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春の夜

作者: 藤岡柊哉

 また春が来てしまった。緑が芽吹き、匂い立つ春が。今にも崩れてしまいそうな石橋の上、でぼうっとそんなことを思う。きらきらと輝く水面を眺めていると、世界にはまるで日差しが降り注ぐ明るい昼しか存在していないように思えた。笑ってしまう。私の世界は、彼と出会ったあの日からずっと夜のままなのに。

「松葉、こんなところにいたのか。探してたんだぞ」

 背後から突然声をかけられて、はっと我に返る。振り向くとそこには祐介が呆れた顔をして立っていた。

「十四時に待ち合わせのはずだったろう。なのにいつまで経っても来ないから、またどこかで道草食ってるんだと思って」

 ぼやくような口調で祐介が言う。時計を見ると、長針は優に頂点を過ぎ去っていた。

「ごめん、こんな時間だとは思ってなかったの。少し早く着きそうだったから時間を潰すつもりだったんだけど、思ったより時間が経っていたみたい」

「まあいいさ、お前がそうなのはいつものことだしいい加減俺も慣れたよ。早く行こうぜ。映画、始まっちゃうよ」

 祐介は優しく微笑みながら、振り返って歩き出す。栗色のゆるくパーマのかかった髪は、彼――白井のそれとは似ても似つかない。祐介は、白井とはまるで正反対の男だ。日焼け止めでも塗っているのか、肌は病的に白く、服装もファッション誌に載っているようなものを上手に着こなしていて、何というか今風だ。

 私が祐介とつきあい始めてから、もう四ヶ月が経つ。彼は白井のことを知らない。私が白井に身も世もなく恋をし、身を窶したことも、私がその恋を永遠に失ったことも、もちろん知らない。

 白井と出会ったのは二年前の春のことだ。彼は名前とは裏腹に、すべてが真っ黒な男だった。すりたての墨のような黒髪に、よく焼けた小麦色の肌をしていて、飲み込まれるような黒さの服でいつも全身を包み込んでいた。私が今でも夜に縛り付けられているのは、きっと彼が、黒々とした彼の姿が、あまりにも夜に似ていたからだろう。最後に彼と会ったあの日、彼は月明かりの下、若草が萌える河川敷で一人、何よりも濃い闇を生み出していた。私にとって彼は春の夜の象徴であり、あの風景は楔となって私をあの夜に縛り付けている。


   ◇   ◇   ◇

 

映画はひどく退屈なラブロマンスだった。私と祐介は基本的に趣味が合わない。以前も彼が好きだというバンドのライブに一緒に行ったのだけれど、私にはただヒステリックに騒音をまき散らしているようにしか聞こえず辟易してしまった。

「面白かったね。ラストシーンで思わず泣いちゃったよ、俺」

 笑ってしまいそうになるほど陳腐な感想を述べる祐介。適当に相槌をうちながら、私はもう帰りのことについて考えていた。できれば夜になる前には家に帰ってしまいたかった。春の夜に白井以外の男と二人でいるのは、酷く背徳的なことのような気がしたのだ。夕暮れの並木道を退屈そうな顔をして歩く。私の足どりが重たくなるのに気づいた祐介が、不機嫌そうな顔をする。

「また帰りたそうな顔してる。そんなに退屈なの?」

「ごめん、今日はなんか疲れちゃったし解散にしない? 明日も早いし、帰って休みたいなあって」

 彼に嘘を吐くのは何度目だろう。背徳感なんてものを気にしながら、私は誠実とはほど遠い場所にいた。今にも泣き出しそうな気配を漂わせながら、祐介が口を開く。

「最近おかしいよ、松葉。さっきだって俺の話、全然聞いてなかったろ。こうやって遊んでてもずっと上の空だし、すぐに家に帰ろうとするし。何か俺に隠してるんじゃないのか――」

 また始まった、彼の悪い癖だ。自分の思う通り行かなくなると、すぐに癇癪を起こして問い詰めてくる。私は何も答えずに歩き続ける。きっと答えられないし、応えられないから。

「何かあるんならはっきり言ってくれよ。それともお前、まさか、浮気なんてしてるんじゃないだろうな」

「浮気? まさかそんなはずないじゃない」   

 思わず振り返って、声を荒げて反論してしまう。ある意味では浮気より残酷かもしれない、と密かに思う。彼が白井のことを知ったらどう思うだろうか。泣き出すだろうか。狂ったように暴れ出すだろうか。泣いてしまえばいいのだ、こんな奴。私は別に祐介が嫌いじゃなかった。ただ好きでもない、それだけの話だ。私と彼ではこれ以上先には進めないだろう。行き止まりだ。私はあの夜から抜け出せないのだから。

「じゃあなんなんだよ、最近の態度の変わり様は。どう説明できるんだよ」

それは春のせいだ、なんてことはとても言えなかった。これは私の問題であって、彼には関係のないことだからだ。ただ、彼が気にしているのは、その彼とは関係のないことなのだろう。

