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異譚~キールの夢想~

 『自分は狂っている』。そう最初に思ったのはいつだったろうか。肉が朽ちて自分の指から剥がれるのを見て笑った時か、零れ落ちた眼球を我が子と見間違えた時か、はたまたかつて愛した人の顔を思い出せなくなった時か。

 いや、きっと自分が狂っているという自覚があるならば、それはきっと狂っているということにはならないはずだ。なぜなら、まだ自分は自分の過去を思い出すことができる。

 そう、例えば子供のころに駆け回った家の庭。家の庭はいつも専属の庭師が世話をしており、両手に握ったナイフとフォークで食べた料理は美味しかった。口に頬張った生肉のぬくもりと鼻腔に抜ける鉄の味に夢中になりながら、■■■・・・を貪ったのだ。

 そうだ、■■■の最後の顔を覚えている。記憶の中の■■■は綺麗で、見たこともないその顔は恐怖に彩られた歓喜の表情に染まっていた。ああ、また愛したい、食べたい、彼女もあの時喜んでいたはずだ。なぜなら彼女は泣いていたから。泣くということは嬉しいのだ。なぜなら、自分はまだ泣けるからだ。自分が泣けるということは嬉しいのであり、嬉しいということはまだ狂っていないということだ。狂っていないということは、彼女も生きているはずだ。そうだ、彼女は死んでなどいない。今にきっとまた自分に会いに来るはずだ。

 そう思って前を見ると、何と彼女がそこに立っているではないか!久方ぶりという言葉では生ぬるい、感情も理性も風化するような永劫と思える時の果てに、ようやく彼女が私を愛しにきたのだ!

 

「ああ、■■■……。やっと来てくれたんだね。一緒にご飯を食べよう。とっておきの料理があるんだ」


 そう言って手を伸ばすと、彼女は何も言わないまま一歩だけ後ろに下がった。ようやく会えたというのにどういう訳かと首をかしげるが、彼女はやはり自分を愛している。なぜなら、彼女の顔にはあの時と同じ歓喜の表情が浮かんでいるからだ。彼女はきっと自分を待っているのだ。

 この日のために自分はこの砦で待っていたのだ。砦を汚そうとする敵は撃滅し、治療を求める者には丁重に処置を施した。すべては彼女のためだ。きっと彼女は褒めてくれる。彼女はきっと自分の善行を見ていて、いつか自分の前に現れる。その願いが今叶ったのだ。

 彼女に応えるために、自分は彼女の隣に立たねばならない。だが、それを邪魔するように、そして彼女を汚すように、周りに妙な害虫が集まってきた。害虫たちがうるさいので、両手と右手を使って追い払おうとするが、いくらどかしても害虫は次から次へと湧いて出てくる。時折大きくて厄介な害虫も混ざっていて面倒になったので、息を吹きかけてみるとやつらも怯んで動けなくなった。


「■■■、なぜ逃げるんだい?はやくこっちにおいで。食卓について湯浴みをするんだ。二人でパーティーを開いて、たくさんの人を呑もう。そうすれば王様だ」


 もう少しで彼女に手が届く。愛せる。食べれる。

 なのに、彼女は突然消えてしまった。……何故!?なぜ彼女は消えてしまうんだ!!もう彼女を愛せない!駄目なんだ!目の前のこの肉袋ではだめなんだ!!彼女が必要なのに!彼女じゃないと駄目なんだ!自分は狂っていない、狂っていないから彼女を思い出すことができる。彼女の眼は青かった、髪は明るい茶色で、その髪をかき分けて見える髪の毛と同じ色の瞳が好きだったんだ!彼女のぬくもりを思い出すことができる。朝目が覚めて、最初に目に入る日の光と同じ色の髪の毛に顔をうずめたときのあの香りを思い出すことができる!


「消えろ!消えろ!彼女を返せ!吐き出せ!お前が食べた彼女を吐き出せ!!」


 そうだ、彼女は目の前にあるこの気味が悪い肉袋の中に隠れているのだ。この肉袋を引きちぎって、潜り込んで肉を噛めば、その中には彼女がいるのだ。その肉を呑めば、彼女はまた戻ってきて愛するのだ。愛すれば、また一緒に食事をして彼女を食べるのだ。


 肉袋を叩かなければならない。早く彼女を愛するのだ。彼女を愛すれば、自分は狂っていない。なのに彼女は肉袋から出てこない。それだけでなく、自分は動いていないのに肉袋が徐々に自分から離れていく。どうして、彼女は愛さないんだ。愛さなければ、自分は狂ってしまう。まだ自分が狂っていないからだ。狂っていないのに狂ってしまう。


「どうして……どうして……。もうかくれんぼは終わりだ。早く帰らないと、一緒に帰らないと」


 もがいているうちに、彼女はとうとう見えなくなった。それになぜか、手も動かない。両手も、右手も、左手も、全部だ。空腹も感じない、寒さも寂しさも、痛みも。残ったのは彼女だけ、もう名前も思い出せない彼女だけだ。

 だが、彼女ももう消える。薄くなっていく、彼女が自分が、■■■が……。そして最後の瞬間、真っ白な色に塗りつぶされかけたその時、自分は正気に戻った。ようやく囚われていた狂気から自由になったのだ。


「ソフィア、愛して……」


 自分は狂っていた。だが、やっと自分は自分キールに戻れたのだ。こんなに幸せな気持ちは久しぶりだ。ひどく疲れたしもう眠ろう。その先できっとソフィアも待っているはずだ。やっと……彼女に……会える……。

本日連続投稿になります。

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