
「形があるやつ」
「人みたいになって、しゃべる」
「……」
千金楽は、じっと聞く。
「帰りたい、とか」
「やり残したこと、とか」
「そういうのが強いと、形になる」
「強くなる」
「消えにくくなる」
一つずつ、置くように言う。
「亡者はね、流れて、そうして二番街に行く」
「なんで?」
「……わからない」
正直に言う。
「帰りたいのかもしれない」
少しだけ、視線を逸らす。
「でも」
すぐに千金楽へと戻す。
「行かせると、だめなんだ」
「だめ?」
「うん」
千金楽は小さく頷く。
「外に出ると、人間の世界が壊れる」
「風が強くなったり、地面が揺れたり」
「だから止める」
「……だれが」
「ぼくたち」
少しだけ、胸を張る。
「付与者と、神使」
「……わたしも?」
小さく、千金楽は不安げに聞いた。
それに蛇尾は、すぐに頷く。
「うん」
迷いなく。
「千金楽も」
少しだけ、笑う。
「だいじょうぶ」
短く。
まっすぐに。
「できるよ」
手を伸ばしかけて、止める。
そして、もう一度手を伸ばした。
千金楽の両手を、ぎゅっと握る。
「流れを止める」
ゆっくりと。
「それが、ぼくたちのやること」
ーーーーー夢を見た。
遠い昔の、小さな記憶。
目を覚ました千金楽はまだ微睡む眼を擦った。
煌びやかな部屋の外ではしんしんと真白の灰が振り積もっている。
「起きていますか」
扉の向こうから女の声がする。
大黒天が用意した千金楽の世話役の女は朝日が昇った頃に起こしに来る。千金楽がどれだけ疲れていようが寝てなかろうがそれは変わることは無い。
「起きてるわ」
扉が開く。
「おはようございます。お顔を洗いましたら、お召し物のお着替えを致します」
淡々と続く言葉すらも同じだった。
一日の始まりは決まっている。
明六つ(あけむつ)に四番街の祈りの場で大黒天から付与者神使達へとお祓いと祈祷が捧げられる。
それに千金楽も一緒にいく。
その準備として、酷く豪奢な衣に身を包むところから始まる。
幾重にも重なる白を基調とした丈の長い
衣を羽織りその上から金の糸で施された羽織りを羽織る。そして顔を隠すように頭の上から白い布を掛けた。それらは全て千金楽だと知られないように施されたものだった。まるで純白の花嫁のような姿だが、顔が隠れている所為かそれが天女のような神々しさを生んでいた。
「いってらっしゃいませ」
全ての準備が整ったのか、世話役は軽く頭を下げ千金楽を見ること無く片付けをはじめる。
「……行ってくるわねえ」
けたり、笑いながらそういえばしゃらりしゃらりと頭上から垂れる金の飾りを鳴らしながら歩き出した。
ペタリペタリ、足袋を履いているせいで鈴の音は聞こえない。
門をぬけ外にでれば、白く積もる灰の上で双子が片膝をつき頭を垂れていた。
「お迎えに参りました」
頭を下げたまま、言葉を紡ぐ。
「……」
羽の生えた双子は了承の無いままに自ずと頭を上げる。
これが千金楽だと分かっているのか、いないのか。
――いや、この双子だ。分かっているだろう。そのうえで、この状況を喜々として心底楽しんでいるのだろう。
まあどちらにしろ、大黒天からの命令では仕方がないのだろうが。
サクリ、一歩前へ出る。
すれば彼等は立ち上がり松鶴が手を差し伸べた。
それを掴み、隣に据えられた台へと上がる。神輿に似たそれは赤く塗られ、双子が担ぐ為にか、台の両側に丈夫そうな赤い長い木の棒が付いている。
千金楽はその上に胡座をかいた。
天蓋のついたそれは光沢のある艷やかな幕があり、松鶴がそれを下ろす。
「それでは参上いたしましょう」
千金楽はそれに答えない。
否、答えられない。
大黒天より、声を発する事を禁じられているからだ。
ふわり、赤い台が持ち上がると、幕がひらひらと揺れる。
高さも速さもなく飛ぶ彼等はまるでこの世の宝を運んでいるかのようだった。
偽物の宝とは酷く滑稽な話だ。
そう千金楽は心底馬鹿にしたように幕の中、顔を隠されたままに嘲笑した。
揺れが、次第に収まる。
幕の内側からでも分かる程、固く張り詰めた静けさが満ちていた。
人の気配はするが、誰も彼も音を立てない。
「……到着いたしました」
鶴松の余所行きであろう低い声とともに、台が静かに降ろされる。
四番街、ー――祈りの場。
幕がゆるやかに持ち上がり、朝日の温かな光が差し込む。
白装束に身を包む視界いっぱいに広がるそれは、冷たく整いすぎていて人間味が薄い。
石畳は磨き上げられ、余計な影を落とさない。
そのうえにある真白の祭壇は傷一つない。
祭壇の前にずらりと並ぶ付与者神使たちは、寸分違わぬ間隔で膝をつき、頭を垂れていた。
まるで、最初からそういう“形”として置かれていたかのように。
「……」
千金楽は台から降りる。
ひやり、足袋越しに石の冷たさが滲む。
しゃらり、と金の飾りが鳴った。
誰も顔を上げない。
ゆえに、その視線が向けられることはない。
だが意識はすべて、こちらに集まっている。
――いや。
正確には、“これ”に。
千金楽は何も言わず、定められた位置へと歩く。
