異譚~オブクスの決意~
「そろそろ日の出か」
ガイネベリアを囲む防壁の上で、オブクスはポツリと呟いた。防壁から望むことができる、少しずつ明るくなる地平線は彼が最も美しいと思う景色だ。特にここ数ヶ月の間に繁殖した赤い花が朝日に照らされる様は、それを眺めるたびに見惚れてしまうほどの風景だった。この時間帯の見回りは騎士や他の従騎士たちには不評の当番なのだが、静かで一人になれる持ち場ということもあってオブクスは嫌いではなかった。
「……行くか」
地平線から目をそらし、オブクスは防壁に造られた通路を歩き出す。歩きながら考えるのは、いよいよ明日に迫った”叙任の儀”のことだ。今回の”叙任の儀”で騎士として任命されるのはオブクスの友人であり先輩従騎士であるフリントのみなのだが、彼は歴史あるこの街でも最年少で騎士に任命されることになっている。彼のことを知らない人間からはやっかみに近い不平もあるようだが、オブクスからすれば彼の任命は至極まっとうな選定だった。
フリントと幼少からの知り合いであるオブクスは、彼の壮絶とも言える半生を知っている。両親との死別、養子となった後の義母との諍い、そして従騎士となってからの懸命な働きを。それを知る彼からしてみれば、フリント以外にそれに相応しい者などいなかった。多少家柄がいいだけの自分は決して持っていない、本当に騎士として大事な何かをすでにフリントが持っているように感じるのだ。
そんなことを考えながら歩いていると、いよいよ太陽が地平線の向こうから顔を出そうとする時間となる。
【ガイネベリアの大招門】の上から日の出を眺めるといういつものルーティーンをこなすべく、足を速めて進むオブクス。だが、その目的地に二つの人影があることに気づいた。
この時間の見回りは自分だけのはずであり、当然防壁の上は部外者立ち入り禁止となっている。いるはずのないその人影に、オブクスは警戒を一段階上げた。腰に下げた家宝でもある愛剣に手を添えて、オブクスはゆっくりと人影に近づいていく。
ようやくオブクスが確認したその人影の正体は、見覚えがあるが決して歓迎されるべきでないものだった。つい数日前に、【無辜の丘】に面した街の入り口で見たその顔を確認したオブクスは、今の時間帯も忘れて声を張り上げる。
「おい、貴様ら!ここで何をしている!」
オブクスの声に反応したのは、先日小竜を肩に乗せていた男だった。今は丈の長いローブを着て小竜を隠しているようだが、よく見れば肩の上に不自然な膨らみがあるのが分かる。竜の男は、相変わらずの無表情でオブクスを見る。
「おや、兵士さん。あなたも【生き蕾】を見に来たのですか?」
「【生き蕾】?貴様、何を言っている」
「我が主によると、あちらに咲いている花々は【笑痴の生き蕾】という植物の一種だそうです。あれほど見事に咲き乱れているのに”蕾”とは、なんとも面白いとは思いませんか?」
声だけを聴くと実に友好的で思わず返答をしたくなる雰囲気なのだが、言葉を発している男の顔にはやはり何の表情も浮かんでいない。そのギャップに気味の悪さを感じるオブクスだったが、今はその不快さより興味の方が勝ったようだった。
「……あれが蕾というなら、一体何が咲くというんだ?」
「強面な見た目の割に好奇心が旺盛ですねえ。ですが、それは我が主にも分かりません。それを確かめるために、今こうしてここにいるのですよ」
竜の男の視線につられて、オブクスも”主”と呼ばれる隻腕の男を見た。だが、隻腕の男はまるで会話が聞こえていないように視線を防壁の向こうから外さない。フリントたちが言っていたように、こちらの言葉が分からないのだろう。
空気に呑まれて男たちの正体に想いを馳せるオブクスだったが、ふと我に返り自らの責務を思い出す。
「そんなことはどうでもいい!ここにいる理由など関係ないから、即刻ここから……」
