異譚~サナッタの選択~
狭い通路の中に響くのは、前を行く神官がまとった法衣の裾が床に擦れる音と、遠くから聞こえる獣の彷徨のような叫び声だった。自分が向かう方向から聞こえてくる尋常ではない悲鳴を聞いて、なんとか前に動かしていた足がついに止まる。
「はっはっはっ……」
荒くなる息に呼ばれるように、体中から冷汗がにじみ出る。ついには吐き気を覚えるほどに緊張が高まるが、付き添いの神官はそういった様子を見るのにも慣れているのだろう。外法遺骸らしく、何の熱も持たないまなざしを向けるだけで、何もしようとはしない。立ち止まってただ自分を眺めているだけのその姿からは、いっそ侮蔑の感情すら抱いているように思われた。
だが、屈しそうになる足を奮い立たせるのは、いまだに胸に宿る貴族としての誇りだ。歴史ある防衛都市として栄えていたガイネベリアでも随一の由緒を持つオーメイ家の長男であるサナッタは、将来を有望視されていた青年だった。家の都合ながら相思相愛の相手と婚姻を結び、このまま順風満帆な人生を送るかと思われていたが、ガイネベリアを突如襲った理不尽すぎる戦火が、彼の幸福を一瞬で奪い去っていったのだ。
彼の父をはじめとする家族とはガイネベリアを出る際に散り散りとなり、唯一残った愛しい妻を連れてなんとかこの王都にたどり着いたのが五十日ほど前だった。オーメイ家が誇る歴史の中で、この王都にいる貴族に貸しを作ったことがあるという話を信じ、長すぎる旅路を歩んできたサナッタだったが、その一縷の希望はあっけなく潰えてしまった。どうやらその貸しは長大な寿命を誇るアンデッドですらも忘れてしまうほど過去にあった出来事だったようで、家主と思われた半身が白骨化したアンデッドににべもなく追い返されてしまったのだ。あまりのみすぼらしさ故か、しばらく生活ができるだけの路銀を渡されて妻の元に戻ったサナッタだったが、彼らに待つ未来が明るいものではないのは明白だった。
そんな彼が最後に頼ったのが、この”繰生の儀”であった。貴族家の長男として剣を扱う術は一通り学んだこともあるが、本職の騎士のように戦いに身を投じたことがあるわけでもない。学問や計算は並の平民以上にできるものの、多くのアンデッドが過ごす王都でよそ者の生者がそのような高等な仕事に従事することも難しいように思われた。
そこで王都で一定の地位を得るために、サナッタは人としての生を手放すことに決めたのである。もちろん人間としても肉体労働などをこなせば一定の賃金を得ることはできるだろう。だが、彼には愛する妻という守るべき相手がおり、なにより貴族としてのなけなしのプライドが手を泥で汚す仕事を選ぶことを彼に許さなかった。人の身では難しいが、死者となれば未来が開けるかもしれない。そんなグリッサムに訪れたすべての人間が抱く淡い期待を胸に、サナッタはもう一度足を踏み出した。
それを見届けた神官は、やはり何も言わないまま通路の出口に向かって歩き出す。その後ろ姿を見ながら、サナッタは懸命に息を整えた。今彼が向かっているのは”繰生の儀”が行われる儀式場にある広場だ。直前までサナッタを含めた儀式を受ける者たちは待機室に待たされていたのだが、彼の前にすでに十人以上の人間が待機室を後にしていた。当然彼らは今サナッタが向かっている広場で儀式を受けたのだろうが、その中の一人として部屋に戻ってくることはなく、彼らの安否は結局分からずじまいだ。無論その全員がすでに人ではないことは確実なわけだが、その様子を一目でも見ることができれば心の準備ができたのにと、サナッタは内心で愚痴る。儀式場を訪れる前に覚悟は決めたつもりだったのだが、どうやらその覚悟はこの儀式場の独特な雰囲気を前にすればあっさりと霧散するほどのものだったらしい。
そうして自分の心の弱さを呪っているうちに、いよいよサナッタと神官は通路の出口にたどり着いた。薄暗かった通路とは対照的に目の前の広場はいくつもの燭台により煌々と照らされており、明るさの差に順応できないサナッタの視界は一瞬白く塗りつぶされる。ゆっくりと目を開けながら明るさに目を慣らすサナッタの目に最初に映ったのは、白い石材で作られた床や壁だ。広場にある明かりから発せられる光をそれらの石材が反射し、まるで部屋全体が発光しているかのような印象を受けるサナッタだったが、静々と広場に入っていく神官に引かれるようにしてその足を通路の外に踏み出した。一度足を踏み入れてしまえばあとは先に進むしかない。いつの間にか口内に溜まった唾を嚥下するサナッタだったが、彼の目が広場の中央に倒れ伏した何者かをとらえた。その誰かが倒れているのは広場に設置された壇上なのだが、これまで見た神官の中でも最も華美な衣装に身を包んだアンデッドがその前に立ち尽くしている。そのアンデッドが手に持ったベルを軽く鳴らすと澄んだ音が広場を包み、サナッタが歩いてきたのとは逆の方向に延びている通路から四人の小間使いが現れた。子供ほどの背丈の小間使いたちの肩には担架が担がれており、彼らは慣れた様子で倒れた何者かを担架に乗せる。
