お父さんへのラブレター
扉の先から彼女の叫び声が聞こえる。
非日常的な空間に、未知の状況に、手と足はガタガタと震えて、座り込んだ状態のまま動けそうになかった。
以前彼女に言われた言葉を思い出す。
気付けば左手に握っていた封筒は、くしゃくしゃに潰れていた。
「大好きな旦那様
日本は赤ちゃんが世界一安全に生まれる国です。
だけど100%の安全を約束する事は出来ません。
死産も妊婦の出血死も、関係ない事ではないのです。
そうお医者様に言われた時、それを初めて知りました。
思えば私は、子供がずっと苦手でした。
スーパーで泣きわめく子供も笑ってはしゃぐ子供も、ウンザリした顔を隠しもしないで避けていたくらい。
産んで育てるくらいなら、成長した子供を養子にとればいいとあなたに言いましたね。その時の少し困ったように笑う顔を、今でも覚えています。
好き嫌いがハッキリしている所が私の魅力だと言ってくれましたが、そうゆう事ではなかったんだと今では分かります。
誰かを好きになる勇気は持てても、誰かを愛する覚悟を持っていなかったのでしょう。
あの頃の私は、住み慣れた街から遠く離れ、偶然が重なり合って出会ったあなたと二人で生きていく事でいっぱいいっぱいでした。
新しい住居、新しい職場、先の夢よりも現在進行形の今をどうやって過ごしていくか。貯金も心も余裕なんて欠片もありませんでした。
それでも、ごく稀に一致した二人の休みで出かけた先に見た海の広さとか。懸賞で当たったなんてことない映画の試写会や、ひっそりとした夜の流星群だとか。特別じゃない特別なもの、私の心にとぽとぽと注がれていきました。
「ああ、やっと笑うようになったね」
あなたが無意識に零したその言葉に、私がどれだけ驚いたか、気付いていなかったでしょう。
あなたと出会えた事は間違いじゃなかったと、大きく息を吸えるようになったのはその時からでした。
私がやらかして、あなたのご両親にご挨拶する羽目になったのは、いまだに恥ずかしい想い出です。
おかげで、ご実家に伺った時から帰るまで、お母様がずーっと爆笑されていたのは忘れられません。緊張するどころじゃありませんでしたし、私もつられて笑って過ごさせてもらいました。
あなたを一つ知る度に、私の中が塗り替えられるような気がして。綺麗なもので、満たされて、溢れて。いつの間にか、あなたのように生きたいと、じわじわと強く願うようになりました。あなたの隣に立って、あなたと同じ目線で。
「お父さん、こっち」と手を振る子供を公園で見て、とても穏やかに笑っていましたね。
自殺した中学生のニュースを見て、しんどいなぁと零していましたね。
二人で出かけた温泉で、ダラダラと並んで漫画を読んで。心の底から幸せで、ずっとこうして過ごせたら良いって言葉が本心であったのは知っています。
それでも、あなたを「お父さん」にしてあげれたら、どれだけの幸福で満たされるのだろうと。
自分が子供を抱く姿は想像出来なくても、あなたが子供を愛おしそうに抱く姿は眼前に浮かぶのです。
自分が赤ちゃんの頃から大事にしていたぬいぐるみの事とか
ギターを弾いて一緒に歌う事
サッカーボールを持たせてみたい事
真っ白な新居に、定まらない庭のレイアウト
あなたの語る夢の一つ一つが、宝石のようにキラキラと光り輝いていました。
あなたの子供が欲しいと言った私の言葉も、間違ってはいませんでしたね。
月に一度のエコーを見る度にお医者様の言葉が蘇って。喜びと不安が同時に訪れて堪らない私に、
「産む時ってものすごく痛いんでしょう。どうしよう、今から既に辛い。痛い思いして欲しくない。辛い思いさせたくない。」
そんな事を言うから。
私以上に私の事を考えてくれる、それだけで無敵になれる気がしました。
なんで実家に帰らないのって色んな人から言われたけど。そんなの選択肢にすら上がりませんでした。
だって、私の実家にあなたは居ないもの。
私の親に育児を手伝わせるよりも、あなたと二人で奮闘したいと思った。
泣いて、笑って、多分喧嘩もして、手探りで発見する毎日が、私達らしいと思える。
血が大の苦手なくせに、生まれる時には立ち会いたいだなんて。あなたらしくて笑っちゃう。
「1人と1匹の居場所くらい、作ってあげる」
出会った頃に言われた言葉、忘れてないよ。
某アニメのように、真っ黒の猫を連れて真っ黒のワンピースを着て駅のホームに震えて立っていた私では想像もつかないくらい。
ほら、あなたがお父さんと呼ばれる未来が、こんなにも待ち遠しくて愛おしい。
大丈夫
日本は赤ちゃんが世界一安全に生まれる国です。
だからこれは、なにかあった時の遺言じゃありません。
お父さんになるあなたへの、ラブレターです。
三人と三匹で生きる未来を、これから作っていきましょう」
名前を呼ばれて分娩室へ入る。
その時から既に涙は溢れていて。
もう少し、もう少しと頑張る彼女に、何も言えずに強く手を握りしめる。
真っ赤な血とか、そんなの頭にもなくて。
ぼやけた視界に、小刻みに震える小さな命に、ただただ涙が流れ落ちていった。
「お父さん、泣き虫だなぁ」
そう言って笑った彼女の顔は、世界中の誰よりも綺麗で。
「君のラブレターのせいだよ」って泣きながら笑った。
そんな三人の始まりの日。