異譚~アイーシャの朗笑~
アイーシャは物心ついたときから何度も登っている階段を軽い足取りで上がっていく。歩きなれた階段が立てる軽い軋み音は最早聞きなれたもので、横にある大樹の樹皮を触ればその凹凸によって目をつむっていてもどこにいるか分かるほどだ。
そんな彼女が向かうのは集落の中でも特に高い大樹の頂上付近にある一室だ。普段は不届きを行った旅人などを閉じ込めておくための牢屋として使われているその部屋には、今彼女が会おうとしている人物たちがいる。
慣れていない者なら恐怖を感じかねない高度まで上がったころ、アイーシャはようやく目当ての部屋にたどり着いた。あまり使われていないため少し歪んだ扉を開くと、部屋の中にいた二人がアイーシャの方に顔を向ける。
「アイーシャ、どうしたんだい?下で騎獣の世話をしていると思っていたけど」
「んー、そうだったんだけど、大体終わっちゃったのよねー。暇になったから、かわいそうなお客さんと兄貴を慰めに来たってわけ」
そう言いながら扉をくぐったアイーシャは、兄であるケラスタの隣に歩いていき、彼と同じく床に直接座り込んだ。そして、強固な木柵により仕切られた部屋の一角に閉じ込められた来訪者に向かい合う。
「しっかし、あなたも災難だったわね!巡回中にはぐれた上にこうして牢屋に閉じ込められちゃうなんて!アハハハ!」
「そういう言い方はどうかと思うよ」
ケラスタの咎めるような言い方にも全く動じる様子はなく、ナナシに向き合ったアイーシャは愉快そうに笑う。そんな言われ方をされれば多少なりとも不快感を表しそうなものだが、ナナシもナナシで特に反応もなく木柵によりかかったままだ。
「でもナナシちゃんだって気にしてない感じだしー。って、そういえば私たちの言葉分からないんだっけ?」
「そうなんだけど、ちょうどナナシさんに言葉を教えてたんだ。ナナシさん、すごい物覚えがいいから、もしかしたらもう会話の内容もわかってるかもね」
「ええ!?やばいじゃん!」
言葉とは裏腹にアイーシャは笑顔を浮かべたままだ。ナナシがそれを理解しているのかは分からないが、彼は体の向きを変えると兄妹に向き直る。
「あ、そだ!これ、ありがとね!メチャ気に入った!ニシシシ」
アイーシャは首から下げたネックレス、【風生の首飾り】を指し示しながら満面の笑みを浮かべる。もちろんナナシもそれの対価となる物品を受け取っているのだが、まるでそれを譲り受けたかのように感謝の言葉を言えることは、彼女の素直さがなせるところなのだろう。
アイーシャは持ってきていた肩掛けカバンから紫色の果実を取り出すと、木柵の隙間からナナシに差し出す。ナナシはそれを受け取るとすぐに齧ろうとしたが、その前に何かを思い出したように口を開け閉めする。
「ア、アイ……アリガトウ」
「え!?ナナシちゃん、もう私たちの言葉喋れんじゃん!ヤバ!?」
アイーシャが叫ぶ目の前で、ナナシは今度こそ果実に齧りつく。それほど一心不乱にという訳ではないが、ちょうど空腹だったのかそれほど時間もかからずに果実を食べ尽くした。
「というかナナシちゃんさー、なんでこんな牢屋に入れられてるわけ?確かに森の中を勝手に歩き回ったのかもしれないけど、閉じ込められるほどじゃなくない?」
「ダシテ……クレル……?チガウ……タスケ……タイ……?」
「やっぱナナシさんもここから出たいよね?ちょっとウチ、お父さんに言って……」
「アイーシャ、彼がここにいるのは僕の責任でもあるんだ。運が悪かったということもあるんだけど」
「え?兄貴の責任?どゆこと?」
ケラスタは一度だけ溜息をついてから話し始める。
「そもそもは僕ら巡回班が魔物に襲われたのが始まりなんだ。森の魔物が僕らエルフを襲う、これがどういうことか、アイーシャには分かるよね?」
「……んえ?」
目を泳がせる妹を見て思わず脱力しながら、ケラスタは説明を続ける。
「……森の魔物が襲ってくるということは、彼らの行動が活発になっているということだ。その現象が起きるということはすなわち、森の”代替り”が近いということさ」
「あー、そういえばお父さんが前に言ってた!百周紀に一回くらいあるんだっけ?」
アイーシャの返答に頷くケラスタ。
「ああ。ここ最近で魔物が襲ってくるということはなかったから、前の襲撃がその最初の予兆だったんだろうね。それで最初は問題なく撃退できたんだけど、どんどん魔物の数が増えて戦ってるうちにナナシさんとはぐれてしまったんだ」
「じゃあ、ナナシちゃん、一人で森の中にいたの!?よく無事だったね?」
