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五十五ページ目

 階段を下りていくごとに壁や天井を飾る奇妙な装飾が増えていく。それらは建材に直接彫り込まれているわけではなく、後から作られたものが取り付けられているようだ。すべての飾りは真っ黒に染められており、見たところ柔らかい素材で制作されている。興味本位で義手をはめた左手で触れてみると、指先を押し返す柔らかな弾力を感じるが、完全に崩れるということはないようだ。その後に指先を確認すると、ちょうど塗料を指で擦った時のようなインクの染みができている。普段ならば特に気にすることもないのだが、先ほど給仕係に渡されたドリンクの件もある。念のため、と義手ごとインクの染みを全書で確認してみた。


――――――――――

【黒墨翁の粘墨】

分類:液体・魔水

詳細:歴時纏いし(ヒムワウル・)染風の(ダンド・)黒墨竜(ブークノン)のが生成した体液を材料に作られた特殊なインク。生成者の意思により自在に形状を変えるインクは、強度こそ低いが生物を緩やかに侵す毒性も併せ持つ。

―――――――――


 やはり録でもないものだったので、ゲレンに壁には触れないように警告しつつ先へ進む。【黒墨翁の粘墨】で作られた装飾は次第にその種類と数を増していき、階段の底にたどり着くころには壁一面を覆うほどになっていた。階段の先には木製の扉が一枚だけ置かれており、金属でできたドアノブはやはり黒いインクに塗れている。

 直接触ればどうなるかわからないので、ここは少女アンデッドに扉を開けてもらう。インクで手が汚れることに対して文句を言っていたが、それを客にやらせようとするのもどうなのだろうか。あまりにも手が汚れることを嘆くので、全書から出したハンカチを渡してから扉をくぐる。

 地下室の中はまるで舞台場のような作りになっていた。部屋の三方の縁には堀のような溝が彫られており、そこにはやはり黒いインクがなみなみと湛えられている。一段高くなった部屋の中央には空の盃のようなものが置かれているが、それを満たすにはいったどれほどの酒が必要なのかと問いたくなるほどに大きい。盃と対面するようにして机が一つ、椅子が二つ置かれており、二体のアンデッドたちにより二人してそこに座るように促される。一応確認したところ椅子にはインクはついていないようなので安心して腰を下ろすと、簀巻きアンデッドが体に巻き付いた紐を手のように操作して、机の上に置いてあったベルを鳴らした。

 ベルの音が鳴り響くと同時に、この部屋まで案内してくれたインクの手が部屋の奥の堀に飛び込んだ。さらにその手が飛び込んだ地点のインクが隆起し、水柱が立ったかと思うと、弧を描いて盃の中に流れ込む。インクはしぶきを上げて盃内で嵩を増していくが、そのしぶきは盃に収まることはないまま不自然に中空を漂い続ける。ついには蛇を思わせる全身を構築した黒いしぶきは、やはり周囲のインクにより作られた羽織のような着衣を身にまとい、椅子に座ったままのこちらを見下ろした。蛇と鰐を掛け合わせたかのような顔には牙をのぞかせる巨大な口が備わっており、さらに金属のような光沢を放つ二本の剛角が頭頂部から伸びている。その眼光は鋭く、常に流動している白と黒のインクでできているようだ。節くれだった両腕が盃の縁にかけられているが、指の先端から生えた鋭い爪は並みの剣を超える切れ味がありそうだ。


 突如眼前に現れたすさまじい威圧感を誇る竜に思わず身構えるが、開かれた口から響くのは先ほどダンスホールで耳にした謎の声だ。どうやらここまで導いてきたのは目の前の竜であったらしい。おそらくは、これが全書の記載にあった歴時纏いし(ヒムワウル・)染風の(ダンド・)黒墨竜(ブークノン)なのだろう。

 黒墨竜の口から響いてくるのは、滔々と流れる愚痴だった。やれ人の敷地内で勝手に馬車を使うなだの、やれ出されたドリンクは大人しく飲めだの、やれ最近の人間はマナーがなってないだの、よくもまあそれほど舌が回るものだと感心するほどに小言は続く。その中で分かったが、この黒墨竜こそが今回の商談相手である"ヘメンディレス輝公爵"のようだ。ヘメンディレスのみならず、高位の貴族たちはその容姿すらも情報としてはあまり流れていないため、こうして直接出会うまで正体すら窺い知ることができなかったのだ。

