第九話 冷蔵庫事件
転職した斎藤エンジニアリングは想像通り会長のワンマン経営だった。
会長の説法が夕方から三時間ほど続くが、それでも西村オクダを思えば天国だ。最初は給料が安かったのでピザ屋のバイトを美香と続けることにした。
伯父さんの葬儀以来、父の身体が心配で毎日仕事帰りに実家へ寄るようになっていた。
そして十月のある晩の事。
いつものように実家へ行くと、買ってきたままの食べ物や飲み物が食卓テーブルに沢山置いてある。
部屋の奥を見ると、台所横の冷蔵庫が空っぽで開けっ放しになっていた。
「……どうしたの?」
「冷蔵庫が壊れた」
母が笑いながら言う。
「もう古いからな。丁度良かった、今から一緒に買いに行こう」
「……」
「さあ、母さん行こう」
「……」
「涼しくなってきたから冷蔵庫は無くてもいい」
「……」
思いもよらない父の言葉に最初は冗談かと思った。
「そんな訳ないだろ」
「……」
「今の時間なら大きな家電屋がまだ開いてるから乗せてくよ」
「冷蔵庫なんか買ったら今月の土地代が払えない」
「……」
それは見栄っ張りの父が冗談でも言える言葉ではなかった。
「年金とか無いの?」
「年金は納めてないからもらってない」
「……」
動揺してそれ以上聞く事が思いつかない。
「とりあえず冷蔵庫は必要だから美香に話してみる」
美香に何て話そうか。帰り道で身体が小さく震えていた。
「さっき実家に寄ってきたら冷蔵庫が壊れちゃったみたいでさ……」
「ふーん。電化製品だから、寿命なんじゃないの?」
「それでさぁ、軽四トラックも借りてたし冷蔵庫をプレゼントしたいと思って……」
「俺は仕事あるし明日お願いしてもいいかな? あっちは二人だから小さくて安いのでいいよ」
「……」
「プレゼントは給料がもう少し上がってからにしたら?」
「結婚してから温泉とかプレゼントとか何もしてあげてないし、たまには親孝行も良くない?」
「……明日は無理だね」
「そこを何とか頼む」
「もう分かった! 買やぁいいんだろ!!」
「……」
その時、ずっと二人の間に流れていた「空気感」みたいなものが一気に変わった気がした。出会ってから十六年間で一度も見たことがない美香の冷めきった表情、そして体の中に別人が入り込んでいるかのような鋭い目つき。
「何とかお願いします」
「……」
「ちょっと出てくるね」
尋常ではない雰囲気の家から抜け出して実家へ戻った。
「明日、美香が冷蔵庫を買いに行ってくれるから」
父と母が笑顔で自分を見ている。
母が言った。
「父さんも母さんも子供の頃はもっと貧乏だったから慣れてる。あんたは自分の家の事を考えなさい」
「そんなボヤけた話しをしてる場合じゃないだろ。家にお金はいくらあるの?」
「……」
「生活保護を申し込みたい」
父が言葉を絞り出した。
「……わかった。俺が市役所へ行ってくる。健康保険証はあるの?」
「ある」
父は酔っ払って自分の部屋へ入って行った。
母が小声で呟いた。
「私が六十万持ってるから。父さんに言ったら全部取られるから言うな」
「……」
「冷蔵庫は里志に甘える。ありがとう」
「父さんは絶対どこかにお金隠してるから心配ないって」
世間知らずの母はこの時まだ余裕の表情だった。
平成十八年十月、三十九歳の秋。
忘れもしないこの日を境に家族が、人生が、何もかも全てが変わっていった。