1話
「フラウ、婚約を破棄しよう。……これは、既に決めたことだ」
穏やかな日差しのガゼボに、冷たい風が吹き込んだようだった。
「……なぜ、でしょうか」
失礼なもの言いだったかもしれないけれど、やっと声にできたのはその程度だった。
「誰しも、心変わりはするものだ」
あの美しい瞳は、ついには私を映すことなく背を向けた。
立ち去る彼を追いかけることも出来ず、私はただ、段々と冷えていく指先だけを感じていた。
* * * * *
私には、婚約者がいる。いや、先ほどのことを思えばいた、と言うべきなのだろうか。
私が11歳の時に決まったご縁だ。
子爵家には勿体ないほどの良縁で、我が家から断るなどもっての外のお相手。
「今日は、花を持ってきたぞ。毎回菓子では良くないと言われたからな」
そう言ってそわそわと私を見つめるあまい、あまい蜂蜜色の瞳。月の光を移したような髪。
私なぞよりよっぽどきめ細かで美しい白磁の肌。
差し出される橙色の花は、力不足を嘆くように俯いて見えた。
「まあ、私の瞳に合わせて下さったのですか? ありがとうございます!」
微笑んだ私を見て、彼も安堵した様子でふわりと笑う。
ああ……眩しい。
しがない子爵家の庭園に天から光が差し込んだよう。
ユグ殿下は、その美しい容姿から非常に高い人気を誇っていらっしゃった。
そう、殿下。紛れもなく王族、ユグ・ルシルディー第四王子。
なんと私、フラウ・フルメリアは王族からご縁を頂いてしまったのだ。
もっとも上3人の王子はそれぞれ大変優秀な上に年が離れてらしたので、王位継承は考えず騎士団への入団を見据えていらっしゃるようだけど。それでも後々は騎士団長に推されるだろう。
殿下は民から人気があるだけではない。王族にあるまじき素直な性格は、家族から大変愛されていらっしゃった。それは本来、邪魔になるであろう他の兄王子からも溺愛されるほどに。それはとりもなおさず、婚約にて王家の強い庇護を得られるということ。
一方の我が子爵家は取り立ててお金持ちでもなければ、王家が気にかけるほどの何かがあるわけでもない。
加えて私は、残念なことに王族に見初められるほどの器量よしとも思えない。
でも、殿下は『私』を選び、『私』がいいと言ってくれた。
初めて会った時の、小さな天使は、大きな目をきらきらさせて私を見つめていた。私の方が年上だったから、本当に天使みたいだと思ったものだ。
『俺がフラウがいいと言ったのだから、それでいいだろう?』
優しげな面立ちを気にしているらしい殿下は、そうやって精一杯男らしい顔をして見せてくれたものだった。まだ幼かった殿下のふんぞり返る様が可笑しくて、頑張った強気な口調とは裏腹に真っ赤になった頬が愛おしくて。私自身まだ子どもであったけれど、この天使をお守りしたいと、そう感じていたのに。
私は、応えたかった。殿下の寵愛を受けるに相応しい人物になりたかった。
彼を守り、支え、影のように常に傍らに在る者として。
家柄でも財産でもなく、『私』を必要として下さるなら、『私』が財産となり得ることができれば。
その価値をもつことができれば。
だから――だから、これでも精一杯頑張ったのだ。
「ねえ殿下。……私、知っていましたよ」
どうやって部屋まで戻ったのか、いつの間にか私はベッドへ座り込んでいた。
部屋でひとり、やっぱり冷たい指先を見つめて呟く。
磨かれた綺麗な指だ。女性は玉の肌が良いと聞いて手入れを怠らないように、傷ひとつつかないようにしていたから。
なぜ、今そのような。
だって、私、もう殿下のためにたくさん頑張ってしまった。
だって、私、もう好きになってしまった。
「知っていましたよ。だけど……」
呟いた声が詰まって唇を結んだ。
婚約から6年、私ももう17歳になる。知っていた事実は、期待が押しやってしまった。
6年もあの甘やかな瞳に見つめられれば、こうなるのも仕方ないではないか。
それなら、もう少し早く離れて下されば良かったのに。
顔を上げれば、姿見に映る冴えない顔。
橙色の瞳、ベージュ色の髪。特に珍しくもない組み合わせが、誰と同じなのか。
知っていたから、いつかこうなると思っていた。
私の役目は終わってしまったのだ。
殿下のために仕上げた私は、いらなくなってしまった。
さようなら、甘い蜂蜜色のひと。
さようなら、私が守りたかったひと。
「……が、頑張ったん、だけど、なぁ」
暮れゆく室内で、へへっと無理に浮かべた淑女らしからぬ笑みが震えた。
* * * * *
「ユグ、どうしたんだ。夕食もとらずに」