「ほら、見てください、兵士さん。どうやら我々は運がよかったようです」
今度はつられまいと、オブクスは竜の男が指をさした方向に一瞬だけ目線を向けた。だが、彼の視線はすぐに壁の向こうに広がる丘陵に釘づけにされてしまう。
オブクスの視線の先で、地面が波打った。否、波打ったのは地面ではなく、地面を覆っていた数多の花々だ。距離が遠いせいで変化の詳細は分からなかったが、中でも巨大な花に同じ現象が起きたことにより花に何が起こているかを確認することができた。
オブクスが目を瞠る先で、花が外側に捲れるようにして膨らんでいく。やがて果実のような形なった花弁がひときわ大きく膨れると、真紅の液体を散らせながらそれが破裂した。
破裂した果実の中から、なにかが這い出てくる。まるで溺れかけの人間のように地面を這いつくばる何かは、四肢をでたらめに動かしながら身を起こそうとしているようだった。
「あ、あれは一体……」
そうオブクスが呟いた瞬間だった。その何かがオブクスの方を向いたような気がした。それに気づいたオブクスが悲鳴を上げるより先に、何かが耳障りな咆哮を上げる。
それに呼応するように、各所から同じような咆哮が響き始めた。それはまるで合唱のように音量を上げていき、数十秒後には防壁の上にいるにもかかわらず耳をつんざく程の轟音がオブクスを襲った。
「ひ、ひいっ」
思わず後ずさりするオブクスだったが、それを責める人間はここにはいない。巡回の従騎士は異常を確認した際は設置されている非常鐘を鳴らすことになっていたが、オブクスにそれを思い出す余裕はなかった。だが、今鐘を鳴らしたとしても、防壁の外の怪物たちの咆哮にかき消されてしまっただろう。
やがて咆哮が少し収まったころ、再び丘が波着くように動く。その波は、徐々に速度を上げながら、オブクスの方、すなわちガイネベリアに向かって進んできた。
「た、大変だ……早く知らせないと」
オブクスはその場から後ずさりながらそう呟いた。視線の先では、地を駆け、空を舞う異形の化け物が刻一刻と近づいてきている。今助けを呼んでも、この化け物たちの進行を止めることはできない。そう分かっていても、オブクスにはここに居続けることに耐えることはできなかった。
だが、そんなオブクスを呼び止めるように、踵を返した背中に声がかけられる。
「そこの兵士。一つ取引をしないか」
「なに!?」
竜の男のとも違う声による問いかけが、オブクスの足を止めた。思わず振り返ったオブクスが見るのは、依然として化け物たちに覆われた丘を眺めている隻腕の男だ。男はオブクスを見ないまま言葉を続ける。
「あれを止めないといけないのだろう?その手助けをしてやろうというんだ」
「ふざけるのも大概にしろ!腕一本でどうやってあれを止めると……」
オブクスの声が唐突に途切れる。その原因となったのは、防壁を這い登るようにして現れた異形の化け物だった。反射的に剣に手を伸ばすオブクスだったが、剣を抜く前に飛び掛かってきた化け物に押し倒されてしまう。
「ぐあっ!は、離せ!」
中途半端に抜いた剣を鞘ごと持ち、化け物が振るう凶爪から逃れようと身をよじるが、歪な形をした血管が浮かぶ皮翼と不自然に細長い人のそれに似た両腕を振り回す化け物は、獲物を甚振るようにオブクスの肉を削いでいく。
人の頭を滅多打ちにして潰したようなグロテスクな化け物の顔には、ひどく分かりにくいが確かに笑みが浮かんでいた。それは子供が虫を潰す時の笑顔と同じ、本能からにじみ出る無邪気さと残酷さを伴うものだ。それを見たオブクスを恐怖が支配し、死を予感した肉体がこれまでと比較にならない力で化け物を殴りつける。
その一撃により、化け物が小さくのけぞった。その隙についに剣を鞘から抜き放つオブクスだったが、それを振るうより先に、体勢が戻った化け物の翼が剣を握る右手を強かに打つ。
「づあっ!?くそっ!」