中央からわずかに外れたその場所、変わることのない、同じ位置。
そこに立つと、自然と身体が静まる。
彼女は、ただ始まるのを静かに待った。
「――始める」
千金楽の真隣、中央に鎮座する白い帳の向こうから、大黒天の声が落ちる。
低く、静かで、逆らいようのない響き。
その声を聞いた瞬間。
ほんの一瞬だけ、脳裏に別の光景がよぎった。
白い床。
その上で膝をつき頭を垂れる自身の姿。
逃げ場のない視界の中で、その上から落とされる声。
――「動くでない」
「……」
思考は、そこで途切れた。
否、強制的に途切れさせられたと言ったほうが正しいか。
「捧げよ」
端的で短い、命令にも似た呪詛。
それは、千金楽へと向けられていた。
付与者たちと共に千金楽も手を合わせる。
その瞬間だった。
――どくん。
千金楽の内側で、何かが脈打つ。
呪詛の発動。
腕に絡みつく黒い痣が、ゆっくりと動きだす。
這うように、絡みつくように。
それは彼女が亡者から縛り、切り取った悪しき魂だった。
「……」
鈍く、いつまでも消えない感触。
そして鋭く焼き付いたように残る痣。
小さな千金楽に刻まれた呪詛。
それは、逃がさないためではない。
―ー―使うためだけに。
「……」
視線は動かさなかった。
帳の向こう、男の姿は見えない。
だが、彼女は知っている。
この呪詛は。
――大黒天に掛けられたものだ、と。
逆らえない。
それはまるで神の理のように、当たり前であるかのように動きだす。
黒い痣が、ほどける。
一本。
細く、事切れぬ糸のように。
ずるり、音もなく引き剥がされる。
不思議と痛みはない。
ただ、内側が抜けるような酷く不快な感覚。
そしてそれが流れていく。
祈りの中心にいる一人の付与者へと。
流れが行き着く瞬間、千金楽は小さく呪詛を放った。
「解」
「――っ」
目の前のその背が震える。
一瞬呼吸が詰まり、だがすぐに、僅かだが高揚したように頬が上気した。
彼の内側で、変化が起きていることは明白だった。
亡者の魂が混じり、壊れる。
生命の濁りが裂け、形が崩れる。
そして新たな生命の源へと。
ー――整った。
ゆるりと、付与者から澄んだ気配がした。
「授けた」
大黒天の声がする。
何もなかったかのように、穏やかに。
「今日も、滞りなく務めてくれ」
「は」
付与者の頭が深く深く下がる。
「……」
千金楽は、両手を合わせたまま、未だ蠢く自身の腕を一瞥する。
消えることはない、呪詛。
逃げることも離れることも出来ない、明確な縛り。
「……」
"破壊と再生"
――これを、外したことはない。
外せたことも、ない。
だが、それでいい。
そう千金楽は思った。
人間に力を譲渡する。
それでこの者たちが、幾らかでも生き延びるのであれば。
ーーーそれでいい。
「続けよ」
祈りは、繰り返される。
何度も何度も、同じように。
やがて。
「――終わりだ」
大黒天が帷の奥から付与者へと言葉を放つ。
「皆のもの、人の世の為、命を全うせよ」
「御意」
高圧的で有無を言わせない神たるがゆえの言葉に付与者達は皆、頭を下げ答えた。
そうして各自の任務へと歩みを進めだす。
四番街にざわめきが戻る。
その場に残る千金楽はそれを見ながら、腕に触れた。
「……」
しゃらり、と金が鳴る。
踵を返し、未だ鎮座している大黒天へと視線を向ける。
ーーー来い。
呼ばれるよりも先に、身体が理解していた。
ひたりと帷を抜け、大黒天の目前に行けば大黒天が口を開く。
「よく務めた」
労いにも似ている、穏やかで静かなこえだった。
「有難き御言葉」
千金楽は頭を垂れる。
「今日も、滞りなく流れた」
ゆるりと眼を垂らし、大黒天はにこり、にこりと笑みを浮かべる。
「……お前のおかげだ」
その言葉は褒めているようで、どこか、違う意味を含んでいるようにも聞こえた。
「……」
大黒天は、ゆるりと頬杖をつく。
「どうした」
問いかける声は、穏やかだ。
「何か、思うところでもあるか」
逃げ場を与えるようで、逃がさない声音。
「……」
千金楽の指先が、わずかに自身の腕に触れた。
「……何も御座いません」
「……そうか」
大黒天は、短く頷いた。
「それでよい」
「……」
「お前は、そうあるために在る」
一切の迷いもなく、断じる。
「それ以上でも、以下でもない」
ひやりとした静寂の中にその言葉が、重たく落ちる。
「……」
千金楽は、顔を上げなかった。
ただ、聞いた。
逆らうことも、考える必要も、無い。
暗にそう言われているのだ。
「行け」
大黒天の言葉は、理そのものだ。
「次がある」
命じられれば、それに従うしかない。
千金楽はそうやって生きてきた。
反発することも、拒絶することも無く。
従順に、盲目的に。
全て大黒天の掌で転がされているとわかっていても。
「御意」
千金楽は、踵を返すと静かに歩き出した。
その背を大黒天は見ている。
垂れた眼のまま、視線を外すことはない。
「……さて」
ぽつり、と零す。
誰に向けるでもなく。
「どこまで保つか」
その声音は、酷く愉しげだった。




