異譚~アメリアの祈願~
名も知らぬ救いの主に祈るアメリアの眼前で、千切れた何者かの右腕が光の壁に衝突する。どろどろに澱んだ血液が断面から流れるが、腕は血痕すら残さずに壁からずり落ちた。思わずそれを目で追おうとしたアメリアだったが、地面に落ちた瞬間に踏みつぶされた腕を見て、気を取り直すように手を胸の前で組みなおす。
『ああ、どうか無力な私にご加護を。そしてケニスをお助けください』
永遠と思えるような時間の中、優しく、そしてどこまでも恐ろしい微睡の中を揺蕩っていた。精神を徐々に腐らせていくようなその微睡の中から、突如たたき起こされたのがおよそ十数日前。そこからの日々は、彼女にとっては目が回りそうなほど目まぐるしく、そして様々な感情に彩られた時間だった。
声こそ出せないものの、五感から飛び込んでくる感覚はかつてのように鮮やかで、まるで産まれ直したかのように新鮮なものだ。もちろん初めは自らの現状の不可解さに困惑したものの、思考は正常にできるようで、さらに同じような境遇の者たちがいたことで安らぎを覚えることもできた。
他の者たちの多くは会話のみではなく、思考を満足に行えないように思われた。しかし、すり切れた調理服を着た”マイナ”という【骨人形】は、やはり会話はできないものの何とか意思の疎通は可能だったため、地面に文字を書いたり手ぶりで意思疎通を図ることができた。
なぜか自分のことを”聖女様”と呼び始めた彼女のことが頭をよぎるが、アメリアの視線は自然と彼女を守るように巨大な剣を振るっているケニスへと吸い込まれる。
『ああ、ケニス。前にもまして勇猛な姿……。素晴らしいわ、うふ、うふふふ……』
生前から変わらない恍惚とした眼差しを向けるアメリアだったが、ケニスはそれに気づく様子もなく剣筋の渦を作るように剣を振るい続ける。
その剣戟は戦闘とは無縁なアメリアにもわかるほどに研ぎ澄まされており、ひとたび振るわれれば敵の肉は削がれ、骨は砕かれる。
『記憶がないのに私を守ってくれるなんて、やっぱり私たちは運命で結ばれているのね。うふふふ……』
惜しむらくは、ケニスの記憶がアメリアやマイナとは違い、かなり失われていることだった。完全に記憶がなくなっているわけではないようで、ケニスが自分を初めて認識した際は、無いはずの記憶に苦しむ様子すら見られた。
それ以降は機会がある度にケニスとコミュニケーションを取っているのだが、その際に観られるケニスの困ったようなそして緊張したような様子を見るのがアメリアの最近の楽しみだった。
『できることならばケニスと一緒にこんな汚いところから逃げられればいいのに。それもこれも全部……』
「んっんっんー。敵は弱いが、如何せん数が多いな。素材が手に入るのはありがたいが、これからどうしたものか」
声を聞いた瞬間に胸に湧き上がる不快感を、独り言をつぶやく自分の所有者に気取られぬように、そっと押し殺す。どうやら自分はこの男によって目覚めさせられたらしく、この男の命令―というよりは意志―に逆らえないようになっているらしかった。現に今も腕を組んでのんびりと突っ立ているだけのこの男の横で、アメリアは必死に【浄境】によって生じる光の壁を維持している。
「……そろそろ素材の量としては十分か。一旦小休止といこう」
誰に言うでもなくそう言った男の手の中の空間が一瞬捻じれたかと思うと、次の瞬間には禍々しく気味が悪い一本の杖が握られている。最も目を引くのは杖の先端に取り付けられた男の生首のようなデスマスクだ。さらにその頭を抱えるように一対の細腕が、デスマスクにまとわりついている。すでにその身から生命の残滓が失われて久しいはずなのに、その眼は死の恐怖に直面しているかのように大きく見開かれており、腕から逃れようとしているかのような表情はまさに死に物狂いといった様相だ。
そんな悍ましい杖を手に持った男は、ちらりとデスマスクを見てから、軽く杖を掲げる。
「未だに”権能”を使うのは慣れんな。さて……【叫骨】」
男がその言葉を口にした瞬間、デスマスクの口から何本もの白い綱のような何かが飛び出す。その綱は矢のような速さで光の壁から飛び出し、もはや群衆と言えるほどの数になっている魔物たちに殺到した。
よくよく見るとおびただしい数の骨が組み合わさって長い槍のようになっているそれらは、一本一本が意志を持つかのように的確に魔物の頭部を貫いていく。ものの数秒で周囲の魔物を全て串刺しにした骨の槍は、現れた時と同じ速さでデスマスクの口の中へと吸い込まれていった。あとに残されたのは、傷こそあるものの大きな損傷は負っていない自動人形たちと今度こそ物言わぬ屍となった魔物たちの残骸だけだ。
その一瞬の出来事に驚愕しているアメリアをよそに、男は杖を掲げていた手を下ろすと前へと足を進める。
「さてさて、お宝回収の時間だ。キシシシシ……」
アメリアはその言葉を聞き、人知れず肩を落とした。自らの今後の道中は波乱に富み、そしてケニスとの平穏の日々は遥かに遠いことを確信したからだった。




