十月の少女は足元に迫った亡霊の影をまだ知らない
赤い金魚とオレンジの金魚と黒の金魚が、四角い水槽の中でゆうゆうと泳いでいた。
それぞれ好きな方向を向いて泳いでいる姿を眺めて、背後から聞こえる声に耳を傾ける。
「いや、なんかもう、丸々してきちゃって……」
その言葉に私は確かに、と頷く。
水槽から少し離れたところで、三匹の金魚の飼い主でもある私の兄、かなはスマホを握って誰かと話をしていた。
話の内容は飼っている三匹の金魚だ。
かなの言葉通り、金魚は丸々としておりこの家にやって来た時とは全く違うシルエットになっている。
三匹が三匹ともそれぞれ大きくなっていた。
むしろ太ったな、と思うレベル。
先程餌を与えたばかりだというのに、既に水草を啄んでおり私はコンコンと水槽を指先で叩いた。
金魚がやって来たのが夏の終わり八月末。
さてそれから今日までどれほど経ったか、と指折り数えてそろそろ二ヶ月だと分かる。
この二ヶ月間で、かなは水草を五回も買い直した。
そろそろ水草は要らないと思う私だが、私が飼い主でもなければ水草を啄む姿は可愛いとも思う。
つまり、思ったところで口に出すことはない。
「作ちゃんも水槽が大きいと、大きくなるよ、とは言ってたんですけど……」
うーん、と悩むような声音に私は手を止めた。
金魚を凝視するように、蛍光灯の光を受けて反射する水槽のガラスを凝視して、そこに映ったかなを見る。
中学時代は陸上部だったけれど、高校では美術部と軽音楽部の兼部で日焼けの減ったどちらかと言えば白い肌に血筋で色素の薄い髪と瞳の色が、輪郭をぼやけさせていた。
小さい頃は可愛い姉妹ね、なんて言われていたのだ。
子供の頃の面影を薄らと残しながらも、かなは二学期の身体測定でまた身長が伸びて男の子になっていた。
通った鼻筋をガラス越しに眺めながら、聞き耳を立てて話を聞くが、スマホのスピーカーから聞こえてくる誰かの声は拾えない。
作ちゃん、作ちゃんねぇ……。
聞こえない誰かの声で話の内容がぼんやりとしか分からないせいか、何だか気分が良くなくて、コッコッコッとさっきよりも早いペースで水槽を叩く。
金魚はそんな私に一瞥もくれずに泳ぎ、水草を啄む。
かなが高校三年生になってからよく聞く名前だ。
その前まではMIOちゃんか、美術部の人か、軽音楽部の面々がメインだった。
それがここ最近は作ちゃん、作ちゃん、聞き飽きるほどに――というかもう既に聞き飽きた――聞かされている。
実のところ、この金魚も作ちゃんに貰ったものらしい。
しかし、私はその作ちゃんを写真ですら見たことがなく、見せてもらったことが一度もなかった。
もちろん、普段の会話から作ちゃんの存在で不満を滲ませることがないわけではないが、それを置いてもかなは意図的に作ちゃんを隠している。
毎日話には出て来るのだが、明確に人物を特定されることを拒んでいるのか。
電話口で、へぇ、と感心したような声を漏らすかなは、ガラス越しでも分かるほどに目を輝かせていた。
そうなんですか、とも頷いており金魚が丸々してきたという悩みは解決したようだ。
私が唇を尖らせたところで、かなは「ありがとうございました」と電話口で相手には見えないにも関わらず、頭を下げた。
その後、軽快な電子音が短く響き、私はやっと振り返ってかなを見る。
「誰?」
「うん?犬塚先生だよ」
犬塚、と頭の中でかなの交友関係リストを引っ張り出して捲る。
犬塚、先生、そうだ、高校の先生で担任、それから「生物の先生」両手を打てば、かなはそうそうとスマホを下ろしながら頷いた。
かなのスマホカバーは手帳の形をしているが、端の方が絵の具で汚れている。
かな本人は気にした様子もなくカバーを閉じて「やっぱり本職の人に聞くのが一番だよねぇ」と笑う。
生物の先生であって、別に金魚の専門家ではないのだろうけれど、私もそうだね、と頷く。
実際、かなが聞いたところによれば確かに水槽のサイズに合わせて大きくなることもあるが、基本は餌だ。
とどのつまり、うちの金魚は餌の食べ過ぎ。
もっと言えば、水草は入れなくて良い。
「食べるならむしろ入れない方がいいとか、もっと早くに知りたかったなぁ……」
浅く息を吐いたかなは、リビングのテーブルに置かれた伊達メガネを手に取った。
最初の頃は違和感が強くて似合わない、と苦言を漏らしたそれも慣れた今では思うことは少ない。
