第二話「命の宝石」
石畳の道は私にとって歩きづらかった。
霞がかった街並みに、まだ顔を出さない朝日が差して美しい朝焼けとなる。赤いレンガの街並みが一層赤を強くしている。
ロンドンの街はまだ起きていなかった。赤い二階建てバスもまだ運行していない。
しかし、通りを大勢の黒い服を着た人達が走っていた。この格好は間違いなく警察である。
表通りを堂々と歩いていた私はその人達が煩わしかったので、裏路地を歩くことにした。
しばらく歩いていると、上空から人が・・・なんと落ちてきた。
ドサッッ!
私はとっさにその場から一歩飛び退き、低い体勢をとった。
「いてててて・・・」
見事に着地を失敗した人間は二十代半ばあたりで冴えない顔の男だった。そして私と目が合う。
「ん?黒猫か。・・・これは逆にツイてるかもな」
男はそう言いながら、近くの物陰に身を縮めた。隠れているようだ。
黒猫を見てツイてるとは妙である。
「ほら、お前こっちこい。ご飯やるよ」
ポケットの中からパンを取り出して手招きをしながら言う。
私は特にお腹が空いていたわけではなかったが、この男に興味が湧いたので頂くことにした。
パンを頬張る私を見て男が呟く。
「こっちの方にお巡りが来たら、ミャーって鳴いてくれないか?」
どうやらこのパンは取引の材料だったらしい。猫との。
猫にそんなことをお願いするなんてよっぽど追い込まれている状況なんだなと私は思い、無言で快諾することにした。
この男は間違いなく警察に追われている。
「さっき、こっちの方で物音がしたぞ!」
若い警官の声。
どうやら仕事の時が来たらしい。私は出来るだけ野良猫っぽく品のない低い声でミャーと鳴いた。
男は本当にやってくれるとは思わなかったのか、自分の目をまん丸にして私を凝視していた。
数時間後、警察の気配がなくなると男は動いた。
「お前すごいな、本当にツイてやがった。もっと飯を食わせてやるから俺の家に来い」
そう言って私を抱き上げて、猫でも迷子になる裏路地を通って男の家に戻った。
もう朝日が昇り、すでに霧は晴れ渡っていた。
男の家は裏路地から入る三階建ての怪しげなアパートだった。
部屋は意外と綺麗、というか物がなくてさっぱりと綺麗だった。四角い部屋の隅にベッドが一つあるだけで、広い部屋に感じたが、実際はそうでもなかった。
むしろ、こんなさっぱりした部屋で、本当にご飯をくれるのかが心配になってきたくらいだ。
「ちょっと待ってろ。このベッドの下に色々とお宝があるから」
そう言ってベッドの下から取り出したのは、ベーコンだった。そしてフライパン。
それらを玄関の横にあるキッチン、もといコンロが置いてあるだけの所に持っていく。
部屋の中に肉の香りが漂った。
さらにベッドの下にあったお皿を取り出して、男はこんがりと焼けたベーコンをお皿に乗せる。
「ご馳走だろう?」
私は特にグルメな猫ではないのでコレでも構わないのだが、コレがご馳走だとは微塵も思わなかった。
しかし食べてみると、まさかベッドの下にあったものとは思えないほどおいしかったので、コレをご馳走と認定してもいいかなと密かに思った。
「俺はね、実は泥棒なんだ」
男がおもむろに話し始める。私はわかっていた。警察に追われるほどのコトといえば、殺人か窃盗、もしくは誘拐だ。それも、あの警官の量から言って半端なものを盗んだわけがない。恐らく高価な宝石やらアクセサリーの類だろう。
私はロンドンという街をよく知っている。何故なら、私の住んでいた屋敷に最も近い大都市だからである。
この街は高価な物で溢れかえっている。そのため、窃盗などの事件が頻繁にあるのだ。
「俺は一つの宝石を盗んだ」
そう言うとポケットから袋を取り出して、中身を取り出す。
私の目の色と同じ色の宝石。
透き通っていそうで透き通っていない。全てを吸い込んでしまいそうなほどのプレッシャー。これは『命の宝石』と呼ばれるエメラルドだ。
