肉食
クソが積み重なった灰皿へ拳を叩き付けた。跳ね返ったクソが漂い、机は陥没した。
「ぶっ殺す」
こめかみを押さえて、歯を食いしばった。肩口の筋肉は、敵を殺せと囃し立てている。更に握り締めた拳は燃えていた。
「殺す」
掴んだサングラスは粉々に砕けてしまった。憤怒に駆られた般若のような男がガラスに反射している。この身一つ。無造作に転がっていたヘルメットは無視して、家を飛び出した。
「このクソカスが、もういい」
乱暴に鍵をバイクにぶっ刺し、金具を蹴り飛ばした。
「邪魔じゃ、」
鍵を捻り、指先でボタンを押して、ほぼ廃車も同然の車体を押す。クラッチに指先を引っかけながら、アクセルを捻ってエンジンをフル稼働させる。
「ホント下らん、どうでもいい」
地面を蹴って、タンクを挟むように跨る。常にアクセルは全開。二速、三速、四速とギアをあげる。猛スピードで車道を切った。
「はははっ、何も見えない」
風が纏わり付いて、剥き出しの眼球を殴る。髪が轟々と揺れ、服とサンダルを掴んだ。更に五速、六速と切り替え、景色を次から次に乗り越えてゆく。
「もう止まれない、手遅れだ」
ブレーキは破損しており、エンジンブレーキ以外に減速する術は無いに等しい。地獄への片道切符を手に、俺は黄泉へと近付いていた。
「終わりだ」
目と鼻の先にはカーブが迫っていた。身を引き締めて、車体を寝かせる。接触した部分が火花を散らす。前輪を可能な限り車道に押し付け、摩擦を利用する。ガードレールに激突する瞬間に後輪を浮かせ、レールに沿って衝撃を吸収させることで、持ち直した。
「マジか、」
一難去ってまた一難。次の急カーブが休む暇もなく迫っていた。同じように車体を寝かせるが、慣性に乗った鉄の塊は一直線にガードレールへと突っ込んだ。暴れるハンドルが接触し削れた。
「今度こそ」
暗転するような衝撃から、続けて奈落の底へと転落する。離れた車体が高波を貫通し、闇夜に消えてゆくのが端に映った。浮遊する自我も数秒後には断崖絶壁の麓へと叩き付けられる。血飛沫が闇夜を舞った。
「ホント頑丈だな」
血反吐をぶち撒けながら肘を着いて、上体を起こした。驚くことに、滴る鮮血、背を穿つ岩肌の感触と共に、意識はハッキリとしていた。
「いつも、俺は、そうだったな」
常に身も心も限界だった。砕けても可笑しくはない衝撃も、普通じゃないことの連続にも己を保ちつつ耐え忍んで来た。
「結果的に、更なる痛みを甘んじて噛み締めた」
委ねる揺蕩う静寂は唐突に終わりを告げた。何やら上が騒がしい、傾けた防波堤には人影が揺れた。次第にサイレンが近付いて、無粋なライトが肉体を顕にする。不快感を噛み締めて、無作為に集る羽虫を眺めた。
「おいお前、生きているか?馬鹿なヤツだ、横着な運転をしているからそうなる」
ナメた言動に酩酊状態だった意識が瞬間的に覚醒した。岩肌へ膝を着き、首を回しながら敵を探す。悍ましい殺意を辺りへ光らせて、肉体を稼働させた。バイクと同じだ。この身は俺と言う名の自我が操作しているに過ぎない。
「鬱陶しい羽虫が、馴れ馴れしく喋りかけるな。消えろ、」
「それは出来ん、仕事だから」
そう言って警察官はメモ帳を仕舞うと、怠慢な態度で顎をしゃくった。
「よし、話してくれ、一体何があったんだ?」
