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思案の海に沈んでいると、品のよい香水の香りが不意に鼻をくすぐった。それに一瞬遅れて、自分がどこにいるのかを思い出す。日差しが差し込む窓に近づいて外を眺めてみれば、眼下に行き交う何人もの人々を見下ろすことができた。
ここ数日拠点としている"輝ける神鳥亭"という名前のこの宿は、ここグレルゾーラでも指折りの上等な宿らしく、部屋の快適さもピカ一だ。"巡りし平丘"でイーデンたちを助けた礼の一部として無償で借り受けているこの部屋は、高級宿として名高い"輝ける神鳥亭"でも最高級の部屋に当たるのだという。確かに、置かれている調度品は落ち着いていながらも高級感があるものばかりで、この広い部屋に戻ってくると自然と肩からも力が抜ける。
部屋の家具もその全てが一級品であり、高価かつ高性能の魔具が惜しげもなく使われていた。例えば寝室に置かれているキングサイズのベッドには安眠と疲労回復を促すルーンが仕込まれており、それを二つも買えば小さな家を建てられるほどの金額になるという。他にも常に冷えた水が補充される水差しや一度足を踏み入れれば勝手に体を洗ってくれる浴室など、興味深い魔具がいくつもある。是非ともコレクションに加えたいところだが、宿のものを持ち出すわけにはいかないので、折を見てどこかで買い求めようと心に決めていた。
そんな快適極まりない部屋にいると、ついだらけたくなってしまうが、そうしていてはいつまでたってもコレクションが増えることはない。清々しい朝を迎えた今日も、収集に勤しむために街へと繰り出すことにしよう。
そう決意も新たに部屋をあとにするが、まずはこの広大な"輝ける神鳥亭"を出なければならない。
この宿は、初めてグレルドーラを訪れた際に目にした高い尖塔の一つの中に造られている。外から見ても分かる通り、建物自体の大きさは相当なもので、なんと最上階は五十階にまで及ぶらしい。その分移動にも結構な時間がかかり、水流を使った自動昇降機を使ってもすぐに宿を出ることはできないのだが、客にとっては移動の最中に見ることができる建物内の景観すらも楽しみの一つとなる。
まあ、その景色もさすがに何度も見ていれば慣れるというもの。さっさと宿の外に出たところ、見覚えがあるようでない、一人の少女と鉢合わせた。待ち伏せでもしていたのか、少女はこちらを見てとると、まっすぐに近づいてくる。
少女は開口一番、用件も告げずに自分についてくるようにとだけ言ってきた。なにか急な用件なのかとも考えたが、当の本人に焦った様子はまったくない。むしろその顔には完全な無表情が張り付いており、少女からの説明がなければ用事の内容を推し量るのは難しそうだ。
と、そこまで考えてはみたものの、そもそもこちらが少女の命令に従わなくてはならない義理は何一つない。それにこちらにはこちらでやらなくてはいけないことがあるのだ。ついてきてほしいのはむしろこっちである。
というのも、今日はこれからグレルゾーラの街並みを観光がてら巡ってみるつもりだった。先日自動人形たちと話した通り、これからは建造物の収集も可能となる。そのため、この都市にある主要な建物を訪問してみたいのだ。
グレルゾーラに到着してすでに三日が経過しているが、これまでは街の全体像の把握に務めるなど、あまり収集を進めることができなかった。軍資金の不足、というのっぴきならない事情もあるのだが、建物を見物するだけならばそう金もかからない。そこで、しばらくは街の観光に時間を注ぐつもりだった。
すでにここ数日の情報収集により、めぼしい場所には見当をつけている。グレルドーラはかつて訪れたグリッサムを軽く凌駕する広さを誇るため、一日で全てのめぼしい場所を巡るのは不可能なのだが、今日は宿泊している宿の北側に当たる地域を歩いてみるつもりだった。泊まっている部屋からも見渡すことができたその地域には、遠目から見ても立派な建物が目についたからだ。
それを少女に伝えたところ、彼女はあからさまに不機嫌な表情を浮かべたあと、なんと腰に指していた杖を抜き放ち、こちらに突きつけてきた。少女が握るのは先端に小さな水晶玉がついた短杖で、それで殴られても怪我を負うことはないだろう。だが、この場でそんなものを出してきたということは、少女は魔術かなにかでこちらを脅すつもりらしい。
さらにその少女の動きに合わせて、周囲の物陰から武装した兵士たちが現れた。数は十人ほどだろうか。すでに抜剣済みの彼らは、まるで怨敵を相手にするかのように、お互いに適度な距離を保ちつつ円形の包囲陣を敷いている。
思わぬ事態に少々困惑してしまったが、少女の口から出た"勇者"という言葉を聞き、なんとなく合点がいった。"勇者"というのは、"巡りし平丘"での戦闘中に突然現れた謎の男のことだ。あの時、突如乱入してきた勇者とやらは、せっかく多くの素材を提供してくれていたカレオナとレマネを早々に撃退し、ようやく目的だった土地を手に入れたこちらにいちゃもんをつけてきたのだ。内容があまりにも下らなかったためその詳細は憶えていないが、とにかく言いたいことを言った勇者は、助けたばかりの女隊長を抱えて飛び去っていったのである。
その後は残された兵士たちとともにこのグレルドーラにたどり着き、彼らが提供してくれた宿に泊まっていたわけだが、今になってその勇者からの呼び出しがあったらしい。少女はその勇者の遣いというわけだ。