「私はいつも通りよ、あなたが気にしすぎなんじゃないの。つきあいが長くなれば、そりゃあ態度も少しは変わってくるものじゃない」

「そりゃそうかもしれないけどさ。そういうことじゃなくて、なんかもっと、根本的な何かが違ってる気がするんだよ」

 心がざらりとした。胸の奥深くを透かし見られたような気がして、とっさに口走ってしまった。

「わからないわ、私にはそんなつもりはなかったもの。もしそう感じるんだとしたら、きっと私たち、もう――」

 気づいたときにはもう遅かった。祐介の顔色がみるみる変わっていく。初めはりんごのように真っ赤に、そして徐々におしろいを塗ったみたいに真っ白に。

 私は立ち尽くす祐介に背を向け、逃げ出すかのように早足で歩き出した。心がどんどんざらついていく。彼はきっと追いかけてこないだろう。臆病者なのだ、あの男は。そんなところまで彼とは、といらだちを覚える。何もかもが白井とは違う男。重なる部分がほとんどないからこそ、彼は不在者の輪郭をよりはっきりと意識させてしまう。嘘みたいな色の夕暮れの中をずんずん進みながら、頭の中で二人の男を見比べてみた。真っ黒な白井。真っ白な祐介。寡黙な白井。饒舌な祐介。決して私を愛さなかった白井。決して私に愛されなかった祐介。二人の間で似通っていることは、私がいなくても生きていけるだろうということ、ただそれだけだった。


   ◇   ◇   ◇

 

いつの間にか頭の中は白井のことでいっぱいになっていた。私は白井の本当の名前すら知らない。ただ彼がそう名乗ったから、そう呼んでいただけで。彼と会えるのは夜中の河川敷だけだった。初めて彼を見つけたあの夜から、私は彼に惹かれていた。二年も前の話だ。そのころの私はまだ若く、未熟で、ひどく不機嫌な心を持っていた。だからこそ、退屈な日々を打ち壊してくれそうな存在に溺れていたのかもしれない。毎晩のように家を抜け出しては、夜の河原へと駆けていく。真っ暗な闇夜の中で、特に黒々とした歪みを、そこにいるはずの彼の姿を捜し、他愛ないことを話した。白井は自分から口を開くことは少なかったが、じっと私の話を聞いてくれた。彼がどこに住んでいるのか、こんな夜中に河川敷で毎晩何をしているのか、私は何も知らなかった。それでもよかった。私は溺れていたかったのだ、不安定な私を満たしてくれる、幸福な非日常に。直視するにはあまりにも眩しすぎる現実から目を逸らして、春の夜に深く、深く沈んでいくのが、心地よかった。

最後に彼と会った日のことを、今でもはっきりと思い出せる。ほんの少しだけ欠けた月の下で、彼はいつものように淀んだ黒さでそこにいた。萌える若草の間を抜けた春風が、私たちに覆い被さる。言うべきではなかった。好き、だなんて陳腐な言葉を。聞くべきではなかった。ありがとう、だなんて残酷な返事を。泣きそうなくらい月が綺麗だったので、私はきっと何か勘違いをしてしまったのだろう。ただ溺れていられればそれでよかったのに、春の夜の深淵に手を伸ばしてしまった。届きやしないと、わかっていたはずなのに。

本当はあの日、未熟な私の春は小さな絶望と共に終わるべきだったのだ。それなのに私は、その絶望から逃げ出してしまった。怖かったのだ。エンドロールが流れ始めることが。春の夜を、あの日々を終わらせたくない一心で、必死でその場から逃げ出した。卑怯者だ、好きな漫画の最終巻だけ読まなければ、いつまでも物語は続いていくと思っていたのだ。ハッピーエンドを望むあまり、それ以外のエンディングを放棄してしまった。その罰がきっと今の私だ。私は永遠にあの夜に囚われている。再開なんて選択肢はない。もう二度と白井が春の河原に現れることはなかった。


   ◇   ◇   ◇


ふと我に返ると、知らない住宅街を歩いていた。祐介の姿はどこにもない。もう二度と彼と会うこともないかもしれない。後悔はなかった。我ながら酷い話だ。祐介は結局弄ばれただけだった。傷を負った女が、傷をふさぐのに躍起になって、向けられた好意を利用したのだ。自分のことでなければ、どれだけ最低な女なんだと罵っていたことだろう。淡く春の夕闇が漂う街で、ごめんね、なんて独り言ちる。卑怯者だ。結局私はまた逃げ出しただけ。きっとこれから先も、私は色んな人と出会うし、色んな人と並んで歩くだろう。そのたびに私はあの夜を思い出す。絶望的な罰だ。詰まるところ、どこまで進んでも私はあの日に引き戻されてしまう。続きの頁のないあの春の夜に。

なにはともあれ家に帰る必要があった。どっぷりと日が暮れゆく街を一人歩く。ぽつりぽつりと家の窓から明かりが溢れ始めていた。元々やってきた方向へ引き返していくと、見覚えのある道にようやく戻ってくることができた。やっと家に帰れそうだ、と安堵して歩き出すと、目の前に不意に男の影が現れる。それがもう二度と会うことはないだろうと覚悟したばかりの祐介だと気づくまでに少し時間がかかった。

「やっとみつけた。どんどん進んで行っちゃうもんだから見失っちゃってさ」

いつもと同じ優しそうな笑顔で祐介は言う。心なしか瞳が潤んでいるように見えた。

「あのさ、さっきのは俺が悪かったよ。ごめん、考えなしに酷いこと言って」

はにかむように祐介が言う。私はどうしたらいいのかわからなくなって、泣き出してしまった。なにが悲しかったのか。それともなにがうれしかったのか。私にはわからなかった。

「泣くことないだろ、ほら、ハンカチ」

「ごめん、ありがとう」

声にならない声で返事をしながら、若草色のハンカチを受け取る、顔に当てるとそれは春の匂いがした。あの春の夜を思い出す。その罰ですら、私の罪なのではないか。罰を言い訳にして、過去に依存し、心地よい停滞を貪る罪。私はきっとエンドロールに縋り付いていただけなのだ。私にもきっと祐介を愛することができる。白井を愛したのと同じように。春の夜の空を見上げると、ほんの少しだけ欠けた月が、泣きそうなほど綺麗な顔で佇んでいた。


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