その際にサナッタはその倒れている誰かに見覚えがあることに気づいた。彼の記憶、そして目がまだまともであるとするならば、その人物の顔はサナッタの直前に待機室から呼び出されていた老人にそっくりだった。過ごしてきた年月を表しながらもいまだ生気を失っていない眼光が特徴的だった老人が、なぜアンデッドになろうとしていたのかはサナッタは知らない。だが、どのような理由があったにしろ、きっと儀式の結果は老人の望んだものではなかっただろう。
彼の頭部はどこかに消え失せており、その代わりに失われた顔面が上裸となった胴体に張り付いている。だが、その顔面は一つではなかった。小間使いが老人を運ぶ際にサナッタは彼の全身を目にすることになったが、確認できただけで四つの顔が老人の身体に備わっているように見えた。それらの顔はおそらくはすべて同一人物、しかも老人のものであったが、それぞれが幼年、若年、壮年、老年のそれであった。今はすべての顔が意識を失って眼を閉じているが、老人、否、あのアンデッドが目を覚ました時にどのようなことが起こるのか、サナッタは想像すらしたくなかった。
数分前まで老人だったアンデッドが運ばれていく様を凝視していたサナッタだったが、広場の中央に立つ神官が鳴らしたベルの音で現実に引き戻された。自分を見つめる神官の視線に気づくが、彼の足はその内心に倣ってそこから微動だにしようとしない。
そんな彼の背を、ここまで付き添ってきたもう一人の神官がそっと押す。その動きの中に優しさを感じたような気がしたサナッタだったが、それは彼の気の迷いだったに違いない。だが、事実がどうあれ、神官の手はサナッタに前に進むための何かを与えた。引きずられる、あるいは押し出されるようにしてサナッタは広場の中央へと進む。
体を小さく震わせながら立つサナッタを、ベルを持った神官が静かに見下ろす。神官は右手をゆっくりと上げると、ベルを軽く振るい儀式を開始した。神官の後ろに待機していた小間使いが、ベルの音を合図にさらに後方に置かれている巨大な箱に走り寄る。彼は凹凸のある箱の壁面に張り付くと手足を駆使して箱の縁に登り立った。さらに手にしていた紐付きの麻布を箱の中に放り込むと、すぐに紐を手繰り寄せて箱の中から何かを引き上げる。
極度の緊張のせいで遠目からはその正体を看破することができなかったサナッタだったが、小間使いにより運ばれてきたそれを間近で見て思わず息をのんだ。
小間使いの腕に抱かれるようにして運ばれてきたのは、ビクビクと蠢く虫のような肉塊だった。虫と表現したのはその形が芋虫と酷似していたという理由だけであり、その肉塊には生物としてあるべき器官は一つも備わっていない。だが、サナッタはその肉塊が自分のことを認識していると直感していた。本能的にその場から逃げようとしたサナッタだったが、獲物を逃がすまいと神官の法衣の下から伸びた六本の腕が彼の四肢を拘束する。
「うーむ、何度見ても気色悪いことこの上ないが、一個くらいはコレクションしたいものだ」
「……本気ですか?ナナシ殿。私は目にしたいとも思いませんが」
客席から呑気な会話が聞こえてくるが、サナッタにはその内容を理解するだけの余裕など残ってはいなかった。なんとか拘束から逃れようと声なき悲鳴を上げながら体を揺らすが、神官の膂力は恐ろしいほどに強いもので、その場から微動だにできないままに、彼の顔に肉塊が寄せられる。
「ひっ!や、やめて!」
近づくごとに激しくなっていく肉塊の蠢きに耐えきれずついに拒絶の悲鳴が溢れ出すが、それにより儀式が止まるはずもない。顔に密着した肉塊により視界はつぶされ、さらに呼吸もできなくなる。氷のような冷たさを持つ肉塊に顔を追われたサナッタはパニックに陥るがそんな彼をさらなる恐怖が襲った。自分の感覚を信じるならば、肉塊は彼の鼻や口、さらには両目から彼の体内へと侵入を始めたのだ。不思議と痛みは全くないものの、得体が知れない何かが自分の中に入ってくる恐怖と、生物として失ってはならない”何か”が奪われていく感覚に、サナッタの理性は完全に失われた。脳内で白熱して溶け消えていく正気を彼方に眺めながら、彼の意識は黒く塗りつぶされたのだった。
防衛都市ガイネベリア:第二章初登場
面白いと思ってもらえましたら、お気に入り登録、高評価いただけると泣いて喜びます!