邪魔そうだなぁとはつねづね思うけれど。
「痩せるかなぁ」「どうだろうね」眉根を寄せているかなを見上げていると、伊達メガネの奥でリビングの壁に引っかけてある時計を見た。
土曜の麗らかな午後、短い針は2を指している。
外は秋らしく高くなった空が水色で、空気は冷たく澄んでいるが晴れているので心地よさそうだった。
「それじゃあ、俺は絵の具買ってくるから」
案の定、かなは出かけるようだ。
家ではかけない伊達メガネをかけた時点で分かることで、リビングのソファーの背もたれには上着も引っかけられていた。
上着に袖を通したかなは、まだ少し時計を気にしているようで、誰かと待ち合わせをしているのではないかと勘ぐり、問いかけようとして止める。
本質に決して触れさせようとしない、なんなら空想上の友達なんじゃないかと思ってしまうような作ちゃんの名前が出るのは、なんだか許せなかった。
「帰りにおやつ買ってきてね」
ただそれだけ言うくらい、可愛い妹なんだから許されるだろう。
かなを見送って片手を振る。
さて、一人残された私は金魚を尻目に作ちゃんに思いを馳せた。
といっても、恋焦がれるようなものは何もなく、ただひどく不透明な存在に肉付けをするだけだ。
恋焦がれているのは、私ではなく、かな。
かなが作ちゃんを好きなのだ。
本人の口から聞いたわけではないものの、楽しそうに話し、たまにスマホを眺めてニヤニヤしている。
実の兄のそんな姿は、生まれて十数年、初めて見た。
ちなみにそのスマホの中身も私は知らない。
個人情報そのものだが、作ちゃんに繋がる何かをかなはひた隠しにする意地悪な兄ちゃんなのだ。
「まぁ、でも、美人なんだろうなぁ」
ぱくぱく、金魚がこちらを見て口を開閉させる。
私の呟きに何か返したいのだろうか。
「ねぇ、作ちゃんってどんな人?」
***
中学校から早めに帰ってきて、リビングの水槽を覗き込めば金魚が三匹、今日も自由に泳いでいた。
両親ともに仕事で、かなもきっと部活で一人の時間が長い。
リビングのソファーにカバンを放り投げ、金魚達に遅くなったお昼ご飯を与える。
三匹が揃って上を向き、ぱくぱくと餌に食いつく。
その姿を見下ろして、リビングで宿題を片付けちゃおうと思う。
カバンから教科書とノートを引っ張り出し、引っかかって一緒に出てきた紙袋に「あっ」と声を上げた。
紙袋はソファーの上に投げ出され、中身が覗く。
丁寧にラッピングがされたそれはお菓子だ。
市販のお菓子を詰めたお菓子の詰め合わせは、留めてあるリボンにオバケのアクセントが付いている。
ハロウィンということで友達から貰ったものだった。
もちろん、私も似たような詰め合わせをあげた。
元々の趣旨は違うものの、女の子というのは等しくイベントが好きだ――私も好きだ。
その包みを手に取り、教科書達と一緒にダイニングテーブルに置く。
なにか飲み物は、と思うがお湯を沸かしてまでティーパックを使う気にはなれずに、冷蔵庫の中から紙パックの紅茶を引っ張り出す。
コップに紅茶を注いで、ダイニングテーブルでお菓子と一緒につまみながら教科書を捲る。
問題文を書き写して、その下に答えを書いていく。
どれほど経った頃か、ある問題でつまずいて、チョコレートの付いたビスケットを咥えたまま、シャーペンでトントンとノートを叩いた。
「それ、こっちの公式使うんだよ」
数字を睨みつけていると、そんな穏やかな声とともに背後から手が伸びてきて教科書の公式を指した。
「かな!」驚いて大きな声を上げる私に、カバンを肩に引っかけたままのかなは「ただいまぁ」とのんきに言う。
続けざまに「俺も喉乾いたから紅茶飲もうっと」と言って、カバンを持ったままキッチンへ入っていく。
「今日、早くない?」
リビングの時計を見上げながら言えば、かなは間延びした返事をして、冷蔵庫の開く音が聞こえてくる。
コップを取り出す音の次に、紅茶を注ぐ音がして、冷蔵庫の閉まる音。
それから紅茶の入ったコップ片手に戻ってきたかなが、やっと「美術部はなかったんだよ」と答える。
「美術部の活動はなかったけど、作ちゃん達にお呼ばれしてて……」
「作ちゃん、達?」
「MIOちゃんと、文ちゃんと、オミくんもいたよ。あと、犬塚先生も巻き込まれてた」
