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1-3 自己紹介をするのに長い前振りが必要なので困る

 芦ノ谷とやらが帰ってから僕はリビングの一人がけソファに座って物思いに耽っていた。


 いつもなら本を読み暇を潰しているのだが、人の話を聞かないあんな人間もいるのかという衝撃が読書に移行するのを邪魔した。


 芦ノ谷をあんな人間と称したが、僕はどんな人間なのだろう?こんな生活をしている僕はどんな人間だと人に言えば良いのだろう?


 人に初めて会った時、普通自己紹介をする。


 それは芦ノ谷が言ったような挨拶から始まり名前と職業を述べ本題に行くようなものから、日本のサラリーマンが得意の「こう言うものですが」と作業を自己紹介を名刺に任した他力本願なものもある。


 そう言えば他力本願という言葉は「自分で努力するのでなく、他人からの助けに期待すること」という意味ではなく、本来は「自らの修行などによって悟りを得るのでなく、仏の力によって救済されること」という意味なので誤用なのだけど、その本来の意味だと使い道があまりにもない言葉だなと僕は思う。


 「最近の若者達は間違った日本語を使い正しい日本語が失われつつある」と言語学者が喚き立てている本を読んだことがある。「正しい日本語」とは何なのだろうか?


 「黄昏れる」とは「夕方になる」という意味しかなく「物思いに耽る」などという言葉ではない、とその学者は言っていたが、「物思いに耽る」と言う意味で捉えられる人が多くいるなら、「黄昏れる」は「物思いに耽る」という意味だ。


 そもそも言語とは相手に伝えたい意味で伝われば良いのだ。


 その「正しい日本語」とはその言語学者の主観にしか過ぎないのでは無いだろうか?言葉というのは時代により変わっていくので、その「正しい日本語」とやらも、以前は「間違った日本語」だったのではないのか?


 ならば現存する一番古い日本語である古事記に書かれた漢文を使って僕たちは暮らせば良いのだろうか?というかその言語学者は若者が使う言葉についていけていないだけなんじゃないのか?


 いまや「ら」抜き言葉を嫌がる人間のほうが数として少ないと僕は思う。「正しい日本語」は「間違った日本語」に淘汰される運命で「弱肉強食」で「勝てば官軍」だ。


 つまりその言語学者は敗者の言い分にしか過ぎず、僕たちは勝てる。若者は勝てるのだ。


 だが若者もいずれ老け新しい若者だ出てくる。そして時代は繰り返すのだ。つまり、言語に正しいも間違っているなど無い。


 だから僕は「間違った日本語」という間違った言葉を拒絶したい。


 といったところで「他力本願を誤用したかもしれないが、別に僕は悪くない」という言い訳はそろそろ惨めだからやめにする。


 そう自己紹介の話。


 自己紹介をする時、僕は自分の名前と年齢以外に他人に教えられる事は何もない。


「大山ノボル、十七歳です。」


 これで充分と思わなくもないが、自己紹介を簡潔に済ませるのは「あなたに僕の事を知ってもらいたくなどない」と見られはしないだろうか?


 それとも僕がヒネくれているからそんな事を考えてしまうだけなのだろうか?社会人なら職業、所属する会社、学生なら学年、校名などの言える所属や肩書き、学歴などがあるものだ。


 それを当てはめ、もう一度自己紹介するなら「大山ノボル、十七歳です。ヒキコモリのニートで、高校中退、怪しい家で親の遺産を使って生活しています」となってしまう。


 自虐すぎてこれでは相手も失笑するしかない。失笑も誤用だが、気にしないでおこう。


 とはいえ僕は自虐してるつもりは無い、事実なのだし、だが勘違いされる要素も入ってる気がする。


 僕のことを勘違いされないように喋るのは相当に難しい。


 長々と話せば理解可能だろうが、自己紹介は簡潔であるべきだろう。だが、ぼくの語彙の無さでは相当に難しい。


 こうして最初に難しいと言っておけば実際に失敗したときに「仕方ないか」と思わせる、その保険の為に僕のことを話す前に自己紹介の難しさを話そうとしていたのだが、話が脱線しまくってしまっていたのだ。失敗である。