その衝撃でオブクスの手から剣がはじけ飛ぶ。思わず剣に手を伸ばそうとするが、それより早く化け物が両腕を振りかぶる。両腕の先に先に備わる太く鋭い爪を見ながら、オブクスは己の死を予感した。
だが、化け物の爪は振り下ろされることはなかった。せめて最期は恐怖に打ち勝とうと化け物を正面から見据えるオブクスの目の前で、化け物はゆっくりと後ろに倒れていく。
突然の状況の変化に目を丸くするオブクスは、化け物の後ろに立つ銀の騎士に目を奪われた。騎士は剣に付いた化け物の血を振り払うと主、すなわち隻腕の男の元へと歩いていく。
「で、どうする?取引に乗れば、こいつと同じような自動機装百体を使ってこの街を守ってやろう」
騎士を後ろに侍らせた男は、空から迫る化け物など見えないようにオブクスに語り掛ける。男の周りでは、銀の騎士以外に五体の物言わぬ騎士が武器を構え、自らの主人を守っている。
「……と、取引ってことはあんたに何か渡さないといけないのか?」
男の言葉を信じるわけではない。だが、どこからともなく現れた騎士の姿とたった今見た技の冴えに、もしかしたらという淡い希望がオブクスの胸に灯った。
男はオブクスの言葉を聞くと妙に腹立たしいニヤけ顔を浮かべて、足元に転がっていた剣を拾い上げる。
「見たところ、この剣はなかなかの逸品のようだな?こいつを貰おうか」
「なっ!?ふざけるな!それは我が一族の宝剣……」
「そうか。ならば取引は無しだな」
返答を聞いた隻腕の男は、驚くほどあっさり剣を手放した。そのままこの場を去ろうとする男の背中に、たまらずオブクスが制止の言葉をかける。
「ま、待ってくれ!分かった、剣は譲る!だが、剣を渡すのは化け物たちを撃退した後だ!俺も街のために戦わなければならない!」
「……よかろう。取引成立だ」
男がそういった瞬間、周囲に劇的な変化が現れる。男を起点としてオブクスの周りにまで及ぶ範囲の空間がゆがみ、大量のオートマタがその場に出現した。いずれのオートマタも騎士を模したものであり、誰に命令されることもなく防壁の各所に移動していく。
「数はこれくらいでいいか。”銀剣”、お前は壁の上で敵を狩れ。ちゃんと死骸は回収しやすいところに集めておけよ?」
先ほどオブクスを救った銀の騎士も、男の命令を聞くとその場から移動を始めた。それを見ているオブクスの横で、再び空間がゆがむ。次にそこに現れたのは、たった今現れた騎士の軍勢とは全く異なる何かだった。
直径五メートルほどの粘液の塊のようなそれは、防壁の通路から身体をはみ出させながら、表面を静かに波打たせている。粘液は汚れた水のように濁っているが、全く見通せないほどの濁りではない。そのため、オブクスは粘塊の中に人の四肢が浮かんでいることに気づいた。おそらく五組は超えるであろう人の四肢や虫の脚のようなものが粘塊の中に囚われており、いくつかの手足は粘塊の動きを助けるかのように石畳を捉えている。
その粘塊は身体から触手のようなものを伸ばし、隻腕の男の身体を掴んだ。されるがままの男の身体が宙に浮き、触手によって粘塊の上に置かれる。その場で胡坐をかいて座る男が、オブクスを見下ろしながら声を張る。
「おい、兵士。これから下に行くが、お前も乗るか?」
「乗るってそれにか!?こ、断る!」
「そうか、では先に行くぞ」
男がそう言うと、男が乗る粘塊がこぼれるようにして壁の向こうに消えた。オブクスは慌てて男が落ちた先を見下ろすが、彼の心配は杞憂となる。
男が乗った粘塊は、防壁の内側、すなわち街に面した防壁の壁に吸い付くようにして、ゆっくりと下へと向かっていく。無事に地面にたどり着いた男は、粘塊に乗ったまま広場を移動し始めた。
「くそっ!一体何だってんだ!」
隻腕の男を見届けたオブクスも、悪態をつきながら行動を始めた。すぐそばに設置されていた非常鐘を鳴らしてから、男の後を追うために防壁の階段を駆け下りていく。
