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六番街一番勝負  作者: 百助蝶子
一章
5/8

巡合

いつの間にか、夜が明けていたらしい。


一番街は、昼も夜も大差がない。

亡者避けとして吊るされた無数の提灯や、色とりどりの傘が頭上を覆い、淡い光を絶やさないからだ。

常にどこか黄昏のような明るさが満ちていた。


石畳の通りを、下駄の音が静かに響く。


からんころん、ちりん。


行き交う人々のざわめき。

湯気の立つ飯屋からは香ばしい匂いが流れ、呼び込みの声があちこちから飛ぶ。

笑い声、怒号、酒の匂い。

生の気配が、濃く満ちていた。


その中で、千金楽の姿だけがひどく浮いていた。


黒くべたりとした亡者の液が衣にこびりつき、乾ききらぬそれが光を鈍く反射する。

歩くたびに、僅かに引き攣るような不快な感触が肌にまとわりついた。


視線が刺さり、ひそひそと小声が耳に入る。


「あれ……神使だろ」

「なんだあの格好……」

「亡者の……」


それでも千金楽は気に留めなかった。ただ、その視線の多さにほんの僅かに眉を寄せた。


衣が、重い。

貼りつく感触だけが、やけに意識に残る。


「……煩わしい」


小さく息を吐き視線を巡らせた。


一番街には、あらゆるものが揃っている。

飯屋、衣装屋、呑み屋、そして奥へ進めば風俗街。


その中でも、最も数が多いのが――


「湯屋、か」


視線の先、湯気を上げる暖簾が幾つも並んでいる。


だが、千金楽はそのまま足を進めた。


向かうのは、もっと下。


石段を降りるごとに、喧騒が薄れていく。

灯りも、次第に鈍く、くぐもった色へと変わる。


ちりん。


鈴の音だけが、やけに響いた。


一番街の最下層。


そこは、表に出ないものを押し込める場所だった。


重傷を負った付与者。

治療が長引く者。

任務から外された者たち。


そして、神ですら処理しきれないもの、《影》と呼ばれるそれらが集められる吹き溜まり。


一番街の"陽"と“陰”。


守られた場所の、その裏側。


「……相変わらず、辛気臭い場所ね」


ぽつり、独りごちながらさらに奥へ進む。


人の気配は少なく、その代わりに湿った空気がまとわりつく。


行き先は決まっていた。


久しく訪れていなかったが、何も変わっていないようだった。湯気がゆるやかに立ち昇り、木の戸が半ば開いている。

着いた先には人の気配の薄い、ひっそりとした湯屋があった。


千金楽は迷わず、その戸へ手をかけた。


「失礼するわ」


返事を待たずにするりと中へ入る。

戸をくぐると、湿った熱気がふわりと肌を撫でた。


外の空気とは違う、柔らかく、重たい温もり。

湯の匂いが、静かに満ちている。


中は広くはない。

古びた木の床に、簡素な衝立。

奥では湯気が絶えず立ち昇り、水の落ちる音が一定の調子で響いている。


人の気配は、まばらだった。


壁際に、横たわる者がいる。

座り込んだまま動かない者もいる。

誰もがどこかしらに傷を負っていた。


その中で。


千金楽の姿は、やはり浮いていた。


入口に立ったまま、誰もが一瞬だけ視線を向ける。


そして、すぐに逸らした。


沈黙。


やがて、奥からひとりの女が歩み寄ってくる。


年の頃は五十ほどか。

無駄のない動きで、千金楽の前に立つ。


「……随分と派手なお姿で」


淡々とした声だった。


千金楽は視線だけを向ける。


「湯を借りるわ」


「奥、空いてます。……流すだけじゃ落ちませんよ、それ」


視線が、千金楽の衣へと落ちる。


黒く乾きかけたそれは、確かにただの汚れではなかった。


「そうよねえ、どうしようかしら?」


「今着られているお召し物は処分しても宜しいので?」


「ええ、良いわ。これ嫌いなのよねえ、酷く動きにくいのよ。見てよこれ、このひらひらしている布。絶対に要らないじゃない。ねえ、そう思わない?」


