五十四ページ目
冷たい空気が鼻腔を通る感覚が、揺蕩っていた意識を肉体へと戻した。目を覚ますと、ガラス壁の向こうに見える景色はすでに薄暗くなっている。
サロンに来て紅茶に舌鼓を打ちつつ、全書から久しぶりに【骨人形・庭師】と【骨人形・調理師】を出して少女アンデッドとコミュニケーションをとらせていたのだが、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたようだ。
確かに最近はレナの店-サイフォース-の運営を手伝ったりコレクション集めに励んだりと寝る間を惜しんで行動していたのだが、さすがに訪問した客の屋敷で眠りこけるのは自分でもどうかと思う。
さらに言うとそうして眠った客、あるいは主人を起こしてほしかったところだが、不思議なことに目を覚ました時にはサロンにいるのは自分だけであった。明かりこそ壁や天井にもともと設置されていた【光幽水】により十分な量が確保されているが、無機質な光に照らされたサロンはどこか寒々しい空気で満ちている。物音ひとつしない室内では呼吸の音すら反響するようだが、目覚めたからにはひとまず腰かけていたソファから立ち上がった。
あたりを見回してもやはり室内に人影はない。勝手に屋敷をうろつくのは気が引けるが、かといってこのままここで待っていてもしょうがないので、とりあえず入ってきた扉から廊下に出てみる。部屋の外にもやはり誰もいないが、廊下はサロンより一層薄暗く、【光幽水】から発せられる光も窓の向こうの暗闇に吸い込まれているようだ。暗がりの向こうに続く廊下を進んでいると、かつて死に体でさ迷った”アベイル砦”を思い出す。砦を探索していた際には襲い来る魔物たちを撃退するために自動人形たちに周囲を守らせていたが、今いるのは仮にも上級貴族の屋敷だ。いくら気味が悪かろうとも、さすがに身の安全を心配する必要はないだろう。
まず目指すべきはゲレンを待たせている客室だ。だが、客室からサロンまでの道のりはかなり長く、さらに入り組んでいるとは言わないものの、道中には複数箇所の分かれ道もある。大雑把な方向は分かっているが、しばらくは適当な道を進むことになりそうである。
それに進んでいればそのうち屋敷の使用人なりに会えるはずだ。そう思って歩を進め始めたが、最初の曲がり角を迎える前に一体の外法遺骸と遭遇した。おそらくはアンデッドなのだと思うが、その姿はこれまで見たそれの中でも一層奇怪だ。ぱっと見は麻布で簀巻きにされて項垂れている何者かにしか見えないのだが、麻布は黒く艶のある質感の紐で縛られており、不明な力で浮遊している。布の先端が垂れているため中に入った何者かの顔は見えないが、時折黒い液体が布の中から滴り、落ちる雫はやはり不明な力で紐に吸い寄せられているようだ。
アンデッドの近くには二つのランタンが浮いており辺りを煌々と照らしているが、その見た目と相まって不気味なことこの上ない。そんな簀巻きアンデッドは無言のままこちらに近づいてくると、目の前で立ち止まった。さらに布を縛る紐の一本がほつれたかと思うと、通路の先を指し示し、アンデッドが再び動き出す。数秒ほどその場で様子を見ていたが、少し進んだアンデッドはまたしても動きを止めるとこちらの方に振り向いた。どうやらついて来いということらしい。
昼間の少女アンデッドと比べるとずいぶん愛想が悪いが、道案内をしてくれるということはこのアンデッドも屋敷の使用人の一人なのだろう。いなくなった【骨人形・庭師】と【骨人形・調理師】の居所も気になるが、それはもう少し話の通じそうなアンデッドとあってから確認することにしよう。
試しに簀巻きアンデッドに声をかけてみるが、やはり返答はない。アンデッドなのだから別に不思議なこともないのだが、呼吸音すらも聞こえないため、確かに見えてはいるはずなのに実際にはそこにいないような違和感がある。会話がないだけで来た時よりもずいぶんと長く感じる道のりを進んでいると、アンデッドが大きな扉の前で立ち止まった。先ほどまでいたサロンの入口と同じような扉をアンデッドに促されながらくぐると、そこは広いダンスホールのようだった。
例にもれず薄暗いダンスホール中央に進むと、どこからともなく老人を思わせる低い声が響いてくる。歓迎の挨拶から始まった演説が宴の開始を告げると、床から立ち昇るようにして二種類のアンデッドたちが現れた。一種類は黒い液体で輪郭が縁どられたゴースト、そしてもう片方は全身が黒い液体でできた人型の粘体とも呼べそうな何かだ。それらはお互いに手を取り合うと、ペアを作ってその場で踊り始めた。できたペアはおよそ三十組ほど、それらはいつの間にか流れ始めた音楽に乗って、軽快なステップを踏んでいる。
突然始まったダンスパーティーだが、あいにく何とも知れない相方と踊る趣味はない。ダンスを楽しむよりはさっさとゲレンと合流したいのだが、声の主曰くゲレンも今この会場に向かっている途中らしいので、ここで待っているのがよさそうだ。ゲレンが来るまで、ダンスの邪魔にならないように壁際で待っていることにしたが、給仕係であろうゴーストが液体が入ったグラスを運んできた。グラスは飲用であろう真っ黒な液体で満たされているが、お世辞にも体によさそうな見た目ではない。飲む飲まないはこちらの自由なので、受け取ったグラスをそのまま全書で回収してみる。
