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異譚~レイルの苦戦~

 押し寄せる暗紫色の粉塵を見て、レイルはとっさに左手で自分の口と鼻を抑えた。だが、その程度で獣人である彼の嗅覚を誤魔化すことはできない。粉塵が身体に到達する前に、彼の鼻はそれが放つ異臭を感じ取っていた。あれに飲み込まれるわけにはいかない。そう直感したレイルは、自分の周りで戦っている仲間たちに指示を飛ばす。


「おい!全員この場から離脱だ!あの胞子には触らないように……」


 そう言いながら背後を振り返ったレイルの目が、そちらからも押し寄せる粉塵の塊を捉える。その辺りでは弓を獲物として扱う"アーミラ"が魔物と戦っていたはずだが、すでに彼女の姿は見えない。レイルが彼女の身を案じていると、双剣を手にした"ネマード"が駆け寄ってくる。


「レイル!ただ立っててももう逃げ場がない!今"ソリズン"が魔術で逃げ道を作るから……」


 ネマードがそう口にした瞬間、彼らの右手で風が巻き起こり、粉塵が大きく舞い上がった。そこには筒状に粉塵が存在しない空間ができており、ネマードの言うようにそこを通ればなんとかこの場から脱出することができそうだ。だが、脱出口を作ったソリズンもその空間の維持は難しいらしく、二人が見ている間にも粉塵の侵食が始まっていた。


「くそっ……ネマード、お前はソリズンを連れてあそこから逃げろ。俺はアーミラを助けてから……危ねえ!」


 粉塵の波の中から飛び出てきた魔物を愛用の槍で弾き飛ばしながら、レイルはネマードを脱出口の方に押しやる。だが、ネマードも大事な戦友を置いて逃げるつもりはないようだ。


「なに言ってんだい、あんた!?というか、アーミラはどこに……」


 レイルが無言で指し示した粉塵の群れを見て、彼女もアーミラの行方を察した。それならばと粉塵の中へと飛び込もうとしたネマードだったが、それをレイルが止める。


「お前は魔術を使ってるソリズンを拾ってここから出ろ。見ての通りまだ魔物もうじゃうじゃしてんだ。あの道を維持したままじゃあ、ソリズンもまともに戦えないだろ」


「それはそうだけど……」


 迷うネマードだったが、そんな彼女にレイルは笑みを向ける。


「それに嫁さんを助けるっていう役目を他の奴に任せるわけにはいかん。俺は大丈夫だから心配するな」


「……はあ。全く仕方がないね。アーミラを助けたらさっさと逃げてくるんだよ!」


 そう言い残してネマードが走り去っていくのを確認したレイルは、すぐに躊躇なく粉塵のなかに飛び込んだ。目指すは愛しい妻がいるであろう地点だ。すでにその辺りは粉塵が充満してしまっているが、直前までアーミラがいたはずの場所はしっかり覚えている。粉塵に紛れて目の前に現れる魔物をなぎ倒しながら、レイルはアーミラまでの最短距離をばく進する。

 粉塵の中に入ってから三度槍を振るったところで、レイルは地面に倒れるアーミラのもとにたどり着いた。力なく横になっている彼女はまだ意識は保っているようだが、その顔色は真っ青になっている。


 すぐにレイルは彼女の横で片ひざをつくと、その腕をとって肩に担いだ。槍を振るうため片腕は空けておく必要があるため、右腕でアーミラを支えながら立ち上がる。


「ごめんなさい、レイル……不意を打たれちゃったわ……」


「謝るのはあとにしろ。今はできるだけ息を止めておくんだ」


 言葉少なにそれだけ言ったレイルが、またしても近づいてきた魔物を槍で弾き飛ばす。粉塵に入ってからまだ一分も経っていないが、アーミラのもとにたどり着くまでに、レイルもいくらかの粉塵を吸ってしまっている。男としての意地なのか態度にこそ出さないが、すでにその毒は彼の身体を確実に蝕んでいた。

 それほど猶予は残されていない。そんな彼の状況を理解しているのか、魔物たちがここぞとばかりに二人を攻め立てた。四方八方から現れる魔物からアーミラを片腕で守り続けるレイルだったが、卓越した技量をもつ彼もとうとう不意を突かれてしまう。

 突如足元の地面から蔓が飛び出し、レイルの両足をその場に縫い止めたのだ。そんな状況では、その場から逃げられないばかりか戦闘にも支障が出る。蔓から逃れようにも、片手だけで戦っている現状では、押し寄せる魔物の相手だけで精一杯だった。


 いよいよこれまでか、そんな考えが彼の脳裏をよぎった瞬間だった。粉塵の奥から突然大量の水が流れる轟音が聞こえてきたかと思うと、魔物と漂う胞子をもろとも飲み込みながら、赤色の液体が津波となって流れ込んでくる。謎の液体はまるで意志を持っているかのようにレイルとアーミラが立っている場所だけを避けていき、数秒後には彼らを苦しめていた粉塵も魔物も綺麗に流されていた。