「この宝石はな、なんでも一つだけ願いを叶えてくれるっていう魔法の宝石なんだ」
男の表情は笑っている。しかし、どことなく猛烈なプレッシャーを感じているような引きつった笑顔だった。
「願いを叶える代償として、自分の命を捧げなければいけないってのが困ったものなんだがな」
その通りである。この宝石は魔法使いなら誰でも知っている邪悪な魔法の掛かった代物だ。
「俺にはな、たった一人だけ家族がいるんだ」
男が一呼吸、間を取る。そして猫にむかって真剣に話始めた。
「妹なんだけどな、医者からは恐らくもう治らないと言われている病気なんだ。もちろん、手術をすれば治る可能性もある。しかし、俺たちにそんな金はねぇんだよ。あいつは生まれてこのかたまともな生活というのを体験してない。ショッピングすらしたことがないんだ」
近くのビッグベンの鐘が響き渡る。
「だから、俺は死んでもいいから妹を助けてやりたくてな。それでこの宝石を盗んだんだ」
良い話だ。人間だからこそ的な考え方だが、私は嫌いじゃない。
「もう一つ、俺はやらないといけないことがある」
男は窓から見えるビッグベンの時計を見つめる。
「今夜、俺は町外れの大きな図書館の警備の仕事があるんだ。仕事のパトロール中に、ある本からこの宝石についてを調べなければならない。この宝石を使うには呪文が必要なんだ。だからそれを見つけださなければならない。もちろんこの宝石を使ったからって、本当に願いが叶う保証はどこにもないんだけどな」
何か魔法の掛かった道具というのは、呪文をきっかけにその魔法が発動するパターンというのが多い。このエメラルドもその一つなのだろう。
男が再び私を見る。
「何かの縁だ。もし良かったら手伝ってくれねぇか?」
普通の人間が猫にここまで本気でお願いするとはおもしろい。
恐らく本人は願掛けのつもりなのだろう。私はその言葉に答えてミヤァと甘い声で鳴いた。
ビックベンの時計はあと一分で正午を指そうとしていた。
街の郊外にその病院はあった。いたって普通の病院だが、どちらかと言えば診療所と言った方が正しい気もする。
男は私にこの部屋で待ってろとだけ言って、部屋の外に出て行ってしまった。
私は当然大人しくしているはずもなく、開いていた窓から外に飛び出し、男の後を尾けていくことにした。
男はその病院に入っていく。
私はさすがに病院ということで、衛生的に入るのが申し訳なかったので外からまわり、男の声を探した。すると、病院の一階の一番奥の部屋から男の声がした。
「具合はどうだ?」
恐らく妹に話し掛けているのだろう。
私は窓の外から様子を覗う。
「うん、大丈夫だよ。お兄ちゃんが毎日来てくれるから、調子いいよ」
妹は全身真っ白な肌をしていて、年齢はおよそ十代半ば。ちょうど男と十歳くらいの年の差がありそうな感じだ。そして男とは比べ物にならないくらい綺麗な顔をしている。
「あのな、お兄ちゃんが絶対にリウを治してやるからな!」
男は改まった表情で妹、もといリウに言う。その表情はどこか強張っているようにも見えた。
「お兄ちゃん、お願いだから無理しないでね?お願いだから・・・」
リウの目には薄らと涙が滲んでいた。
「リウスターチさん、体温を測る時間ですよ」
空気を壊すように看護婦が入ってくる。
「それじゃあ、今日はこれで帰るな」
男はもう一度リウの顔を、まるでその目に焼き付けるように見つめてから、病院をあとにした。
男は警備員の姿をしていた。
そして図書館内のパトロールしていた。
私は暗い館内に身を隠しながら男を見ていた。
男は本を粗方絞り込んでいたらしく、ある一冊の本を迷わずに本棚から抜き出して、懐中電灯で照らした。
「我、我の全てを捧げて願う。その邪悪なエメラルドに誓って・・・」
男が呟く。
呪文というにはあまりに粗雑なものだと私は感じた。
男はもう一度復唱してから本を元の場所へ戻した、その時だった。
ジリリリッリリリリリッリリ!!!!!
