2話
――あの日、あの瞳を忘れない。
あの強いオレンジの輝きは、まだ俺の奥底で燃えている。
守りたかった。
俺が彼女を幸せにしてやると思った。
もう悲しくないように、俺が守りたかった。
「手を離した方が、幸せ。俺の幸せと、君の幸せは別」
念じるように唱えて目を閉じる。
当初から、俺の一存で決まった婚約者に反対はあった。家格が釣り合わないなんて、散々言われてきた。
だけど、大きくなれば、守れると思ったんだ。そんな有象無象の言うことなんて、曲がりなりにも王子なのだから、大人になれば黙るだろうと。
だけど、大人になって知った。俺には黙っていても、その刃が彼女に向けられることを。
ふと気付けば、ガチガチと音がする。
自分が歯の根も合わぬほど震えていることに気付いて、覚束ない手で窓を閉めようとして……やめた。
緩慢な身体を引きずるようにベッドへ潜り込み、堪えきれずに冷たい枕へ顔を押しつける。
寒い、寒い……。
「……フラウ」
口にすれば、暖かくなるような気がした。
日の光を凝縮したような、燃えるオレンジの瞳。
あの明るい太陽の瞳を思い出すだけで、暖かくなる気がした。
けれど、思い出すそれは激しく胸を焦がしはしても、温めてはくれなかった。
きっと、このくらいは許される。部屋の外へ、聞こえなければそれでいい。
「……っう、……フラウ」
そう、『こうずい』になるほど泣いて、明日から俺も笑うのだ。
俺はきつく歯を食いしばり、震えながら枕に顔を埋める。おまじないのように、愛しい名を呼びながら。
――はい。
まろい声が聞こえた気がして、俺は大きく目を見開いて動きを止めた。
今、確かに……。
「はい、殿下。フラウはここに」
ふわ、と何かが頭に触れて、驚いて手を引いたのが分かった。
途端に、温かなものに包み込まれる。
「こんなに冷え切って……! 一体どうしたのですか!」
簡単に俺を引き起こして膝に乗せると、毛布を被せて抱きしめられる。
俺はぽかんと口を開け、太陽の瞳を見つめた。沈んだはずのそれが、そこにあるはずがない。
「……フラ、ウ?」
「はい。フラウです」
当たり前のように微笑むフラウは、やっぱりフラウだった。
瞬いた瞳から、ころころと雫が伝う。
呆然とするうち、べたべたになった頬を拭われてしまった。
「殿下が泣いていらっしゃるから。フラウは殿下が泣いているのを見過ごすわけにはいきません」
何度瞬いてみても、そこにいるのはフラウだった。
温かい腕、柔らかな声、燃える太陽の瞳。
みるみる身体が熱を帯びていくのが分かる。
「なっ……?! なぜここに?! は、放してくれ、俺は泣いてなどいない!」
あまつさえ膝に乗せられた己の姿を顧みて、羞恥に今度は湯気を噴きそうだ。逃れようとばたつく身体は、いとも容易く毛布の上から押さえ込まれた。
「と、年頃の娘が、こんな夜更けに男の部屋になどっ!」
つい慌てふためいて言ってしまった台詞に、くすくす、と笑う声が耳元をくすぐる。
ますます顔に熱が籠もって、今、明かりを点けられると沸騰して死ぬ自信がある。
「ええ、ええ、殿下は立派な大人の男に……なりつつありますよね。ですが、いいのです。何せ私は婚約破棄された哀れな令嬢ですから。何が起こっても構いません」
ぎゅう、と抱きしめられてしまえば、つい抵抗は小さくなってしまう。
「も、もう立派な大人の男だ! 俺はもう11歳になるんだぞ!!」
まだ、もう少しフラウより小さいかもしれないが、それでも大きくなったのだ。膝に乗せるような子どもではないはずだ。
「まあ、それなら私はもう17歳です。殿下が甘えて何も問題ない大人の女です」
強い意志の煌めく陽光の瞳は、まっすぐに俺を見てにっこりと微笑んだ。
身体から力が抜ける。もう、振りほどけない。もう一度この温かさを手放すなんて、できやしない。
「こ、これでは、俺が何のために――」
ハッとして口を閉じ、そろりとフラウをうかがった。
「はい、何のために? 殿下、私は怒っています。聞かせてくれますね? どうしてひとり、泣いていたのですか」
「……婚約破棄のことは、怒ってないのか?」
恐る恐る問いかけた俺に、フラウは圧のある笑顔を向けた。
「怒ってます。ですが、殿下がそれで良いのなら、私は何も申しません。……ええ、私も決めましたから」
喉が干上がって、何を、という言葉は声にならなかった。
フラウは、もう受け入れることを決めてしまったのか。
彼女の意思が尋常でなく強いことを、俺は知っている。もう、どうにもならないのか。
――と、微笑んでいたフラウの瞳が、突如色を変えた。
同時に、暗がりを切り裂く鋭い金属音が響く。
「フラウっ! なっ……賊か?!」
離れて行くぬくもりに必死に手を伸ばし、目を凝らした。薄明かりの中、黒装束の人影が3つ。
フラウを庇おうと立ち上がりかけた身体を、華奢な手がそっと押しとどめた。
「ええ殿下、私は決めたのです。殿下に私が必要なくなっても、私の役目が終わってしまっても」
こんな時に、そっと頬に添えられた手は柔らかく、暖かかった。
「私が、殿下をお守りすることをやめる必要は、ないと」
俺を射貫く瞳は、あの時と変わらず強く、美しかった。
「お守りしますよ、殿下」
有無を言わせぬ微笑みを残し、フラウは素早く俺に背を向けた。