肉体を動かす。暗闇の中で眼球が踊った。全て瞞しだ。痛みも、憤怒も、要求も、この絶望でさえも。
「おまえ、ナメてんのか?」
血肉の絡んだ唇で紡ぐ言葉は、前にも増して攻撃的だった。
「落ち着け」
宥めるような、その冷静さの中には軽蔑が含まれていた。バキバキとこの俺を縛っていた枷がぶっ壊れる音がした。
『自制心を失うな、何で綻ぶのか分からない、普通になるんだ』
「もういい」
羊の群れに溶け込もうと、己を律し、被った、不自由で、息苦しくて、最悪でしかなかった、皮を脱ぎ捨て、本来の姿を曝け出す。
「今からお前を殴ろうと思っている。俺が満足するまで」
例え殴り殺したところで、俺が満足することはない。つまりそう言うことだ。殺害予告を受けて、警察官は咄嗟に警棒へ手を伸ばした。
「銃は使わないのか?へへっ、何を使ってもいいよ。ただお前は殺すよ」
「とまれ!」
殺意を振り撒く修羅へ、警察官は警棒を持って迎え撃つ。
「そう、命を握り締めるなよ」
一瞬にして周りを彩った非日常に、耐性の薄い凡人は怯えていた。無茶苦茶に振り下ろした警棒は急所の外側を打った。一瞬の攻防の末に警察官は呆気なく範囲内に俺の侵入を許してしまった。面と向かって目が交差した刹那、喉と脚を滑稽にも警察官は震わせる。
「腰抜けが、ボロボロの獣一匹殺すことも出来ないのか」
縺れ込むように倒れる隙間に全体重を乗せた肘鉄を差し込んだ。精確に打ち抜かれた下顎は根元からへし折れた。羊の鳴き声が闇夜を震わせる。
「うるさい」
叩き付けた拳は、滑りを帯びた球体を弾いた感触に濡れていた。
「いだい、いだいっ!」
大の大人のみっともねぇ絶叫に眉を顰めた。
「子供かよ」
稚拙な発露に数刻前の威厳は完全に失墜していた。
「危機管理不足だ、甘えた羊がのこのこと。お前さ、守っていると勘違いしてないか?」
後方へ残ったパトカーから身を乗り出し、羊の相棒が何かを叫んでいた。単独で岩場を伝って、俺の元にのこのこと近付いた結果がこれだ。
「ゆるして」
下らん小芝居に氷柱のような目が殺到する。無抵抗で涙を携えた小物の顔面を、振り上げた容赦のない鉄槌が襲った。
「先にこの俺の視界を遮ったことを詫びろ」
「やめろ!」
遅れて登場した相棒は拳銃を構えて、何の効力もない命令をした。目には決意が篭っており、羊の身を案じる気迫がパトカーのヘッドライトに照らされた。
「あー、甘い、甘い、程度が知れるぜぇ」
向けられた銃口へ真っ向から侮蔑を投げ付けた。力に対抗出来るのは力だけ。やめろと言われてやめる人間なら、そもそもこの惨状を作り出すこともないだろう。
「撃つぞ!」
と続けて警告する腰抜けの銃口は頼りなく揺れていた。緩慢に首を回して、折れた羊に再び目を向ける。
「一々喚くな、やりたきゃやれ、答えはシンプルだ」
「おいっ!本当に撃つぞ!」
しようもない脅しに構わず、下した警察官の腰にぶら下がっている拳銃へと手を伸ばした。
「動くなと言っている!」
眼下の愚か者はこの期に及んで、口先だけで解決出来ると本気で思っているのだろうか。
「何回言えば分かる、もういいよ。ほら、俺が体現してやる」
抜いた拳銃を脇へと潜ませ、ノーモーションで撃鉄を鳴らした。肩口を通過した弾丸に怯み、家畜は頼みの綱の拳銃を易々と手放す。
「お前、何しに来たんだ?」