館内に鳴り響く警報装置。
他の警備員たちが現場へと急ぐ足音がする。
一体どんな仕掛けで警報が鳴ったのかわからずに男は焦っていたが、私が一声ミャーと力強く鳴くと、
「すまない、任せた!」
と言って警備員と鉢合わせにならないように別のルートで逃げて行った。
私はやれやれと思い、その本のある本棚の目の前に座り込んだ。
1分もしない内に他の警備員達がやってきた。
私は懐中電灯に照らされてその姿を現した。
「なんだよ、猫か。ったく、人騒がせだな」
警備員達は怒りの目で私を見る。
私は男達の目を見つめた。このエメラルドの瞳で。
すると男達の動きは止まり、まるでこの空間の時間だけが止まってしまったかのように、その場が凍り付いてしまった。
私はその間に現場から離れ、男を追った。
警備員達にはほんの少しの間、止まっていてもらうことにしたのだ。
私が急いで男の家に戻ると、男はすでにエメラルドの宝石と睨めっこをして床に座っていた。
男が人生を賭けようとしている瞬間だった。
窓の外のライトアップされたビッグベンの短針は、ちょうど12と1の真ん中にあった。
「これで、いいんだよな?」
私にむかって言う。私はその場に座り込んで男を観察していた。
「よし」
男は一度とても深い深呼吸をしてから、手にもっているエメラルドの宝石を睨む。
「我、我の全てを捧げて願う。その邪悪なエメラルドに誓って・・・俺の妹、リウスターチの病を・・・命を助けてください!」
エメラルドの宝石が一度だけ鋭く光った。
私はその光を何故だか眩しく感じなかった。
男は未だ、手にエメラルドの宝石を持って座りこんでいた。男の顔は放心状態だ。
「お、俺、死んでないぞ?おい、俺死んでないぞ!!」
男は歓喜の雄叫びを上げて私を抱き上げる。
そして、走り出した。病院へと。
この時、私は嫌な予感がしてならなかった。
病院に着いた男は、外からまわってリウの病室の窓を叩く。
「ん、なにかしら」
寝ていたリウは窓の外にいる笑顔の自分の兄に気付いた。そして窓を開く。
「どうしたの?こんな遅くに」
男は窓を乗り越えて病室の中へ入る。
「リウ、調子はどうだ?」
笑顔を絶やさずに訊く。
「え?あ、そういえばすごく楽かもしれないわ」
男はリウを強く抱きしめた。
「もう、大丈夫だよ!お前は助かったんだ!」
「お、お兄ちゃん?」
リウは不思議そうな顔をして抱きしめられている。
そして力強く言う男の言葉は震えていた。
「もう、普通の生活をできるんだ!ショッピングだって、レストランの食事だって、普通の散歩だって・・・」
バタン!!
男の言葉が終わる前に病室のドアが勢い良く開かれた。
バンッバンバンッ!!!!!
そこには拳銃を構えた警察が数名立っていた。その銃口からはすでに煙が立っている。
男の背中からはまるで小さな運河のように血が流れ出していた。
「えっ?え?え?え?え?」
リウは訳がわからなくなっていた。目の前で起きた現実が理解できていなかった。
男は撃たれた。
これをどこかで予想していたのかもしれない。窓の外で見ていた私は思う。
男が倒れると同時にリウの叫びが病院中に激しく木霊する。
これで、男の望み通りになった。『命の宝石』を使った代償。
『命の宝石』は、使ったものの望みが叶ったのを、使った本人が認識した時点で、自然に死を与える。
倒れている男の顔は笑っていた。幸せそうに・・・。
あの時私は何が起きたのかわからなかった。
目の前でお兄ちゃんが撃たれた。そして倒れた。
「お兄さんなんだけどね、高価な宝石を窃盗してね。それで、気の毒だけど指名手配になってたんだ。それに街外れの図書館での不審な行動。警察としては、捕らえたかったんだが、君を抱きしめている姿が、我々には彼が君を襲っている姿にしか見えなくてね。だから撃ったんだ」
少し太った警察のおじさんが話してくれた。ちょっと言い訳がましくて、私は聞きたくなかったけれど、事実を知る義務がある私はしょうがなく聞いていた。
それまで病院の外にあまり出たことのなかった私はそんなことになっていたとは微塵も知らなかった。
あの夜以来、私の体の調子は良くなり、なんと病気が治ってしまった。医者は奇跡だと言って騒いでいたけれど、私はきっとお兄ちゃんが治してくれたんだと信じている。あんなことがあって、今でも精神的に辛いのは確かだけど。
もう1つ、あの夜、私が絶叫し終わった頃に猫の鳴き声が聞こえた。パニック状態の私にもなぜだかその声だけは耳に届いた。まるでお兄ちゃんを弔っているような、そんな感じの寂しい鳴き声だった。
私はこれからについて考えた。
私はこれまでずっとお兄ちゃんの迷惑になりたくないと思って生きてきた。私の所為でお兄ちゃんが辛い思いをするのが嫌だった。
なんで、死んでしまったの?私のせい?お兄ちゃん・・・。
でも・・・起きてしまった事を後悔している場合じゃないのはわかってる。
せっかくお兄ちゃんが生かしてくれた命だから、大切に、そして有効に使っていこう。病院にいた頃、ずっと看護婦という仕事に憧れていた。というか、看護婦という仕事しか知らなかったというのも1つである。お医者様は嫌いだったし。
私はその小さくて世間知らずな夢を叶えようと思う。お兄ちゃんのために。そして、これから失われようとしている尊い命のために・・・。