 目の前の竜の正体が分かったのはいいのだが、その後もヘメンディレスの小言が止まる兆しはない。日暮れまで寝ていたにもかかわらずまたしても睡魔に襲われそうになったころ、業を煮やしたゲレンが商談を始めようと話を遮った。それが気に食わなかったのか、黒と白のインクでできた眼球でヘメンディレスがゲレンを睨みつけるが、さすがに小言も満足したらしく、大人しくこちらの話を聞く気になったようだ。くつろぐように盃の中で姿勢を低くし、商談を始めるように促してきた。


 こうなってしまえばあとはゲレンの仕事だ。こちらと盃の間に置いてある机は大人数用の食卓ほどのサイズはあるので、事前に見せる予定だった商品を並べていく。華美すぎずも美麗な装飾で最近人気を集めているガラス職人、”ドルミル”製のガラス食器や貴族のご令嬢たちに大人気の希少な香水、レナが商人仲間の伝手で集めた貴重な古書が数冊など、他にも彼らが今集めることができる最高級の物品を前に、ゲレンが慣れた様子で商品の説明をしていく。

 それを聞く少女アンデッドは非常に良いリアクションを返してくれるのだが、どうにもヘメンディレスはあまり興味を持っていないようだ。特に口を挟まれることもなく説明を終えたゲレンがへメンディレスの返答を待つが、当の竜はなぜか商品に向けていたまなざしをこちらに移してくる。


 数多の商品を前にしてヘメンディレスは自らが欲するものについて語り始めるが、それはゲレンが説明した商品には含まれないものだった。それもそのはず、ヘメンディレスが求める商品とは、しばらく前に緑人(エルフ)の大森林で手に入れた【御霊(ミタマ)】だったのだ。森を出てから一度も全書から出していない【御霊(ミタマ)】の存在をいかにして知りえたのか、そしてなぜ【御霊(ミタマ)】を欲するのか。不可解な要素が多すぎるが、その言葉でようやくこの屋敷に招待された理由の合点がいった。

 レナたちが営む”サイフォース”はいかに人気が出ているといっても、グリッサムの中ではまだまだ新興商店の一つに過ぎない。最近は貴族相手の商売も増えてきているが、高位貴族が求めるものを用意できるかと言われればまだ厳しいというのが本音だろう。そんなぽっと出の商人をわざわざ自分の屋敷に招待するなど破格といってもよい待遇だったのだが、十中八九この交渉を直接したかった故だろう。

 力づくで奪いに来ないあたり、【御霊(ミタマ)】は全書に仕舞ってあることも分かっていると思われる。全書の能力がすべてばれているとは思えないが、全書を奪おうという気もないようなので、今のところは平和的な交渉を望んでいるらしい。


 さて、相手の要求はわかったが、はいそうですかとただ渡す理由もない。ここはゲレンには悪いが、商談とは別にヘメンディレスとの取引をすることにしよう。こちらが望むものはもちろんスキラートから依頼されている【命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】だ。普通に考えれば【命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】がここにあることを知っているのはおかしいのだが、こちらの情報が筒抜けなことを鑑みるに大方ヘメンディレスも情報屋の”ネズミ”とつながっているとみて間違いない。

 もしかすると、ネズミがあっさりと【命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】の情報を渡したのも、ヘメンディレスの指示があってのことだったかもしれない。こちらの目的である魔本を餌に、自分が欲する物品の所有者を見事に釣り上げたわけだ。

 要求を告げたヘメンディレスの顔は歪んだにやけ面に変わっているが、あの表情には非常に覚えがある。あと少しで自分が求める物が手に入るということを確信している、物欲に塗れたいい笑顔だ。


 要求されている物品は、確かに今も全書の中に保管している。さらに言うとまだ適切な使用用途を見つけることもできていないので、全書の肥やしになっているのだが、【御霊(ミタマ)】が値段をつけれないほど貴重な物品であることに変わりはない。【命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】とどちらが貴重なのかは推し量ることしかできないが、平常時であれば十分交渉をする余地があるだろう。

 だが、今いるのは交渉相手の本拠地だ。ここまでの道中でも毒薬じみたものを飲ませてこちらを操ろうとしたりなど、目的のものを手に入れるためならばどんな手段をとることも辞さないことが伺える。そんな相手であるのだから、とりあえずは大人しく【御霊(ミタマ)】と【命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】を交換することを申し出た。