日頃の訓練の賜物で息を切らせることもなく広場に下りたオブクスの目に映ったのは、【ガイネベリアの大招門】を囲むようにして陣形を組む、百体に迫る数の騎士たちだった。やはり街の騎士団はまだ到着していないようだったが、化け物の群れを迎え撃たんと備える騎士たちの陣容は、今のオブクスをして頼もしさを感じるほど重厚なものだ。
金属鎧に身を包んだ騎士たちは半円を描くように門を取り囲んでおり、その騎士たちの間には異形の兵士が配置され弓を引き絞っている。無論、その照準は化け物たちの攻撃により軋み音を上げる【ガイネベリアの大招門】に合わせられている。
「お、おい!そこのお前!こいつらは一体どこから出したんだ!それにお前は言葉が分からないはずだろう!騙してたのか!?」
「……落ち着け。三月もあれば言葉も覚えれるさ。それよりそろそろだ」
隻腕の男が見つめる先で、【ガイネベリアの大招門】に変化が現れた。軋み音は止まないままだが、扉の中央がゆっくりと変色を始める。布に水が染みこむようにその色は徐々に広がっていき、範囲が広がるごとに色以外の変化も現れ始めた。
堅牢な分厚い木材で造られていたはずの門はまるで腐りかけの肉のような物質に侵食されていき、変色した箇所から人の膿のような黄色く濁った液体が流れ出す。爛れた肉塊となった門は、膿と血液を吹き出しながら外側からの衝撃により肉片となりはじけ飛んだ。それにより開いた穴から、巨大で歪な腕が突き出る。その狭すぎる入り口に無理やりもう一本の腕がねじ込まれ、力づくで門が引き裂かれた。
「ゴアアアアア!!!」
引き裂いた門を踏み砕いて街に足を踏み入れたのは、大人三人分の背丈はありそうな肉の怪物ともいえる巨人だった。人と同じ骨格を持つとしたら明らかに異常な角度に生えている腕を振り回しながら、巨人は門を包囲する騎士に襲い掛かろうとする。
だが、その暴虐を振るう前に、巨人に無数の矢が襲い掛かった。体中に矢が突き刺さった巨人は、倒れることはなくとも溜まらず後ろにたたらを踏む。そこに突如虚空から現れた別の巨人が突進し、二体の巨人は門の傍にもんどりうって倒れた。
巨人たちは倒れながらもお互いの肉を引きちぎろうと暴れるが、その横をすり抜けるようにして、他の化け物たちも広場に進行を始めた。大きさこそ人と変わらないが、やはりどの個体も四肢が歪に捻じれ、肉がむき出しになったような桃色の体表からは生々しい体液をたらしている。
化け物たちは門を超えるや、手近にいる騎士に襲い掛かった。当然騎士たちも陣形を守りながら反撃をはじめ、俄かに広場を化け物の叫びと剣戟の音が満たす。
「見たところ自動人形たちでもなんとかなりそうだな。あのでかいのが厄介だが、”肉男”を使えば何とかなるか。おっと、もう一体来たな」
門の残骸を弾き飛ばしながら現れたもう一体の巨大な化け物を確認した男が手をかざすと、彼の前方にやはり新たな化け物が現れる。男が”肉男”と呼ぶそれは、特に命じられることもなく巨人に向かっていく。
「お、お前はなんなんだ、本当に……」
「それはお前には関係ないだろ。それより、お前も戦うのではなかったのか?」
挑発するような物言いに、オブクスは自分のやるべきことを思い出した。状況に圧倒されていた自分を恥じるように拳を固めたオブクスは、凝り固まった恐怖を振り払って腰の剣―ガイネベリアの宝火―を抜き放つ。
「舐めるなよ、男!俺だってこの街を守る一人の騎士だ!」
オブクスが流し込む体内魔力に反応して、剣の刃を青い炎が包んだ。所持者であるオブクスには何の影響も与えない魔の炎は、彼が斬るべき敵に影を落とす。
それを見た隻腕の男が剣に向ける執着の眼差しに気づかないまま、オブクスは駆け出した。胸の中で揺れる恐怖を街を守るという使命感で覆い隠して、オブクスは鉄の盾に押し寄せる肉の波頭に飛び込むのだった。