アイーシャが驚いた様子でナナシを見るが、当の本人はそれもどこ吹く風という様子で床に胡坐をかいたままだ。ケラスタもナナシを見て、感心したように頷く。
「本当に大したものだよ。エルフ以外の種族は森の中を歩くことすらできないと言われてるのに、僕が見つけたときはかなりの奥地まで進んでいたからね」
「ほえー。ナナシちゃん、なかなかやるじゃん!」
「だけど、そこで出会った相手が悪かったんだ。なにせ彼が遭遇していたのは、今代のヌシだったからね。何とか助け出せたからよかったけど、あのままだったらどうなってたか」
「んで、それがなんで牢屋に閉じ込められることになっちゃったの?」
「父さんにこのことを伝えたら、『集落のエルフ以外がヌシを見ることは禁じられている』って言いだしたのさ。そんな決まりは聞いたことがなかったけど、僕にも止められなくてね。ナナシさんには大変申し訳ないことになってしまった」
申し訳なさそうな顔でナナシを見るケラスタだったが、ナナシは特に反応を示すことはない。
「んん?そしたらさ、あの機獣ってやつらは百周紀に一回しかない”代替り”とおんなじタイミングでこの森に来たってこと?なんかタイミングよすぎない?」
「よく気が付いたね。父さんもそのことには気づいていたみたいで、だからこそ機獣を森の外で迎え撃つことにしたみたいだよ」
「それでカミセラのおっちゃんたちが色々と準備してたってわけね」
一連の説明を聞き終えたアイーシャは、後ろに倒れて床に寝そべる。脱力しきったその様子からは、面倒なことはうんざりだといわんばかりの感情が読み取れる。
そんな妹の様子を苦笑いを浮かべながら見ていたケラスタは、気を取り直してナナシに声をかける。
「妹も話を聞き疲れたみたいだから、そろそろエルフ語の勉強に戻りましょうか。と言っても、もう簡単な話くらいならできますよね?」
「……デキル、オボエ、マス?」
「あはは、ちょっと違いますけど惜しいですよ。そこの発音はもうちょっと唇をすぼめて……」
「ほあっ!?」
突然奇声を上げて飛び起きたアイーシャに二人が不審な目を向けるが、本人はそんなことに気づきもしない様子で部屋に設置された窓に走り寄る。その勢いのまま窓から頭を出し、もはや霞むほど下にある地面に目を凝らす。
「……お兄ちゃん!ちょっと緊急事態かも!」
「いきなりどうしたんだい!?」
「えっと、なんかよく分かんないけど、敵が来たみたい!うちのハースが……」
アイーシャが言い終わるより先に、窓の向こうに見えていた空が何かに隠された。流動する壁のような何かが動き続けていたかと思うと、窓の外から一つの巨大な瞳が部屋を覗き込む。
「ハース!急にどうしたし!」
窓の向こうに現れた大蛇を見たアイーシャは、ハースと呼ぶ自らの騎獣に手を伸ばす。ハースはそれを大人しく受け入れながらも、しきりに長い舌を出し入れしている。
「お兄ちゃん!とにかく一回下に下りないと!ナナシちゃんも一緒に!」
「そんな急に言われても……そもそも僕は牢屋の鍵を持って……」
牢屋の扉を揺らすケラスタだが、当然簡単に扉が壊れるはずもない。どうしたものかとケラスタが一旦扉から離れるが、牢屋の内側から一本の剣が木柵を切り裂いて突き出した。燃え盛る火焔をそのまま形にしたような鎧をまとった自動人形は、真っ赤に赤熱した刀身を備えた剣を振るい、やすやすと木柵を焼き切る。ナナシは自分の自動人形によってできた脱出口から、悠々と外へ出てきた。
「分かってはいたけど、最初から心配なんていらなかったね。そしたら行こうか」
ケラスタとアイーシャ、そしてナナシの三人はハースの頭部に跨る。頭部は全て鱗に覆われているが、鞍が設置されているため一人だけならば安全に騎乗することができる。そこにアイーシャが座り、その後ろに二人が乗る形となった。当然二人には支えになるものもないため、ケラスタは前にいるアイーシャに、ナナシはケラスタにしがみつくこととなる。
「よし、行くよー!しっかり掴まっててね!」
「頼むからお手柔らかにしてくれ!」
ケラスタの悲鳴を置き去りにして、ハースが勢いよく樹を下っていく。ハースはその長い身体を巻き付けて大樹の側面を這うようにして地面へと向かっていく。見る見るうちに地面との距離が近くなっていくことで、三人は集落に起きている異変を確認することができた。
彼らが向かう先では、エルフたちが集落の中心に向かって避難していることが見て取れた。そして、森と集落の境界では、青白い火か迸る水に見える魔力の飛沫が上がっている。
それは集落を守る結界から発せられているものだ。そしてその結界を攻撃しているのは、まさしく森に侵攻してきている機獣たちであった。