「や……いやだ! フラウ、待って!」
大人の仮面をかなぐり捨てて、掴もうとしたフラウの腕は、容易く俺を躱して飛び出していった。
賊よりも、フラウに置いて行かれる恐怖が俺の身体を震わせていた。
全身で止めるべく縋り付こうとした俺の身体が、とん、と優しく突き飛ばされる。
あ、と空を掴んだ手もむなしく、華奢な肢体は闇の中へ身を躍らせた。
「行くな! 誰か! フラウが!!」
必死に叫んだ。どうか、どうか間に合って。
金属の擦れ合う音、激しい息づかいと、身体のぶつかる鈍い音、呻き声。
ふわ、とベージュの髪だけが闇夜に淡く浮かんで見え――。
どっ、と人間が壁に叩きつけられた重い音が響いた。
「……フラウ?! フラウ?!」
俺は暗がりの中で必死に目を凝らす。
俺の目が、おかしいだろうか。
部屋の真ん中で、唯一立っている人物が、ゆっくりと俺を振り返る。
「はい、殿下」
月明かりに浮かび上がるベージュの髪は、何事もなかったように滑らかに光を反射していた。
「フ、ラ……ウ?」
今日は一体何度この名を呼ぶのだろう。
一体何度この間抜け面を晒すのだろう。
「はい?」
だけど、こればっかりは俺のせいじゃない。
いつも通りの穏やかな微笑みは、どう見てもフラウだけれど。
「あの、賊は?」
「そこにおりますよ?」
確かに、いる。折り重ねるように床に伸びた黒装束が3人。だけど、俺が聞きたいのはそこじゃない。
「賊が、倒れてる」
「そうですね。殿下、お怪我は?」
問われて、優しい指が頬を撫で、やっと思考が追いついてきた。
「お、俺じゃない! フラウ、怪我は?! どうして前に出たんだ!」
がばりとフラウを引き寄せ、ようやっとベッド脇のランプを灯した。
「怪我など、ありませんよ。淑女の肌に傷があってはいけませんと、教わりましたので」
どこかズレた返答の合間にその華奢な手を確認し、薄ぼんやりと浮かぶドレス姿に目を走らせる。どうやら本当に怪我はないようで安堵した。
「良かった……。だけど、どうして? 何があったんだ?」
あまりに強い衝動から、徐々に冷静さが戻って来た。
その時、突如響いた激しい衝突音に飛び上がる。振り向けば、ちょうど部屋の扉が蹴破られるところだった。
ああ、そうか、俺は鍵をかけたままだった。
……おや? そもそもフラウ、どうやってここに……?
「殿下ぁっ!! ……あ?」
血相を変えて飛び込んで来た騎士たちは、手を取り合った俺たちを見て動きを止めた。
「……おつとめ、お疲れ様でございます。夜分に失礼致しました、殿下に怪我はございません」
優雅に一礼したフラウを見て、騎士たちはハッと我に返ったらしい。先頭の者がおずおずと進み出て俺の前に跪いた。
「あの、助けを求める声が聞こえたと伺ったものですから……とんだ失礼をば……」
恐縮しきりの騎士へ、慌てて咳払いする。
「いや、それは事実だ。そこに、賊が転がっているだろう」
「なっ?! は?! いや、何故?!」
そうだろう、そうなるだろう。混乱するのは俺だけではないはずだ。
「ユグ!!」
ひそかに満足して頷いたところで、3番目の兄上まで駆けつけてきたらしい。
1番目と2番目の兄上は、城内で何かあればまずその身を守られる。3番目の兄上だって、大切な御身だ。何かあったとて、その現場へ駆けつけていいはずはないのに。
「ユグ! 無事なのか?! ああ……フルメリア嬢!!」
フルメリアは、フラウの姓だ。兄はフラウをひと目見るなり、一気に脱力した。
「良かった……ユグ、やはり1人にしてはいけなかった。私を許してくれ」
悪かったのは、我が儘を通した俺なのに。ぎゅうと抱きしめられた腕の強さに、自分の浅はかさを思い知るようだった。
そうだ、俺は、俺を大切にしなくてはいけなかったのに。俺が、母の代わりに俺を幸せにしなくてはいけなかったのに。フラウに、教えてもらったのに。
さっきまでとはまた違う波が押し寄せて、喉の奥が詰まった。
「ユグ、報告はまず私がしておくから、落ち着いたら出ておいで。フルメリア嬢も、一緒に頼むよ」
「勿体ないお言葉です」
兄上は賊と共に騎士たちを下がらせると、部屋の窓を閉めて立ち去った。
心配症の兄上が、こんなことがあったのに先に行くなんて。
それもこれも、去り際に交わしたフラウとの視線に何か意図があったのだろうか。
「フラウ。フラウ・フルメリア」
「はい」
嬉々としてこちらを見る瞳は、まっすぐに俺を見つめている。
「俺に、何を隠してるんだ?」
途端に、ゆらりと揺れた瞳はそっとまつげの影に覆われた。
「何も……私には殿下に隠すことなどありません。淑女ははしたなく全てを晒したり致しませんのよ? 私の事情など、その程度のこと」
どうしても俺には言えないというのだろうか。
俺は、少々赤面しつつ口調を変えた。王子ではない、俺に。
「ねえフラウ、さっきフラウは言ったでしょ。甘えていいって。フラウにとって俺がまだ子どもなら、淑女の嗜みなんていらないよね? 俺、ちゃんと聞きたい。全部話してくれる?」
うぐ、とそれこそ淑女にあるまじき声が聞こえた気がする。
じっと見上げたフラウは、観念したように一度目を閉じた。
「フラウは、頑張ったので」
にこっと笑って、キョトンとする俺を見つめた。