 こちらの要求も予想していたのだろう。ヘメンディレスは【命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】など名前も聞いたことがないと嘯くが、それならばこちらも【御霊(ミタマ)】を全書から出さないだけだ。向こうが力づくで襲ってきても、ここから脱出するくらいなら手持ちのコレクションを総動員すれば何とかなるはずだ。そのことをほのめかすと、細長い顔に器用に渋面を浮かべながらヘメンディレスが熟考する。そして、数分の長考の末、ヘメンディレスは背後の堀からインクの球体を生み出した。こちらの目の前まで浮遊してきた黒い水球が弾けると、その中から全書を思わせる白い革表紙で綴じられた一冊の本が現れた。

 全書とは異なり金での装飾がされており、表紙には『命が分かち、死は巡る』という詩のような文章が書かれている。スキラートから聞いていた特徴と一致することから、これが求めていた【命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】で間違いないだろう。

 存外あっさりとこちらの要求を呑んできたかと思ったが、どうやらあちらは思ったよりもがめつかったようだ。

 ヘメンディレスは取引の対価として、【御霊(ミタマ)】に加えて、こともあろうに全書を寄こすように要求してきたのである。一転して到底頷くことはできない取引となったが、ヘメンディレスも引く気はないらしい。このままでは取引自体がなかったことになりかけるが、それもそれで困るのである勝負を持ち掛けてみた。

 勝負の内容は単純明快、こちらの手の中にある全書をヘメンディレスが直接手に取って奪うことができれば彼の要求に従った取引を行う、というものだ。それを聞いたヘメンディレスは呵々大笑した後に全書に向かって飛び掛かってくるが、伸ばした手から飛び散ったインクが一滴全書に付着した瞬間、ヘメンディレスは唐突にその動きを止める。それを見るゲレンと少女アンデッドが状況を飲み込めず驚愕しているが、これは以前に全書に他の者が触れた際に起きた現象と同じだ。前は恩知らずのエルフが全書を奪おうとした際に同じく全身を硬直させていたが、アンデッドが触れた場合でも同じ現象が起きることは実は確認済みだった。


 ピクリとも動かないヘメンディレスから全書を離せば、再び自由となった竜が間抜けな顔をしてこちらを見つめる。その後三度同じことを繰り返した後、ヘメンディレスはついに諦めたらしい。宙に浮いていた【命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】が目の前の机に着地したため、こちらも全書から【御霊(ミタマ)】を取り出して机の上に置く。そして、各々が目的の物品を手にすることで、ようやく面倒な取引は終わりを告げた。ヘメンディレスの目的はやはり最初から【御霊(ミタマ)】だけだったようで、わざわざゲレンが売り込んだ商品たちは、一切触れられないまま全書へと回収される。

 さらに目的が達成できれば客のことなどどうでもいいらしく、案内すらつけずにあとは勝手に帰れと言ってきた。帰り道は分かっているので別にいいのだが、屋敷を訪れてから徹頭徹尾ないがしろに扱われているようでいい気はしない。こちらとしても目的の物品は手に入ったので、さっさと屋敷を後にすることにした。商品の売り込みができなかったのでレナやゲレンには悪いが、これ以上粘っても得をすることはなさそうなのでしょうがないだろう。


 帰りの道中でゲレンが【御霊(ミタマ)】について尋ねてきたため手に入れた際のあれこれを伝えたところ、貴重な物品を手放したことについて心配の声をかけてきたが、実はこちらの損はほとんどない。というのも、【御霊(ミタマ)】はすでに全書で生成ができるようになっているのだ。


――――――――――

御霊(ミタマ)】を生成します

以下の物品を消費する必要があります

魔物素材・魂魄 210%/100%

瘴気 550%/100%

生成を行いますか?【はい/いいえ】

――――――――――


 これは全書の機能の一つなのだが、一度全書に収納された物品で生成が可能なものについては、生成に必要な素材の所持にかかわらず生成方法が完全に開示されるのだ。生成を行うには大量の魂魄素材と【瘴気】が必要となるが、複製が可能であるならばそれほど手痛い代償でもない。【御霊(ミタマ)】が生成できることは誰にも伝えないほうが今後有利に働きそうなのでゲレンにもそのことは伏せておくことにするが、特段彼が心配するほどの損害があったわけでもなかった。そういう訳で、今回の取引自体はこちらに損がほとんどないまま、大成功に近い結果で終わりを迎えたのだった。

御霊(ミタマ)】:異譚~ベンゼラーの義務~初登場

命廻死巡之異文書(ネイレパスオレア)・序巻】:五十三ページ目初登場


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