「ふふ、そうでございますね。……それでは後ほど、新しいお召し物をお持ちいたします」


「お願いするわ」


千金楽は、それ以上言葉を交わさず、そのまま奥へ足を進める。


すれ違いざま。


女の唇だけが、わずかに動いた。


「……お久しゅうございます。お元気そうで何よりです」


声は、他の誰にも届かない。


千金楽は足を止めず、振り返りもしなかった。何もなかったかのように、そのまま最奥の湯場へと進む。


床に座り込んでいた男が、小さく息を呑む。


「……神使、だよな」


「……ああ」


別の声が、かすかに応じる。


「なんで、あんなガキが……」


言葉は最後まで続かなかったが、千金楽には聞き慣れたただの戯言だった。


脱衣場の暖簾を潜り、衣に手をかけそのまま衣を脱ぎ捨てた。


べたり、と重たい音を立てて床に落ちる。


続けて、顔にかけていた兎の面へと手を伸ばしするり、と外し目の前の棚にカタリと置いた。


ぺたぺたと脱衣場を抜け、湯場への引き戸を開ければむわりと温かい湯気が身体に纏わりついた。


かたん、後ろ手で戸を閉める。


すればざわり、と空気が揺れた。


湯気の中に、明確なざわめきが走る。


「……は?」


「おい……」


男ばかりの湯場に現れたのは、小柄な少女の裸身。


それだけではない。


白い肌に、絡みつくように刻まれた呪詛の痕。

黒く、うねるようなそれが、身体のあちこちを這っている。


「……やっぱりあいつだ」


「鬼だろ、あれ……」


「羞恥とかねえのかよ……」


ひそひそと、しかし隠しきれない声が広がる。


だが、視線も言葉も彼女にとっては、全て意味の無いものだった。


備え付けの湯桶で簡単に体を流せば、静かに湯へと足を踏み入れる。


じわり、と熱が肌に広がった。


そのとき。


「うっわ」


場違いなほど大きな声が、ひとつ。


「なんだよその痣」


千金楽の動きが、ほんの僅かに止まった。内心で、小さく溜息を吐く。


煩わしい、そう思いながら、視線だけを向けた。


そこには、こちらをまじまじと見ている一人の男がいた。


「めちゃくちゃ格好良いじゃん!!」


「……」


ぴしゃりと周囲の空気が凍った。


それを感じながら千金楽は、ゆっくりと目を細める。


「………あなた、変な子ね」


男はけらりと笑い、興味だけで動いているかのように気にせず続ける。黒く絡みつく呪詛の痕を未だ視界に入れながら疑問を口にした。


「それさあ、痛くねえの?」


「別に。痛みには慣れているもの」


「へえ」


感心したような声が聞こえる。


「お前、名前は?」


「……必要?」


「いや必要だろ!?」


大袈裟にこちらへ振り向いたせいで、ばしゃりと湯が揺れた。


「呼びにくいし」


「呼ぶ必要がないでしょう」


「……ははっ、それもそうか!」


そう言って意外にもあっさりと引いた男は、それ以上何も聞いてこなかった。


その距離感に千金楽は、ほんの僅かだけ視線を向けた。


「……あなたは」


珍しく、先に口を開く。


「あなたの名前は」


男は一瞬だけ驚いたように黙ったが、何事も無かったかのように軽い調子で自身の名前を名乗った。


篁鈴こうりん


「……そう」



別段、男の名前を呼ぶつもりはなかった。ただ、聞いてみたくなった。それだけだった。


ちゃぷり、水面がわずかに揺れ、その名残が静かに広がっていく。


こうりんが立ち上がる。


縁に手をかけ、軽く身体を持ち上げると、黒い髪から滴る雫を乱暴に拭った。


「……あー」


短く息を吐きながら視線だけで湯の方を振り返る。


白い肌に絡みつく黒い痣。


篁鈴は、まだ湯の中にいる少女に小さく笑う。


「後でな」


それ以上は何も言わずそのまま湯場を出ていった。


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