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【カクテルグラス・ウェノーマ】
分類:食器・グラス
等級:D
詳細:グリッサムの高いガラス精製技術を用いて作られたグラス。貴族たちの間で長年好んで使用されている。
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【黒墨翁の墨酒】
分類:液体・魔薬
詳細:齢を重ねた黒墨竜の体内で作られた魔墨が混ぜられたカクテル。主の周囲一定範囲内であれば自在に操ることができる。
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安全だとたかをくくっていたのだが、どうやら認識が甘すぎたらしい。あわや謎の魔物の体液を飲まされるところだったことに加えて、その液体は黒墨翁とやらが自由に操作できるらしい。これを飲んでからその主のもとに行けば一体どんな目に合うのか、想像は難くないだろう。
魔境などのように魔物が正面切って襲ってくるようなことはないが、こういった遠回しに危害を加えてこようとする相手もなかなかに厄介だ。さらにたちが悪いことに全書がなければこの液体の正体も分からないままだっただろう。今後正体不明のものを出されたら、とりあえず全書で無害かどうかを確かめるようにしたほうがよさそうだ。
こちらが出された飲料の危険性に気づいたからか、以降は給仕係がドリンクを配膳してくることもなくなった。自分たちの狙いが外れたことは分かっているはずだがゴーストたちはいまだ踊り続けており、特に危害を加えてくることもなさそうである。あまりにも状況が読めなさすぎるので、こちらから行動を起こすわけにもいかない。やはり今は待つことしかできないだろう。
いつの間にか給仕係たちが近くに軽食を用意しているが、当然そのまま口をつけるはずもない。先ほどの飲料と同じくいったん全書で回収して中身を確認するが、今度は特に有害なものが混ぜられていることはなかった。考えてみれば昼頃にこの屋敷を訪れてからまだまともな食事をしていない。なので、安全と分かった食べ物は遠慮せずに食べるか全書に仕舞わせてもらう。一瞬にして空になったテーブルを見た給仕係たちが慌てて食事を補充しに来るが、どうせ金をとられるわけでもないのだ。補充されたものをかたっぱしから頂いていく。
そんなことを十分ほど続けていると、部屋の入口のほうから声がかけられる。聞き覚えのある声に振り向いた先にいるのは、少女アンデッドに連れられたゲレンと【骨人形・庭師】、【骨人形・調理師】たちだ。どうやらサロンで転寝をしていた間に、少女アンデッドたちは先にゲレンに合流していたようだ。どうせ合流するなら起こしてほしかったところだが、少女アンデッドが言うにはあまりにも気持ちよさそうに寝ていたので起こすことが憚れたらしい。余計な気を使われたたような気もするが、彼女なりの善意なのだろうからあまり責めないことにする。
とにかくこれでようやくゲレンと再会することができたので、屋敷の主であるヘメンディレス輝公爵のもとに連れて行ってもらおう。これまではっきりとした敵意を示されているわけではないが、毒のようなものを盛られかけたりと油断はできない。ちなみにゲレンにここまでの道中で妙なものを口にしていないか確認したが、彼は屋敷に来てから飲食は全くしていなかった。
ゲレンたちとひとしきり現状確認をしている途中に、踊り続けていたゴーストたちが動きを止めていることに気づいた。動きを止めたゴーストたちが一斉に震え始めたかと思うと、ゴーストたちの身体を形成していた黒い液体がダンスホールの中央に集まり、何かを形作り始める。
数秒間球体のまま蠢いていた黒い液体の塊は、徐々にその形を変えていき巨大な右手に変形した。人など簡単に握りつぶせそうなサイズの右手は、ダンスホールの入口とは異なる扉を指さすと、右手と中指を床につけて歩くようにしてそちらへと進んでいく。簀巻きアンデッドや少女アンデッドがその場から動かないので大人しく様子を見ていたのだが、右手はこちらがついてこないことに気づくと手招きをしてきた。再び響いてきた謎の声もその手についていくように急かしてくるので、状況は飲みこめないものの指示に従うことにする。少女アンデッドたちもついていくようなので、突然襲われるということもないだろう。
手に従って進んだ扉の先には、地下へと続く長い階段があった。階段も照明で照らされているのだが、その先が闇に沈むほどに先は長い。その階段を、やはり黒い手は二本の指で器用に下っていく。その非現実的な光景に思わずゲレンと目を見合わせるが、今できることは謎の手についていくことだけだ。先に進んで現れるのは鬼か蛇か、あるいは逸品珍品か、ほんの少しの期待感を抱きながら、ゲレンと二人して闇の中に踏み込んでいくのだった。
【骨人形・庭師】:三ページ目初登場
【骨人形・調理師】:五ページ目初登場
【光幽水】:五十ページ目初登場
アベイル砦:十三ページ目初登場
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