無粋な武器を投げ捨てると、安堵の息が聞こえた。どうやら凡人らしく都合のいい解釈をしたらしい。呻き声を発するだけの肉塊へと変貌を遂げた羊に、少し血を流した程度で戦意を喪失する無能。不愉快な景色が脳内を刺激し、臓物を駆け巡る憤怒を底上げする。
「あー、イライラする。なんでかなァー、何でこうも勘違いブスとか、自意識過剰な豚ばっか、うがー、クソクソクソ!大した許容量もない粗悪品に、楽な方へと浮遊するだけの燃えるゴミ、うざい、ホントうざい。心底不愉快なんだよ、特にお前みたいな蛆虫の、恵まれたが故の怠慢が、」
殴打によって砕けた歯抜けの顔面へと示し合わせるように鬼の要求を吐露してやった。不可視化の淀んだヘドロが眼球を介して、第三者を侵す。目を背けるように臆病者は命を乞い続ける。
「さっさと拾えや、ぶっ殺すぞ」
正々堂々ぶっ殺す。俺はパフォーマンス以外で武器を使うことはないが、それを家畜に強要する気はない。牙の備わっていない家畜に素手で殺し合えとは酷な話だろう。故に、獣を狩る武器を構えるまで粛々と待つ。
「正常なフリするなよ」
迷っている素振りを見せる大根役者に余り猶予はないと伝えた。
「どうせ、大した違いはないさ」
常人は清くて、異常者と交わることはないって?常人の範疇に俺は存在しない?俺が身を委ねた地獄には、他人を蹴落とし喰い殺すクソ野郎が歯車として正常に蔓延っていたぞ。
「ふわふわと浮遊するだけの塵芥が、俺の目は誤魔化せないぞ。自分の為なら、他人の命も奪えるくせに。小賢しい演技で、一丁前に悩むフリするなよ。ほら、あれ、大根役者の気色悪い、御涙頂戴やってくれよ」
滔々と吐き出す狂気に震える脚を投げ出す家畜の顔面は凍り付いた。
「ここで、死んでも、仲間がこの無念を必ず」
と綺麗事を謳いつつも、這い蹲って拳銃を拾った大根役者は引き金を引いた。剥き出しの血肉に弾丸が埋まる。俺の脳内へと繋がったのは痛覚ではなく、燃えるような歓喜だった。
「いい、いい!やっぱり殺せるじゃねぇか」
歯を食いしばった。首を回す。他人を蹴落とし、喰らう、醜悪で、品性下劣な、俺とは相容れることのない、異常者が、眼下には映っていた。
「あー、滾る、燃える、同類だ、敵だ、殺せる、殺す、ぶっ殺してやる」
一体何が鬼の琴線に触れたのか、理解が及ばず、蛆虫は後退り、滑稽にも逃走を図る。
「逃げるのか、好きにすればいい、全部想定内だよ。楽な方へ、矛盾虚言織り込み済み、醜悪な蛆虫の行動原理をよく、俺は知っている」
満身創痍、だが中に巣食う業火は衰えることなく、蛞蝓の背を掴む。
「はなせっ!」
縺れ込んで、無様に転がった。横目に映せば、尚も這い上がって逃げる臆病者が垣間見えた。殺意を研ぎ澄ませて、肩口を引き絞った。
「待って」
油断を誘ったかと思えば、顔面蒼白で構える臆病者の拳銃が続けて鳴った。
「ハッハッハ!おまえ、いいぞォ!もっと、曝け出せ!もっと、醜い本性を、俺に見せてくれ!」
血飛沫が踊り、眼球が爛々と輝いた。肉体の損傷は眼中になし。信念や理念何一つ詰まっていない風船は、殴打によって簡単に砕けた。駆け抜ける絶叫。肉が露になり、詰まったクソを容赦なく引き摺り出してやった。散乱する肉片。音は次第に波に攫われ、惨状の中心には、恍惚とした表情の亡骸が静かに佇んでいた。