作ちゃんよりも早くに出会っていたと聞いているMIOちゃんは、作ちゃんとは幼馴染みのようで、文ちゃんオミくんの二人も幼馴染みだと聞いていた。
幼馴染み四人で同じ高校に進んでいると聞いた時には、仲が良いのか、良すぎるのか分からなくなって、相槌が唸り声になった記憶がある。
ちなみに、MIOちゃんだけは写真で見たことがあった。
特徴が赤い髪と言われて、なんだそれは漫画か、というようなツッコミをしてしまい、こんな、と見せられた写真に写っていたのは、確かに真っ赤な髪の女の子だった。
「みんな、イベント好きだからなぁ。俺も好きだけど」
軽く笑うかなは、そのまま紅茶を飲み干し、空になったコップをダイニングテーブルへ置いた。
その隣へカバンを下ろし、中から綺麗にラッピングのされたお菓子を取り出す。
私がさっきまで食べていたお菓子とは決定的に違う点があった。
「だからこれ、のんの分ね」
目の前に差し出され、反射的に受け取ってしまう。
コンビニやスーパーで売っているような既製品ではなく、手作り感しかないお菓子だ。
半透明のオレンジの袋に入っているのは、かぼちゃのカップケーキのようで、ジャック・オ・ランタンのような顔が描かれているものと、コウモリの形をしたチョコレートの乗っているものだった。
「可愛い!」
「だよね〜。俺も思った」
わっと声を上げる私に、伊達メガネを外しながらかなは頷き、親指と人差し指で目頭を揉んだ。
邪魔ならもうしなければいいのに、なんて言うこともなく、私は角度を変えてカップケーキを見る。
「あと、クッキーも貰ったんだけど」
同じようにカバンから取り出されたのは、半透明だけれど紫の袋。
「皿持ってこようか」と言ったかなに、私は急いでダイニングテーブルの上に広げた教科書やノートをまとめていく。
大きめの平皿を持ってくる頃には、ちゃんと教科書とノートを揃えて角っこに寄せていた。
そうして皿の上に並べられたクッキーは、アイシングクッキーで、どれもハロウィンらしい形をとっていて「可愛い!」を繰り返してしまう。
やっぱりジャック・オ・ランタンに、オバケに、コウモリに、チェシャ猫に、ガイコツもいる。
どれも顔が異なっていて、見ているだけで楽しい。
「あれ?これって……」
しかし、私は一つのクッキーに目を止めた。
それからそのクッキーとかなの顔を見比べる。
「俺、です」
頬に手を当てて、てれっ、と効果音が付きそうなはにかみを見せたかな。
三頭身くらいの人型のクッキーは、赤いメガネをかけた笑顔の男の子で、確かにかなだ。
チョコレートのクッキーで制服を作り、食紅を入れて赤くしたクッキーがネクタイのしま模様を作っている。
色素の薄いかなの癖毛も、オレンジ色で作られていて、芸が細かいとはこういうことを言うのだろう。
「ちなみにそれは俺が食べます」
「うん。そうして」
兄を型どったクッキーを食べるのには、少しばかり抵抗があると告げればかなは鼻歌交じりに紅茶の追加を取りに行く。
私はオバケのクッキーをつまむ。
「ちなみにそれ、作ちゃんが作ってくれたから!」
アイシングということもあって、表面がカッチリしていたクッキーは、思いのほか大きな音を立てた。
ポロポロと崩れたクッキーの粉が胸元を汚す。
「作ちゃん達四人でお菓子作ってたらしいんだけど、俺のクッキーは作ちゃんが作ってくれたんだよ」
「……MIOちゃんに押し切られて?」
「そういうこと言わない!」
クッキーを口に押し込めて、咀嚼する。
嬉しそうに言ったかなだけれど、私の言葉に被せるように言葉を続けたので、私の言ったことは真実だ。
かなの一方的な片思いだなぁ、なんて思いながらもう一つ、と今度はチェシャ猫のクッキーへ手を伸ばす。
まだ見ぬ、かなの想い人へ思いを馳せる。
きっと金魚の一匹だって大切にする優しい人だ。
きっとアイシングクッキーのように、自分の意思とか自分そのものを固めた人だ。
きっと芸が細かさから分かるように器用な人だ。
きっとお菓子みたいにかなを嬉しくさせる、甘くて美味しい人だ。
そう信じなくては、自分の大切な兄の幸せを願えないと思っている。
私のコップに紅茶を注ぐかなを見上げ「ありがとう」と笑えば、大きな目が細められて目尻が下がった。
クッキーを齧る兄の嬉しそうな顔を見て、大好きな兄が幸せで私には隠した意地の悪い恋が叶っていればいいと思っている。
もちろん、今のところは、だけれど。