 さて前置きが長くなったが、そろそろ僕のことを話そう。


 一年前に神に会ったという話はしたと思う。実際に会ったのだ。


 散々、芦ノ谷のことを痛い子扱いしたので僕の突拍子もない発言でブーメランのように帰ってきてしまうのは仕方ないかもしれない。


 だが僕はあの名探偵様と違って勘違いと妄想の上にこんなことを言い出したわけではない、僕も痛い子認定なのは勘弁してもらいたい。だから信じてほしい。


 僕は神に会った。


 こんなことを一神教の信者の多い国で言えば、聖人扱いされる訳はなく、過激な信者から袋だたきに遭うだろう。

 いや袋だたきなら良いほうかもしれない。もっと過激な時代なら殺されてるかもだ。


 だが八百万という数字が使われるほど多くの神がいるこの国ならば、神と会うなんて普通のことだ。


 いや嘘である。


 このおおらかな国でも神と会ったなんて言えば、新興宗教に嵌った人間として距離をとられるか病院に連れてかれるのが関の山だ。


 僕の少し悲しい過去を紹介しよう。


 一年前、事故で僕は両親を失った。海難事故で僕と両親が乗っていた船が沈没し、僕も両親も海に放り出された。


 僕は運良く助かった、運良く僕だけが助かった。陸地に漂着できたのだ。


 両親を失った悲しみに耽る日々を過ごす僕に、オカルト系雑誌専門のフリーライターを名乗る池元という怪しい男が訪ねてくる。


 その後、僕はヒルコに出会った。


 ヒルコ、蛭子、漂流の神ヒルコ。


 古事記によれば日本を作ったとされるイザナギ、イザナミが国産みの際に生んだ第一子だが、生まれたヒルコは不具の子で海に捨てられる。そんな悲劇の神。


 後に豊漁の神で七福神の一柱、エビスと同一視されるようになるが、僕が出会ったヒルコは同一視される前のヒルコだと池元が言っていた。


 まあそこからヒルコの祟りがこの町を襲ったり、僕が助かったのは漂着物に縁のあるヒルコのおかげということがわかったりと、その後もなんだかんだ有って僕はヒルコを祀る神社を作り、その神社から外に出ないことでヒルコの力が外に悪影響を及ぼさないようにしたのだ。


 漂着物、漂流物の神のヒルコが漂流していた僕を助けたわけだ。それは僕が願ったからなのか両親が願ったからなのかは分からない。


 だがヒルコ自らが助けてくれたというのはありえない、池元曰く「神道の神ってそういうもん」ということらしい。


 僕の家は僕の一人暮らしだけど、一柱の神社でもある。だから一人暮らしではなく一人と一柱暮らしだ。


 神社、要は神の家だ。


 この家を設計した池元曰く、玄関から寝室までの回廊が参道で中庭がご神体なのだ。まあ資格を持っているわけでも参拝客をよんでいるわけでもないが、僕は神主ということになる。


 つまり「僕は大山ノボル、神主をやっている」という自己紹介がここでようやく出来る様になった。


 僕が自己紹介を終えるともう夕方で昼ご飯も食べていないことに気付く。だが今日はもうすぐすれば、夕食を作ってくれる優しい女の子が来ることになっている。


 大山ヤツミ。偶然にも僕と同じ名字をした一つ年下の女子高生。


 一年前のゴタゴタで出会い、偶然にも僕が彼女を助けた形になり、今は同じ名字だからか僕を兄と慕ってくれる。池元を除けば僕の事情を知っている唯ひとりの人間だった。


 助けたと言っても彼女が酷い目に遭った一因は僕にあるので、慕われても正直罪悪感があるのだが、生活が楽になっているのは事実なので彼女には感謝してもしきれない。

回りくどい文章で説明回なので説明になっているのか心配です。

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