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異譚~アサームの空虚~

 刻一刻とすり減っていく思考能力の大半を占めるのは、情けないことに”後悔”だった。もはや無駄なことを考える余裕などないはずなのに、次々と脳裏に浮かんでは消えていくのはこれまでの人生で選んできた間違った選択だ。親しい友も信頼する仲間も愛する人すらも顧みずに生きようとした結果がこれか、と思わず誰にも聞こえない失笑を漏らす。


 あと数分もすれば、自分もこの汚らしい泥の中に沈み、自我も持たない亡霊となって沼地を永遠にさまよい続けるのだ。そう確信しながらも、やはり心のどこかで救いを待っているふざけた自分をあざ笑いながら、最後の意思が手の中をすり抜けたのを確かに感じた。

 その後に待っていたのは、まさに混沌だ。自己もなく他己もない。外もなく内もない。光もなく闇もない。すべての境界が消滅し、その事実すらも認識できない己が最後に感じた感情は、底知れない恐怖だった。

 これまでに感じたことのない巨大な恐怖に押しつぶされ、確かに自分は消え去った。だが、こぼれて地に染み消えた水を取り戻すように、消えたはずの自分が急速に作り直されていく。実際に己を失っていたのはほんの一瞬のことだったのだろう。だが、時間すらも認識できなくなっていた彼にとっては、それは永遠よりもなお長く感じられていた。恐怖だけが残った暗闇から抜け出そうと、彼は取り戻した自意識を振り絞ってもがく。

 自分の存在すべてをかけて久遠の闇から抜け出し、彼はゆっくりと目を開いた。もう二度と見ることがなかったはずの光を感じ、とうに冷たくなった彼の目から涙があふれる。涙にぼやける視界の先にいたのは、優しい笑みを浮かべる一人の女性だ。自分を地獄から救い出してくれたその女性を見て、彼-アサーム-は呟いだのだ。


「聖女様……」と。


☆☆☆

「……サーム、アサーム!おい!いきなり呆けてどうしたんだ?」


「……ああ、すまない。少し過去のことを考えていたんだ」


「昔っていうと、シロテランで一緒にパーティーを組んでた時のことか?いやあ、あの時は楽しかったよなあ」


「そうだな……」


 アサームが発したごまかしの言葉を、彼の元パーティーメンバー、ゲレンは都合のいいように解釈してくれたらしい。そのまま昔話を始めたゲレンの話を気持ち半分に聞きながら、アサームは彼の恩人である”聖女”のもとへ向かうべく、木製の階段を上り続ける。一心不乱に塔の上を目指すアサームを見て、成り行きで一向についてくることになってしまったレナが問いかける。


「ねえ、アサームさん。一生懸命なのはわかるけど、あなたと”聖女様”っていう人はどういう関係なの?ゲレンの知り合いだからってことでこんなところまで来ちゃったけど、そろそろちゃんと教えてくれてもいいんじゃないかしら?」


 確かにアサームは、ここまでの道中でも意図的に”聖女”について説明するのを避けてきていた。それはまだゲレン以外の二人を信用しきれていなかったためなのだが、深く事情も聞かぬままこの塔までついてきた彼らを信じるに足る人間だと判断したアサームは、ようやくその口を開く。


「彼女は私の恩人だよ。いや、私だけでなくここに住むアンデッドすべてのか」


「恩人?アンデッドを聖女が助けてるってこと?なんだか変な話ね」


「我々にとっては、助けてくれるならば狂人も聖人も変わらんよ。大事なのは彼女が無償の慈悲を与えてくれ、私たちはそれに報いなければならないということだ」


 そう言いながらアサームは小さな踊り場で角を曲がった。その際に後頭部から猫の顔のようなものが生えたアンデッドとすれ違うが、そのアンデッドはゲレンたちに一瞬だけいぶかしげな視線を向けるだけで騒ぎもせずに去っていった。それを見て、ナナシが思わずつぶやく。


「ふむ、ここにいるアンデッドはずいぶんと大人しいではないか。向かってくれば心置きなく解体できるのに」


「あまり物騒なことは言わないでくれよ。もともとこのあたりにいる者たちはまともなのがほとんどだが、最近は特に静かなんだ。聖女様のおかげでね」


 またしてもアサームの口から出た聖女という言葉に、次はゲレンが反応する。


「アンデッドがまともになってるのが聖女のおかげだってのか?俺が知ってる聖女とはやってることがずいぶんと違うな」


「ああ、彼女の力はまさに奇跡だよ。神話に出てくるような利己的で不完全なものとは比べるべくもない。もちろん、世界を救うなどと嘯く教会の人間などとは雲泥の差だ」


 妙に敵意を感じる言葉に不自然さを覚えながら、ゲレンはアサームに話の続きを促す。すると、アサームはつっかえながらだが言葉を続ける。


「彼女の力は、あー、なんというか説明がしにくいんだ。それに彼女自身も完全に自分の意志でそれをやっているわけでもないらしい」


「意図しないでアンデッドたちを助けてるってこと?それこそ神話に出てくる聖女様みたいね」


「だからそれとはまったく違うといっているだろう!彼女こそ本物の聖女だ!」


 声を荒げるアサームだが、すぐに自分が昂っていることに気づいたらしい。一度咳ばらいをすると、気を取り直して説明を再開する。


「とにかく、彼女はこんなところで我々を救ってくれている。だからこそ、ここの住人たちは彼女の希望通り、懸命に彼女を匿っているのさ。だが……」


「なぜか彼女を狙う悪者たちにお前が関係しているということがバレちまったと、そういう訳だな?」


 ゲレンの言葉に、アサームは黙ったまま頷いた。アサームは悔し気に言葉を絞り出す。


「いくら聖女様といっても、その力は何の消費もなく発動できるわけはないらしくてね。彼女が必要とする物……まあ、有体に言って食料なんだが、それを石棺街に買い出しに行っている時に奴らに捕まってしまったんだ。そして、拘束されたまま運ばれている際に、彼らが尋問してきたのさ。『聖女をどこに隠した』ってね」