きっと困り果てた者たちから話が行ったのだろう、兄上が部屋の扉をノックしていた。
「――今はひとりにして下さい。少し、考えたいことがあるだけです。心配はいりません」
無理に部屋から追い出したメイドや側仕えたちは、叱られるだろうか。
俺を心配する声にただ申し訳なく思うけれど、せめて今夜はひとりで過ごしたかった。
優しくされたくは、なかった。
「分かった……明日は顔を出せよ」
「はい」
賢い兄は、それ以上言わず、皆に指示を出して場をおさめてくれたようだ。
明かりも点けない室内は既に暗くなり、昼間とは打って変わって冷たい空気が忍び寄る。
太陽は、既に沈んでしまった。
『――良かったのですか?』
きっと、あまりに酷い顔をしていたのだろう。帰りの馬車でそう聞いたのは、メイドだったか側仕えだったか。
そんなこと、聞かないでくれ。
俺はのろのろと薄い寝間着へ着替え、窓を開けた。
吹き込む風に薄布が膨らんで、冷えた闇夜が肌を撫でる。
窓を掴む手はカタカタと震えていた。
そんなこと、聞かないで。
フラウは、きっと知らない。
きっと覚えていない。
俺が初めて彼女に出会った時のこと。
まだ幼い日、俺は虚ろな心を抱えて歩いていた。
抱えた花の白が眩しくて、きっと、晴れた日だったと思う。この物寂しい静寂の園を歩くのは、何度目になったろうか。
けれど、いまだ俺の目には何も映っていなかった。まだ幼い身には、喪失の痛みは大きすぎた。
『ご覧、ユグ。君と同じように、悲しむ子だ』
兄上がなぜその時声を掛けたのかは分からない。だけどきっと、虚ろな瞳にせめて何か映さないかと心を砕いた故だったのだろう。
促されるままに顔を上げた先には、俺たちよりずっと小規模な一団がいた。随分質素な装いだったけれど、自分たちと似ていると思うのは、皆暗く沈んで静かなせいだろうか。
なるほど、俺と同じ、哀しみに囚われた人たち。
ふと花を捧げようとする小さな人影が目に留まり、足を止めた。
フラウは、母君の墓前に花を添え、すすり泣く周囲をものともせずに前を見据えていた。濡れてなお煌めく瞳は、燃えているみたいだった。今を生きている者の輝きが胸を妬き、ついじっと見つめていた。
同じように花を抱えた俺は、一体どんな顔をしていただろう。
それは、さぞかし――。
視線を逸らそうとした時、オレンジ色の閃きが俺を射た。
見られたくない。急いで踵を返そうとした時、軽い足音が目の前まで来たのを感じた。ほんの少し、俺の周囲が緊張して、彼女の家族らしい人たちが肝を潰しているのが分かる。
「あなたの、お母さま?」
まろい声だった。きっと、今この瞬間にしかできない声音は、自然と俺の顔を上げさせる。
こくりと頷いた俺の無表情に、何を思ったろうか。
「私もね……昨日。大好きだったんだよ、優しかったんだよ」
俺はただ、その顔を見ていた。少なからず、衝撃を受けていたと思う。だって、昨日だと言った。俺がまだこんななのに、彼女が失ったのは、昨日だと言う。
次々溢れる涙を越えて、どうして彼女がそんなに美しく微笑んでいるのか分からなかった。
「なぜ。……君、わらってる」
いつぶりなのか、俺の口から零れた声を聞き止め、周囲がざわめいた。止めに来たであろう彼女の家族が、俺の周囲の者に止められているのが見える。
「私は、笑っているわよ」
しゃがみ込んだ少女は、こっそりと耳打ちする。『実は、昨日『こうずい』になるほど泣いたのよ』なんて。
そして俺の両頬を小さな手で包んだ。暖かい日差しの中で、その手は随分冷たかった。
「ほら、見てちょうだい。私の笑顔、素敵でしょう!」
流れる涙をそのままに――目の前で、ぱあっと、お日様の花が咲いた。
大輪の笑顔から迸った光は、俺の虚ろな瞳の奥の奥まで、貫いていった。
「お母さまはね、私が好きだったんだよ。私の笑顔が好きだったんだよ」
脳裏に、亡き母の面影が蘇る。
『私の天使、なんて愛らしい笑顔かしら』
『私が旅立つ時、きっとあなたみたいな天使が迎えに来てくれるのよ』
病床でいつも、俺を撫でた優しい手。
だから、笑ってなきゃいけないの? こんなに悲しいのに?
「――だからね、幸せにしてあげるの! お母さまの大事な私を、誰よりも幸せにしてあげるって決めたのよ!」
ぼたぼたと涙をこぼしながら、彼女は瞳を煌めかせた。
オレンジ色の輝きが、俺の瞳に焼き付いていく。
ぼたぼたと溢れる涙が俺の手にも滴って不思議に思う。触れた頬が濡れているのを感じ、初めて自分が泣いていることを知った。