存在の肯定
「分我羅者」自体が自作小説のキャラ名に
それらしい漢字を探す中で組まれた感じも
あるのです。「存在の肯定」は派生キャラ、
適当なダジャレが始まりでしたが、コレは
存外、的を射ています。「自身の存在」が
「虚無、無価値、低価格」と感じるコトが
「存在の否定=恐怖」として、悩んでいる
ヒトは「自己の存在を保証してくれるモノ」
例えば「信仰」「社会的評価」や、悩みを
「感じ無いこと」にしてくれる「薬物」に
救いを求めるのだろう。「救い」は絶対の
真実でなくてはならない。自分を預ける
足場がグラついては堪らない。この世の
あらゆる事象は変化します。自分自身さえ
昨日まで「ハンバーグ信者」だったのが、
今日は「カレー教徒」かも。だから、まず
絶対に揺るがない事実、「ここに在る」を
起点にしましょう。「ここに在る自身」は
「この世界の中で出会った体験や知識や
考え方に影響されて、なお現在進行形で
変わっていく」変化の舞台は自身の中と外、
つまり「この世界そのもの」。では「世界」
とは如何なるモノなのか?
「ただ、そこに在る」
時間も空間も「間」の字がついた時点で
永遠無限の存在という本当の姿をから離れて
しまっているが、私達の存在は「永遠無限」
の世界の一部であることを第一に据えれば、
既成の「値打ち付け式の価値観」なんぞに
惑わされず自分自身で「自身の存在」を保証
してやれるでしょう。
「細かいコトぬかすな!こちとら永遠無限の
身内のモンやぞ」っと。
「ただ、在る様に在る」
それを認め、存続させるコト。生き物ならば
生存環境を整え、維持するコト。守り育てる。
それってつまり「愛だろ、愛!」
イルカイザーの相方「交叉刀王」は、「クロストーキング」が起源です。「黒ストッキング」じゃないですよ。