 どうやらアサームは買い出しで一人になったところを狙われたらしい。腐肉街を出るまでは他のアンデッドからの襲撃を避けるために集団で行動していたらしいが、石棺街という比較的安全な地域に行ったことで油断してしまったのだろう。

 そんな彼を慰めるつもりはないらしく、レナがため息交じりにぼやく。


「で、そこから逃げ出して命からがら飛び込んだのが私の店だったわけね。はあ、仕方ないとはいえ、もう少しどうにかならなかったの?まだ開店もしてないのに修繕費だけかさむなんて、やってらんないわ」


「まあそう言うなって。足りなかったらまたナナシに借りればいいんだしよ。なあ、ナナシ?」


 呼びかけられたナナシは、露骨に顔をしかめてゲレンに振り向いた。


「おい、俺を金貸しか何かと一緒にするな。店の借用書を渡したのはあくまでも世話になった礼だ。返す当てもない奴に貸しを作る気はないぞ」


「それには及ばないわよ。ナナシにはすでに大きすぎる借りがあるもの。それを返す前に別の借りなんて作れないわ」


「だからあれは礼として渡したものだから、別に返す必要はないと……」


 小さな言い合いを始めたナナシとレナを放置して、アサームは長かった階段の最後の段差を上りきった。同行者三人もそれに続いて塔の最上部にたどり着いたが、そこは何もないがらんどうの小さな部屋だ。部屋の中を見回して煙に巻かれたような表情を浮かべるゲレンやレナだったが、アサームは部屋の隅に置かれていた長い木の棒を握ると、それで部屋の天井を強く五回突いた。

 すると、十秒ほどたった後に天井の木材が一枚だけ取り外され、空いた隙間からボロボロの縄梯子が投げ下ろされる。


「なるほど、匿ってるっていうのは本当なんだな。今のが合言葉ってところか」


「一人ずつ梯子を上ってくれ。見てのとおり、かなり年季が入っているのでね」


 先に梯子を上るアサームを見送り、まずはゲレンが梯子を上って隠し部屋に入った。隠し部屋もやはり特に置物もない大部屋だったが、その部屋の真ん中に座る一人の女性を見て、ゲレンは思わず目を瞠った。その女性は襤褸切れをまとったアンデッドたちに囲まれており、アンデッドたちは一人残らずゲレンに警戒の眼差しを向けている。だが、ゲレンはアンデッドたちのその様子に気づくこともなく、女性を凝視し続けていた。ゲレンの後についてレナも梯子を上ってきたが、やはり彼女も目の前の光景を見て息をのむ。


「あの子は……何をしているの?」


「いや、分からん……分らんが、どうやら痛がっていることはなさそうだ」


 アンデッドに囲まれた聖女は、まだ少女といっても差し支えない若さのようだった。そんな彼女は部屋の真ん中に座り、目をつむったまま、二体のアンデッドと”混ざりあって”いた。

 混ざりあうというのは言葉そのままの意味であり、少女の前と後ろから抱き着くようにして、二体のアンデッドの肉体が少女の身体に溶けているのだ。上半身をはだけた少女は、まるで眠るようにして目をつむったまま俯いており、それに反して合わさっているアンデッドたちの顔には一目でそれとわかる恍惚の表情が浮かんでいる。淫靡にも奇怪にも見えるその光景を前にして、ゲレンとレナは息を潜めてそれを見つめることしかできなかった。

 だが、最後に部屋に入ったナナシはそうではなかったようで、目を細めて少女の顔を見つめていたかと思うと、何かを思い出したように声を上げる。


「そうだ!どこかで見たと思ったら、あの女はシロテランで助けた……」


 だが、ナナシが言い終わるより早く、今彼らがいる部屋全体が激しく揺さぶられた。その揺れの中でも少女は目を開かないが、そのことに意識を向ける前に、さらに二回、三回と徐々に激しくなる揺れが彼らを襲う。


「おい!次はいったい何の仕掛けだ!?」


「何を言っている!?我々が意図したものではないに決まっているだろう!」


 そう言っている間にも、揺れは大きくなっていき、ついには部屋自体が傾き始める。部屋に空いた小窓から見える景色が徐々に低いものになっていることに気づいたレナが、震える声でゲレンに尋ねた。


「ね、ねえ、これってもしかして、塔が倒れて……」


「おいおいマジか!!レナ!こっちに……」


「まったく、苦労して上ったかと思ったら強制的に引きずり降ろされるとは……これでは骨折り損ではないか」


 ナナシの間の抜けた言葉を最後に、部屋はほぼ完全に横倒れとなり、塔はぬかるんだ地面に向かってとすさまじい速度で倒れていくのだった。

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