だが、そういうことであれば、尚更少女についていく理由はない。勇者は言うなれば、せっかくの貴重な素材を手に入れる機会をふいにした憎き相手。あちらが頭を下げに来るならまだしも、ほいほいと呼び出しに応じるつもりなどあるはずもなかった。
そういうわけなので少女の申し出を改めて拒否すると、少女と兵士たちはいよいよ包囲の輪を狭め始めた。彼らの気迫は鬼気迫るものがあり、こちらの腕の一本や二本を切り落としてでも連れていく、といった様子である。
彼らから逃れるためには戦闘もやむをえないかと思われたが、さすがにこの国の軍人とまともにやりあっては、今後の行動に支障が出てくる可能性もある。国を出禁になるのは一度で十分だ。だが、かといって彼女らに大人しくついていっても何をされるか分かったものではない。最悪の場合、また勇者にいちゃもんを付けられて牢に放り込まれることだって考えられる。ということは、ここは敵に怪我をさせることなく逃げ出す必要がありそうだ。
ただ自動人形たちに戦わせるだけでもこの場は切り抜けられるだろうが、相手の力量によっては双方に思わぬ被害が出ることもあるだろう。そこで、まずは全書から【喀血玉】と【眠毒玉】を取り出し、足下に叩きつけた。それにより白と紫の煙が辺りに充満し、視界が遮られる。突然の出来事に兵士たちが慌てている間に、両手に【糸引く胞掌】を装着し、十人のうち二人の兵士の身体を操る。濃い煙幕のなかで突如仲間が凶行に走ったことで、兵士たちはすぐに統率が取れなくなった。その隙にまんまと煙幕の中から脱出しその場を離れよう、と思っていたのだが、それほど簡単には逃がしてもらえない。
煙幕の外に出て数歩足を進めたところで振り返ってみると、せっかく撒き散らした煙幕が渦を巻いて一ヶ所に集まっていく。足は止めないまま煙幕の動きを目で追っていると、煙は明らかに一点に凝縮されていた。やがて全ての煙幕は一抱えほどの白い球体に姿を変え、その下には杖を掲げた少女の姿があった。どうやら、少女が杖を媒体とした魔術を発動し、それにより煙が絡め取られてしまったらしい。視界を取り戻した少女と兵士たちは、こちらを見据えるとすぐに追いかけてくるが、これでは捕まってしまうのは時間の問題だ。
それは困るので、ここは【封霊魂の呪霊】の"ノスタ"に助けてもらうことにする。魔術には魔術で対抗、と思ったのだが、ノスタが手を軽く振っただけでは見事に少女が作り出した空気の大玉は爆ぜ、少女と兵士たちはあえなく再び白い煙のベールに飲み込まれた。
こちらの位置はばれてしまったため、【瘴気愛す夢死姫】が操る木の根で追っ手の足を束縛してから、今度こそその場をあとにする。騒ぎを聞き付けた野次馬も集まり出しているため、一度出した自動人形たちを回収してから、できるだけ足早にそこから離れた。
しばらく細い道を選んで進み続けていると、明るく活気があった周囲の雰囲気が徐々に変わってくる。行き交う人々の顔からは笑顔が消え、普段ろくに食事をしていないのか、痩せ細り薄汚れた浮浪者が道のすみに蹲っているのが目についてきた。そこまでいかずとも、道を歩く住民たちが纏うのは着古して穴が空いた服ばかりで、一様に顔の血色が悪い。満足な食事が摂れていないのは明白だ。
貧しく、日々の暮らしにも困窮していると思われる彼らには、よそ者を気にする余裕もないらしい。奥に行くほど周りから向けられる視線の数は少なくなり、そろそろいいかと足を止めた頃には、近くに人影すらなくなった。
ようやく足を止めることができたので、今後の行動について考えてみる。まず、グレルドーラに来てから拠点にしていた"輝ける神鳥亭"にはもう戻れないだろう。もし戻ったりすれば、今度は軍隊が待ち構えているかもしれない。私物は全て全書に放り込んでいたのは幸いだったが、せっかく気に入っていた宿をもう使えないのは非常に残念だ。
そして、それは今日から泊まる宿がなくなったことを意味するのだが、それはさして問題ではない。寝るための土地ならば、それこそ余るほどあるのだから。
問題となるのは、これからの行動についてだ。せっかくゆっくりとこの広大な国土を巡ってみようと思っていたのに、早速お尋ね者になってしまった。これでは観光どころか、おちおち買い物もできやしない。捕まるよりはマシだとはいえ、まったく厄介なことになったものだ。
食料にはまだかなりの余裕があるため、やろうとすれば全書のなかにしばらく隠れていることもできる。だが、それでは根本的な解決にはならないし、なりより退屈すぎる。一旦ハリットたちと合流するかとも考えたが、ここでハリットたちとの関係性を敵に気取られれば、資金調達に支障が出る可能性がある。彼らとの合流は、それが必要になったときだけにした方がいいだろう。
となれば、まずは人目につかないところに新たな拠点を確保し、そこから諸々の収集活動を行った方が良さそうだ。目立つようなことをできない分、コレクションの集まりが悪くなるかもしれないが、逆にこういった状況でないと手に入れる機会がない物品もあるかもしれない。
このグレルドーラは、表向きこそ繁栄し、住民全てが富を享受しているように見えたが、同時にその裏面とでも呼ぶべき暗い部分も抱えているようだ。追われる立場になってしまった今こそ、その中に足を踏み入れる絶好の時だと言えるだろう。
【喀血玉】:八ページ目初登場
【眠毒玉】:十七ページ目初登場
【糸引く胞掌】:十二ページ目初登場
【封霊魂の呪霊】:四十一ページ目初登場
【瘴気愛す夢死姫】:異譚~カシーネの歓喜~初登場