 呆気にとられながら見晴らしがよくなった広場を見回すレイルだったが、彼の目に飛び込んできたのは、数分前とはあまりにかけ離れた景色だった。

 それまで魔物と粉塵に溢れていたはずの広場は今や殺風景に見えるほどになにもない。先ほどの赤色の液体が、本当に全てを押し流してしまったのだろう。そして、代わりに空っぽになった広場を照らそうとしているかのように、森に接する広場の一角で激しい炎が燃え盛っていた。

その炎の勢いは凄まじく、それを見たレイルが自分の状況も忘れて森への引火を心配してしまうほどだ。だが、その炎の発生源であろう人物は、気にもかけていないらしい。

 先ほどまでレイルたちを苦しめていた"麗しき(ベトル・)魅せる(フラネイト・)草魔女(グラッチ)"の前に立つ謎の人影は、まるで炎の化身だった。辛うじて金属製の防具を身に付けていることは分かるが、それらから噴き出し続ける火炎に遮られ、その人物のはっきりとした輪郭を見ることすらできない。さらに、その人物が握る剣は、まさに形をなした焔だ。レイルが立っている場所からでさえ炎が噴き出す音が聞こえるほどの火力は圧倒的であり、人の丈の倍はあろうかという火剣が閃く度に、数体の魔物がまとめて消し炭になっていく。

 何度か剣が振るわれただけで赤色の濁流から逃れていた魔物の残党も消え、すでに残っているのは"麗しき(ベトル・)魅せる(フラネイト・)草魔女(グラッチ)"だけだ。すでに植物でできたその身体にも火が燃え移っており、草魔女は苦しげに身をよじっている。

 ただ、草魔女も最期の矜持を見せようというのか、未だに手離していなかった杖を掲げると、そこに先ほどに勝る勢いで体外魔力(マナ)が集まっていく。まだそれほどの余力を残していたのかとレイルが驚く一方で、それに相対していた火炎使いも同じように剣を掲げた。その剣にはマナが集まることはないが、その代わりに周囲で燃え盛る火炎が引き寄せられるようにして剣の元へと集っていく。森を燃やし尽くさんと盛っていた炎はいつの間にか消え去り、全てが火炎使いが掲げる剣に吸収された。そして、吸い尽くした火炎を燃料にしたかのように、剣から吹き出る焔の勢いがさらに増す。剣が発する熱により、火炎使いが立つ地面すら燃え始めるが、それにより生まれた火も剣へと戻っていき、まるで剣の周りを火が踊っているかのような光景が生み出された。


 すでに火剣の長さは倍ほどまで延びており、その先端は巨体を誇る草魔女の頭部の高さにまで達している。剣が発する絶大な熱量に怖じ気づいたのか、マナの収束を終えないまま、草魔女は杖を地面に突き立てようとするが、それに割り込むようにして白熱する火剣が振るわれた。


「……」


 袈裟斬りに振り下ろされた剣は、なんの音を発することもなかった。ただ、剣が草魔女の身体を捉えると、何の抵抗もないままにそれを通過する。あとに残されたのは草魔女の下半身だけで、刀身に触れていた上半身とその上にあった頭部は灰すらも残さず消滅していた。草魔女の残骸が力なく倒れるのと同時に燃え盛っていた火剣の火力も減じていき、すぐに完全に鎮まる。

 一体あの火炎使いは何者なのか、そんな疑問がレイルの頭をよぎるが、それに答えるように新たな謎の人物が現れる。ただの人間と思われたその男は、火炎使いと草魔女が戦っていた場所とは真逆、すなわち赤色の液体が押し寄せてきた方角から歩いてきた。


「まったく、驚きの火力だな。最近調子が良さそうにはしていたが、意志を持てばここまで変わるものなのか」


 レイルにはその独り言の意味がまったく分からなかったが、その言葉の主はレイルのことなど見向きもしないまま広場を横切るように歩を進める。その先にいる火炎使いも男の存在に気づいたらしく、何も言わないまま広場の中央へと歩き出した。だが、二人の距離がある程度近くなったところで、男が声をあげる。


「ちょっとそこで止まれ、"ガイネベリア"!お前、今自分がどういう状態なのか分かってるのか?」


 炎は完全に収まっているとはいえ、ガイネベリアと呼ばれた火炎使いは直前まで空を焼くほどの業火に包まれていたのだ。その身体から発せられる高温は、周囲に陽炎を発生させるほどであり、無闇に近づけば思わぬ怪我を負いかねない。

 それに気づいた男は、ため息を突きながら懐から取り出した紅い水晶を握りしめる。


「戦力としては申し分ないが、強すぎるのも考えものだな。不用意に近づくこともできないし、なにより大事な魔物の素材の半分が消えてしまったではないか」


 男が手に握る水晶から透明な水が溢れ、その量を加速度的に増していく。空中で巨大な球体を形作った大量の水は、音もなく中を漂い、ガイネベリアを飲み込んだ。熱く熱された鎧に水が触れ、水が沸き立つ音と水蒸気が周囲に広がる。


