失墜の蝶 p.9
窓から差し込む怪しい光に目を覚まし、アゲハは外の異変に気付いた。
嫌悪感を抱く匂いが部屋に充満する中、アゲハは気怠い身体を動かして床に落ちていた下着と制服を拾い上げ、下着を着ていく。
「ん? 外の様子がおかしいな」
同じように異変に気付いた正人が窓の傍に歩いていく。
上半身だけは裸のまま、正人は空の色を伺うが、何が起こっているのか理解できず、ポケットから携帯を取り出して時刻を確認する。
「一度社に戻る。夕方にはまたここに来るよ」
何げなく言う正人に、アゲハは下着姿のまま着替えの手を止める。
「え? どういうことですか?」
「しばらくここで寝泊まりするよ。その間に売れそうな物を片っ端から売って、最後はこの家を売りに出そう」
淡々とした口調で正人が告げると、アゲハは慌てて立つが、倦怠感から足がもつれてしまい、正人の足元にすがりつくように床に転がる。
「ま、待ってください。支払いは少しずつでもしますから。もう少しだけ待ってくれませんか?」
アゲハは正人のズボンを握るが、正人は表情こそ笑顔だが、その瞳は冷徹そのものだった。
「そうだねぇ、君が従順に従ってくれるならもう少し待つことは出来るけれど、その間僕に見返りが何もないというのもね」
正人はきょろきょろとアゲハの部屋を見渡し、ふと隣に立てかけられていた刀に気づく。
「うん、まずはこれを売るところから始めようか。あまり刀に詳しくないけれど、何もないよりはマシだ」
正人は立てかけられていた刀を拾い上げると、アゲハは両手で刀を掴み、すがった。
「母の形見なんです! これ以外は何でも売りますから、これだけは!」
悲痛な表情で訴えるアゲハに高揚感を覚えたのか、正人は口角を上げて下卑た笑みを浮かべる。
「へぇ、アサギさんの形見か。なら気が変わった。これは売らずに僕が大切に貰うとしよう」
正人も刀を離そうとせず、刀は二人に握られたままとなる。
「いいかいアゲハちゃん、君はこれから僕の言う事を従順に聞くしかなくなる。君の父親が残した不始末を君が清算するんだ。僕が踊れと言えば踊りなさい、僕が夜伽を必要とする時は君が奉仕しなさい。たかだか学生の君が、せいぜい出来ることはそんなところだ」
かたくなに手を離さないアゲハの顔面を、正人の足が蹴り、無理やり刀から引き剥がされる。
アゲハは蹴られた勢いでベッドに頭をぶつけ、意識を失いかけた。
だが、正人は容赦なくアゲハの頭を何度も踏みつけてくる。
朦朧とする視界と、高周波のような高音が頭の中で鳴り、正人が何かを言っているがうまく聞き取れなくなる。
『哀れな娘だ』
唐突に、頭の中で聞き覚えのない声が響いた、正人ではない。
――正人が握る白い鞘に収められた刀。
母アサギが遺した刀へ引き寄せられるように視界が集中する。
未だ暴力を振るわれているにも関わらず、アゲハは呆けたようにその刀を見つめる。
『君の父はただ剣術を極めることに固執し、君の母の看病もろくにせず、道場までも放って鍛錬に励み、人殺しを繰り返す。君はただ一人家を守るために身を切り裂きながら今日まで来たというのに、君の周りはお前から大切な物を奪っていく』
段々と刀から何かが語り掛けてくることに気づいたアゲハだが、続く正人の暴力によって視界は段々と暗くなっていく。
今日という日まで母が愛したこの家を必死で守ろうとし、その度に身を削ってきたが、もうこれ以上捧げられるものはない。
もうどうでも良い、このまま身を委ねて塵となり灰になれ。
あとは意識を閉ざすだけだ。
その時、先ほどの声が囁く。
『憎くはないか?』
ふと、ずっと閉ざしていた感情が、心の隙間から漏れ出た気がした。
『周りの都合に嬲られ続け、全てを奪われ、君は何も感じないのか? 今まで身を割いてきたことを全て、ないがしろにして満足か?』
ふつふつと、深層に眠る心の泉が、とある感情によって沸騰していく。
『契約だ、君に力を上げよう。代わりに我の依り代となれ。この世界を君の住みやすい世界に創り変えよう』
暗くなっていたはずの視界が、段々と明かりを取り戻していく。
だが、その明かりはどこか怪しく輝いていた。
「えぇ、分かった」
ぽつりとアゲハが呟く。
その様子に訝しんだ正人は振り上げた足を止める。
「何だって?」
正人が問い返すが、アゲハは既に刀に潜む何かを見つめる。
「ここで終わるくらいなら、私から奪う人を全て道連れにする」
『契約成立だ。では、唱えろ』
『「契約をここに」』
誰かの声と重なてアゲハが唱えると、見えない力が正人を吹き飛ばす。
正人は刀を持ったまま部屋の壁に叩きつけられ、空気の塊を吐いた。
「っ! な、なにが……」
事態に追い付いていない正人を放り、アゲハはゆっくりと立ち上がる。
するとアゲハの胸元が怪しく光り出し、柔肌の上に入れ墨のような奇妙な紋様が浮かぶ。
その紋様はまるで、影から生まれた漆黒の蝶だった。
アゲハは右手を正人が持つ刀に向けると、糸にでも引っ張られるかのように刀が真っすぐにアゲハの元へと飛ぶ。
「は?」
正人は口をぽかんと開けるが、アゲハがゆっくりと鞘から刀を抜くと、自分の状況に危機感を感じたのか、すぐに立ち上がる。
すぐ後ろには壁があり、正人は動揺した様子でアゲハに手をかざす。
「待つんだアゲハちゃん、落ち着いて。はやまってはダメだよ」
そう訴えてくる正人だが、アゲハはためらいもなく刀を振るう。
刀は正人の右手を斬り飛ばし、正人は悲鳴を上げて床に転がる。
「あ、ああぁ!」
転がる正人を見下ろし、アゲハは続けて正人の左手を刀で突きさし、床にくぎ付けにした。
「ぐっ、痛い! 痛いぃぃ! 待ってくれ、やめてくれ!」
正人は涙を流しながら訴えるが、アゲハの表情は変わらない。
「私もそうやって叫んだのに、貴方は止めなかったくせに」
静かに、だがどこか怒気をはらんだ口調でアゲハは刀を振るった。
刀は正人の喉を裂き、アゲハは返り血を浴びる。
命の灯火が消えていく様を見て、アゲハは握っていた刀を震わせる。
『奪われる側から奪う側に立った気分はどうだ?』
アゲハは語り掛けてくる刀に視線を向け、瞳に涙を浮かべる。
「最悪の気分。こんな気持ちすら持たない人間がいることも分かって、余計に腹立たしい……でも」
アゲハは空いた手を軽く振ると、床に落ちていた鞘が宙を舞い、アゲハの手元に収まる。
「この解放感は、今までにない感覚」
刀を振って血を払うと、刀を鞘に収め、アゲハは窓の外を睨む。
「今街で起こっていること、全て貴方の仕業ですか、禍虚」
『そうだ、これも全て私をこの世に顕現するための儀式』
「話を詳しく聞かせてください」
アゲハは死体となった正人へ視線を一切送ることなく、獣の祖、禍虚との対話に移る。




