失墜の蝶 p.2
朝の稽古を始めた一馬を残し、アゲハは道場を去った。
本来であれば道場主である玄寺が一馬や、以前まで通っていた門下生に指導をするべきなのだが、ここ数か月は門下生の自主練が続いており、時折一馬が入りたての門下生の指導を買って出てくれている。
アゲハはもっぱら道場全体の手入れや家の家事、会計に回っており、今日は道場の床下の修理に手を付けた後に登校する予定だ。
刀袋に入れた刀を抱えて、道場と実家を繋ぐ広い敷地を歩いていると、敷地の入り口から黒塗りの車が入ってくるのが見えた。
車が入ってくるのを見たアゲハは、大きく瞳を開き、表情が青ざめる。
玄関前で立ち止まったアゲハの目の前で車は止まった。
運転手席側の扉が開くと、高級そうなスーツを見事に着こなし、にこりとした優しい表情をした男が出てくる。
「四楓院、さん」
今度はメリッサがいないタイミングに正人が再来し、アゲハは困惑と共に、背筋に走る悪寒を感じた。
正人の希望で、正人を自宅のリビングへ案内したアゲハは、手を震わせながらお茶を出す。
正人はニコニコと笑顔を浮かべて、家の中をゆっくりと観察していた。
アゲハは正人にお茶を出した後、その迎えに座る。
「その、この前の件でいらしたのでしょうか?」
アゲハは恐る恐ると正人に聞く。
「そうだね。君達家族が滞納しているお金の件と、あぁ、明ともまだ連絡がつかなくてね」
アゲハはプレッシャーに押しつぶされそうになるのを必死に堪え、小さく握りこぶしを作る。
「……明さんとはまだ連絡が取れなくて」
血の気が失せていくのを感じながら、アゲハはどうにか口を動かす。
「そうか、まぁ明と連絡取れなくなる事は、たまにある。それじゃあ、玄寺のことだけれど、返済の件、どうしたのかな?」
恐れいていた話題にアゲハは肩を震わせ、言葉を選ぶ。
「それが、父が数か月前から家を出るようになってしまって……ここしばらく私だけでどうにか貯金を崩して、生活と道場の運営してたのですけど、貯金もほとんど無くなって……」
額に汗をかいて、アゲハは正人に伝えると、正人は笑顔を崩さず頷く。
「そうか、それは大変だったね。しかし困ったね、返済が滞るとこちらも困ってしまう」
正人はあからさまに肩をすくませるも、困っているようには見えない。
アゲハは正人が昔から苦手だった。
いつもニコニコしているが、何を考えているのか全く読めない。
だが、生前アサギが存命だった頃、正人の視線がアサギを常に追っていたことは知っている。
あの時見えた、正人の怪しい目つきをアゲハは未だ忘れずにいた。
正人へどう返答するべきか途方に暮れていると、正人は席を立ち、アゲハの後ろへ近づく。
そっと肩に両手を這わせ、少しずつ指先が胸元の柔肌へ伸びてくる。
「玄寺も酷いな。アサギさんの忘れ形見の君を放って家を出るなんて」
両の手が蛇のようにアゲハの肩と胸元を這う。
酷い嫌悪感と羞恥心に苛まれるが、アゲハは必死に耐える。
「残りたったの三百万なのだけど、どうしたものかな」
何かを口にしようと動かすも、うまく紡げない。
ただの言い訳でも良い、それでも言葉を繋ぎ、生成し、喉を鳴らす。
「あ、あの、私もどうしたら良いか、分からなくて、その……」
しどろもどろに言うアゲハとは対照的に、正人は吊り上がった口角を更に上げた。
「私としては利息分だけでも払えると嬉しいんだけど。そうだね、一度君の部屋を覗いても良いかな。もしかしたら売れば足しになる物があるかもしれない」
あくまで優しい口調を保つ正人だが、その両手と視線に熱が籠っていることにアゲハは気づいていた。
アゲハの部屋へ案内すると、正人はきょろきょろと部屋を物色する。
とくに何か変わった物があるわけではなく、強いて言うなら袋に入ったままの刀が箪笥の横に立てかけているくらいだ。
正人の来訪に慌てて刀を置いたこともあり、片付け損ねていた。
一通り見た正人は溜息をつき、おもむろに困った表情を見せる。
「どうも目ぼしい物はなさそうだけれど、どうしたものかな」
正人はそう言いながら、ゆっくりとアゲハの頬に触れる。
アゲハはびくりと飛び上がりそうになるが、スカートを両手で握って必死に堪える。
無言で距離を縮めようとする正人にアゲハは自然と後ずさる。
だが、何かに足をぶつけて倒れると、アゲハを部屋のベッドが迎える。
それを追って正人はアゲハの上にまたがり、しっかりと締めていたネクタイを片手で緩め、空いた手でアゲハの髪を指で絡め取る。
「分かるよねアゲハちゃん、私も困っている身なんだ。何かしらの形で返してもらえる物は欲しいんだよ」
正人の言葉はしかし、アゲハには届いていなかった。
アゲハの視線は部屋の窓から見える蜘蛛の巣に向けられていた。
ちょうど蜘蛛の巣にひらひらと飛んでいた蝶が捕まり、早速蜘蛛が蝶へ向かって歩いていく。
「いやぁ、本当に、アサギさんにそっくりだよ、アゲハちゃん」
アゲハの視線を塞ぐように正人の顔が飛び込んでくると、そのまま正人の身体がアゲハを覆いかぶさる。
蜘蛛に絡められた蝶は毒牙に刺され、その身を貪られるがままとなる。