「あー、これは普通の水だから安心しろ。その自慢の鎧が溶けることはないさ」


 誰に話しているのか、そんなことを呟く男は、おそらく彼が操っているのであろう水でガイネベリアを冷やしたかったようだ。その狙いどおり、身体に宿していた熱を粗方奪われたガイネベリアは、鎧の隙間から水滴を滴しながら今度こそ男のもとへと進んでいった。


「ひとまずはご苦労。色々と言いたいことはあるが、あのでかい魔物を一人で倒したんだ。他のことは多めに見てやろう。一旦休んでおけ」


 その言葉に応えてガイネベリアが頷いた瞬間、その姿がかき消えた。驚きながらその光景を見つめていたレイルの目が、男の視線と交錯する。


「……何はともあれ、無事にすんでよかったな。その女はそれどころではないかもしれないが」


 男の言葉で、レイルは自分に寄りかかったまま毒に冒されているアーミラの存在を思い出した。別にアーミラのことを軽視しているわけではなく、単に先ほどまで目の前で起きていた事象の衝撃が強すぎただけだ。


「……!アーミラ、大丈夫か!?今ソリズンを呼んでくるからここで横に……」


「待て待て、要はさっきの魔物の毒にやられているんだろう?ちょうど昨日、毒に効く薬を作ったんだ」


 そう言いながら近づいてくる男の手には、いつの間にか鮮やかな青色の液体が入った瓶が握られている。

 いくらかアーミラが弱っているといっても、見ず知らずの人間から受け取った正体不明の液体を飲ませるわけにはいかなかった。


「いや、名前も知らない他人から施しを受けるわけにはいかない。俺の仲間に優秀な魔術師がいるから、そいつに……」


「なにを悠長なことを言っているんだ。それで手遅れになったらどうする。それに俺の名前は"ナナシ"だ」


 ナナシはそれだけ言うと、レイルが止める間もなく瓶の飲み口をアーミラの唇にあてがった。苦しげなアーミラもそれを拒否するつもりはないらしく、口の中に注がれた液体を大人しく飲み下す。一息で瓶の中身を飲み干したアーミラは、ふう、と小さく息をついた。


「レイル、この薬……」


「だ、大丈夫か、アーミラ!なにか身体におかしいところは……」


 心配そうにアーミラの横に膝まづくレイルに、彼女は小さな笑みを向けた。


「……すごく美味しいわ。それに効き目もすごいみたい」


 レイルには俄には信じられなかったが、そう言っている間にもアーミラの顔色は明らかに良くなっていく。数十秒後には、驚いたことに自分で立ち上がれるほどにまで回復していた。


 起き上がったアーミラがまずしたことは、ナナシへの感謝の言葉を口にすることだった。自分の前に立つナナシに対して、深々と頭を下げる。


「お蔭で助かりました。旅のお方かと存じますが、貴重な薬まで飲ませていただき、ありがとうございます」


「なに、気にするな。助けることができたのは、たまたま巡り合わせが良かっただけだ」


 どこか他人行儀な会話を続ける二人を、レイルは胡散臭げに見つめている。その視線に気づいたのか、ナナシはアーミラとの会話を切り上げ、レイルの方に顔を向けた。


「とはいえ、さっきの解毒薬は作ったばかりでそれほど数もない貴重なものだ。それなりの対価が欲しいところだが……」


「おいおい、やっぱり下心があるんじゃねえか」


「当然だ。なにも求めない善意ほど信用できないものもあるまい」


 事も無げに言いきるナナシは、しかし二人を安心させようと言葉を続ける。


「別に法外な金を寄越せとは言わん。俺が欲しいのは主に情報だ。ここまで来たはいいが、今持っている情報だけでこれ以上奥に進むのも心許なくてな」


「情報だ?そんなもん聞いて一体何が……」


「分かりました。私たちが知っていることで良ければお話しします。ちょうどネマードたちも戻ってきたから、彼女らからも話が聞けるでしょう」


 アーミラの言葉にレイルとナナシが振り返ると、先ほど広場から離脱していたネマードとソリズンが森の中から現れるのが見えた。

 それを見て、レイルも安堵の笑みを浮かべる。獅子獣人(レイオ・アマン)である彼が笑うのは実はかなり珍しいことなのだが、そんなことを知るよしもないナナシは、なにかを思い出したように口を開く。


「あ、あとさっき【律流の輝紅水】で大量に回収した毒花と毒茸、それにあの魔物の残骸は全て俺が貰うからな。それくらいは正当な報酬だろう」


「別に構わんが、随分とがめついんだな」


 最大限の皮肉を込めたレイルの言葉に、なぜかナナシは笑顔で応えた。


「それはそうだ。それが俺がここにいる理由だからな。キシシシシ……」


 妙な笑い方だ、と口にしないまま内心で呟いたレイルは、それ以上何も言わないまま、ひとまずは仲間たちとお互いの無事を喜び合うのだった。

【律流の輝紅水】:六十四ページ目初登場

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